詩を捧げるということ


 誰か特定の人に捧げられた詩というものは多い。その対象も死者であったり恋人であったり友人や知人であったり会ったことのない歴史上の人物であったりと、実に様々だ。中には大岡信のように、そうした詩だけを集めて詩集を編む詩人もいるほどだ。
 かくいう僕も、これまで多くの献呈詩を書いてきた。自分ではそれほど多くはないだろうと思っていたのだが、いつの間にかそうした詩の数が溜まってきてしまったようだ。何といっても、三年前に実の妹を亡くしたことが大きいと思う。それまでは、誰かのために詩を書くことに対して疑念のようなものが自分の中にあった。現代詩の献呈詩の多さに驚き、その対象のほとんどが同じ詩人仲間や芸術家、編集者などであるのを見るにつけ、読者を置き去りにした仲間内だけの遊びのように映ってしまっていたのだ。だが、妹の死という厳しい現実に直面することによって、妹のために詩を書きたいという思いがごく自然にわき上がってきた。そうして書き上げた詩が、いつの間にか溜まってきていた。昨年刊行した第一詩集にはそのうちの二篇を収録したが、詩集全体を妹に捧げた。それ以来、自分の中で詩を捧げるということへの抵抗感が、以前よりもだいぶ薄らいできているような気がする。現在も妹のために詩を書きつづけているし、つい先月には、萩原朔太郎という自分にとっては歴史上の人物にも等しい詩人に捧げる詩を書いたばかりだ。
 思うに、誰かのために詩を書くという行為は、「私」から「公」への転移のパターンのひとつであるのだろう。自らが体験したきわめて私的な事実を、他人が読んでも違和感のない公的な「作品」へと昇華させる。考えてみれば至極当然のことであるが、妹の死とそれについての詩作を通して、そんなことを学んだような気がする。



(横浜詩人会用ボツ原稿)


(二〇〇七年五月)



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