「幽霊」についての私的覚書


 昔、一九九八年から九九年にかけて「夜、幽霊がすべっていった……」という連作を書きついでいたことがある。後に「現代詩フォーラム」に投稿し、個人サイト「21世紀のモノクローム」にも掲載した。
 いまさらこんな昔に書いた連作詩のことを思い出したのは、少し前に、草野心平についての文章を書いたことがきっかけになっている。僕にとっての「幽霊」は、草野心平にとっての「蛙」と同じようなものなのではないだろうか。そんなことを思ったのである。草野心平には、詩集『第百階級』に収められているもの以外にも、多くの「蛙」の詩がある。僕の場合、「夜、幽霊がすべっていった……」の連作を書いた後すぐに「月曜日の幽霊」という長い物語詩と、連作の後しばらく経ってから、「私の隣に幽霊が座っていた」という同じく「幽霊」をテーマにした詩を書いている。今回たまたま草野心平についての文章を書くことで、自分が昔書いた連作を思い出し、そこにある種の共通したものを見出したような気がする。もちろん、自分と草野心平を比較するなどおこがましいと思うし、僕があの連作の後に書いた「幽霊」の詩は前記の「月曜日の幽霊」と「私の隣に幽霊が座っていた」だけであるから、比較すること自体が間違っているのかもしれない。だが、「幽霊」は他のいくつかのテーマとともに、僕にとって大きなテーマになりうるという予感めいたものがあることは事実だ。今後、「幽霊」についての詩を量産することも可能だろうとも思う。そうして「幽霊」の詩を書きついでいくことで、僕にとっての「幽霊」が草野心平の「蛙」と同じようなものになることも可能かもしれない。
 作者が自作について解説めいた文章を書き記すのは、もしかしたらやってはいけないことなのかもしれない。作者は作品を公衆の面前にさらした時点で、自作について口を差し挟むのを諦めるべきなのかもしれない。だが、連作「夜、幽霊がすべっていった……」に関しては、個人的に言っておきたいことが少なからずあるので、ここではそれらを書き記すとともに、自分にとっての「幽霊」というテーマについても、何がしかのことを語っておきたいと思う。
 まず、幽霊というと、人に対して恨めしくて出て来るものであり、人間にとっては恐怖の対象以外の何ものでもないという、そんな固定観念がある。僕が連作「夜、幽霊がすべっていった……」を書くに当たって思ったのは、そうした世の中に流布している固定観念を崩したところから書き始めたいということだった。「幽霊」ではなく「超自然的な恐怖」がテーマだったらありえないようなソフトなタッチの詩(たとえば「忘却」や「物語」など)も、僕はこの連作の中に収めている。そこにあった僕の狙いは、「幽霊」を「恐さ」を通して見ることではなく、「淋しさ」を通して見ることにあった。「幽霊」を「死んでしまった者」として捉え、「死んでしまった者」は人々の記憶から少しずつ忘れられてゆく宿命を持った存在であると規定した。そこに、「淋しさ」という感情が立ち表れてくるのだ。その「淋しさ」を核にして、「幽霊」であるがために自然に身につけた反社会性や、人々に恐怖を喚起させる特性を配置した。そのようにしてこの連作は書き進められた。
 もう少し詳しく言うと、それら淋しい幽霊たち、誰からも顧みられることのない幽霊たちを、詩の中で慰めてやりたいという思いが、僕の中にあった。幽霊たちは自分ではどうすることも出来ない淋しさを抱えて、その一方で淋しさと同時に不満や怒りも抱えている。ある意味では、幽霊は反社会的とも言える存在である。既成の社会の枠からはみ出した存在は反社会的であり、幽霊もまた例外ではない。むしろ、僕自身が日頃から感じていた淋しさや社会への不満や怒りを、「幽霊」というはかない存在に託して書いたという方がより正確である。つまり、僕の中の「幽霊」とは、社会から容れられずに淋しさと不満を抱えた者の象徴なのだ。
 最近「勝ち組・負け組」などという言葉がマスコミを通じて人々の間に行き渡っているが、僕はそうした単純に人に白黒つけるような価値観には真っ向から対立する。そのような考えを、僕はどうしても容認することが出来ない。「幽霊」というのは、そうした社会の中での過酷な競争から脱落したいわば「負け組」である。だが、「負け組」だからといって、単純にその存在を全否定していいわけがない。人にはそれぞれにその人固有の事情や物語があるのであり、そうしたそれぞれの取替えの利かないものを、社会の最大公約数の中の単純な二元論の価値観に収束してしまってはいけない。こうした思いがあるからこそ、僕は「幽霊」を召喚し、それに「淋しさ」という衣をまとわせるのだ。
 自分でも困った奴だと思うのだが、僕は人一倍頑固な性格であり、そのため、前記のような個人を軸とした考えを変えるつもりはない。これから先、僕はまたあの連作を書いていた頃と同じように、多くの幽霊たちを詩の中によび出すことになるのだろうか。それとも、「幽霊」という象徴を捨てて、より私的な詩文の方に向かうのだろうか。いずれにしても、個人が社会の中で感じる淋しさ、その軋むような音を聞きつけて、詩の中に定着させるということをやめはしないだろう。「淋しさ」という、人類の根源的な感情を掬い出し、どこかの夜の隅でふるえている、誰からも認められていない「幽霊たち」を救い出すために。


連作「夜、幽霊がすべっていった……

(「現代詩フォーラム」では「夜、」「幽霊が」「すべっていった……」の三篇が「夜、幽霊がすべっていった……」として、「第一の幽霊」「第二の幽霊」「第三の幽霊」の三篇が「幽霊たち」として、それぞれ一篇として投稿。「水の中の目醒め」「UFO」の二篇は拾遺詩篇)

連作「その他の幽霊

(「夜、幽霊がすべっていった……」以降に書いた「幽霊」についての詩)


(二〇〇六年二月)



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