平準化する世界に対抗するために


――池袋ぽえむぱろうる閉店に寄せて



 詩のことについて考える。自分が詩を書いているということについて、その意味を考える。詩を書くことに意味はあるのか? あるといえば、ある。ないといえば、ない。はっきり言えばよくわからない。だが、自分が詩が好きであるということはわかる。その、「好き」という思いを足がかりにして、いろいろと考えてみたい。
 二〇〇六年四月三十日、池袋にある詩の本の店「ぽえむぱろうる」が閉店した。当日、僕は友人と待ち合わせて行ってみた。ぱろうるの最後を見届けてやろうと思った。店内の棚は既にがらがらで、全品半額になっていた。段ボールに入れられた本は五〇〇円や二〇〇円で売っていた。もう明らかに閉店間際の在庫一掃セールである。いつもぱろうるに来ると客の数は多くて三、四人だったのだが、この日は十人以上の客が狭い店内をうろうろしていた。二桁の客がぱろうる店内にいる光景というのは初めて見た。やっぱりみんな閉店を惜しんでいるのだなと思い、ほんの少し感傷的な気分になったりもした。僕は神奈川県内に住んでいて、東京都内に出て来る時は小田急線一本で行くので、ここ数年は面倒な気持ちも手伝って詩集を買うにしても新宿の紀伊國屋書店で済ませたりしていた。まさかぱろうるが閉店するなどとは夢にも思っていなかったので、いざという時はぱろうるがあるからいいやみたいな気楽な気持ちで構えていた。それが本当にぱろうるがなくなってしまうとは。こんなことなら、多少面倒でも都内に行く度にぱろうるに寄っておけば良かった。ごめんよ、ぱろうる。いつも君がいるから、何となく安心していたんだ。だが、後悔してももう遅い。ぱろうるは閉店した。なくなってしまったのだ。
 世界の平準化ということについて考える。特に今回のぱろうる閉店のようなことが起こると、考えざるを得なくなる。
 詩は無用のものである。詩に意味などはない(いや、あるのかもしれないが、よくわからない)。詩に関係のない一般の人々にとって、この世に詩というものがあろうがなかろうが、どうでもいいことである。ましてや、詩の本の店が閉店しようが、それを僕等がいかに惜しもうが、知ったことではない。そう。世間というものはいつだってそうだ。自分と関係のないものに何が起ころうと知ったことではないのだ。そうだ。そういうものなのだ。
 だが、僕はここで立ち止まる。立ち止まって考える。詩が好きであるという自らの思いに即して考える。
 二十一世紀に入ってから、世界はどんどん平準化しているように感じる。何だかわからないけれどもグローバルな一定の価値観というものがあり、誰もがそこに向かって収束してゆく。いや、収束させられている。グローバルな価値観が無用であると定めたものはどんどん周縁に追いやられ、ますます無用なものとして誰からも顧られることのないものと化してゆく。世界の多様性は反故にされ、ただ一色の「正義」で塗り固められてしまう。たしかに、人々が同じ価値観を共有していれば楽だろう。みんなが「良い」と言うものに従っていれば何となく安心出来る。自分だけの価値観を探す苦労も手間も省けて、何となく社会に参加しているような気分になれる。だが、それでいいのだろうか? それだけで、本当にいいのだろうか? 考えるのをやめ、ただ何となくグローバルな価値観に従っているだけの状態というのは、本当に生きていると言えるのだろうか?
 唐突だが、エントロピーという概念がある。物理学の用語で、僕はその方面には疎いのでよくわかっていない面もあるかもしれないが、要はこういうことである。熱湯をそのままの状態で放っておくと、やがて普通の水と変らない温度になる。熱湯が熱湯でいつづけるためには、それを常に温めつづけなければならない。同じく、生物がその生命活動を維持するためには、外からエネルギーを摂取しつづけなければならない。人間も、動物も、あまり長い間食事を摂らずにいると餓死してしまうのだ。
 このエントロピーの概念を、これまで語ってきた問題に当てはめて考えてみる。人々が自ら考えるのを放棄し、それぞれの固有の価値観を探索することをやめてグローバルな価値観に自らを合わせていこうとするのは、熱湯が水になってしまうのと同じく、人間が餓死してしまうのと同じく、エントロピーの法則に従って自ら死にゆきつつある道を選ぶことではないだろうか。楽な方に流れて、何となくみんなと同じものを選択しているうちに、いつかとんでもないことになってしまうのではないだろうか。
 そうした世界を平準化に追いやる怠惰さを、僕は許したくない。人は怠惰であってはならない。怠惰であるということは、自ら死に積極的に加担することと同じなのだ。それは個人の死に限らない。それは文化の死、世界の死である。
 思えば、閉店が決まる前一年ぐらいのぱろうるは、以前と比べて品揃えが悪くなっているように見えた。それを思うと、閉店も成り行きどおりだったのかもしれない。ぱろうると言えども、世界の平準化する大波には勝てなかったということなのだろうか。もちろん、ぱろうるとて詩を提供する場のひとつに過ぎない。ぱろうるが閉店しても、都内の大型書店などに行けば相変らず詩集は売られているし、世界中のあちこちで詩は書かれ読まれているのだ。だが、僕にとっては、ぱろうるの閉店というのは、詩が世間から忘れ去られ、マニアの玩弄物に成り下がってしまったことを象徴するような出来事に見えてしまう。
 平準化する世界の中で、人々は何となく息苦しい思いを感じながら、それでもその息苦しさの原因が何なのかわからずに、ただ日々を消費しているだけのように見える(僕には、そんなふうに見えて仕方がない)。詩に意味があるかどうかはわからない。だが、僕自身の詩が好きであるという気持ちはわかる。意味があるようなないようなわけのわからないものだからといって、詩を「いらないもの」にされてしまったらたまらない。たしかに少数ではあるかもしれないが、世界には詩を愛している人が確実に存在しているし、彼等は詩を書き、詩を読み、詩について語るのをやめはしない。平準化する世界に対抗するために、詩を愛しているという思いを、今後ますます強くして生きたいと思う。


(二〇〇六年五月)



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