詩の書き方を求めて


 詩を書き始めてから四半世紀以上になるが、いまだにこうすれば詩が書けるという方法論を持たない。そのくせ、詩を書きたい、書かなければならないという、妙な切迫感のようなものにずっと追い立てられている。そして、それが命じるままに詩を書こうとしても、大抵はうまくゆかないのだ。書きたいという欲望がいつもありながらたまにしか書けないのだから、私にとってそれは、長く辛い時を耐えぬくこととほとんど同じだ。
 書き方というものを持たずに詩を書きつづけてきたのは、書き手としては情けないことであるのかもしれないが、思うに、私の詩の歴史は詩の書き方を求めつづけた歴史であったのではないか。実際、様々な書き方を試して来た。現代詩という多様な形式の詩が林立する場において、様々な書き方を試みるのはある意味当然のことなのだが、同時にそれは、詩へとつながる回路を求めてきたことと等しいように思える。つまり私は、詩というものの本源を求めて必死にあがきつづけてきたのであり、試行錯誤して書き方を求めてきたのは、じかに詩に触れる方法を探ってきたのだ。
 私は詩に触れたいと強く願う。だからこそ、詩を書きたい、書かねばならないという思いに捉えられていたのであり、おそらく私のそんな欲求は詩を通して世界を掴み取りたいということを意味しており、私なりのせいいっぱいの世界への参入の仕方でもあったのだ。そうであるならば、確実に詩を書ける方法論など持ちようがない。詩と同じく世界も広くて奥深い。私のような未熟な者に、そう簡単に掴み取れるはずもないのだ。
 私は今日も、詩を書きたいと願いながら書けずにいる。それは詩を通して見る世界の姿が、私にとっていまだに謎めいていることの新たな証明であるのかもしれない。



(横浜詩人会用ボツ原稿)


(二〇一〇年二月)



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