異常な時代に抗する言葉


〈前書き〉
 この散文は「現代詩フォーラム」に発表した時、さまざまな形で論議を呼んだものです。特に文章の前半の現代を異常な時代であると定義した部分につっこんでくる人が多くて、正直面食らいました。自分としてはそんなの当然じゃんという意識で、ごく当たり前のこととして何気なく書いたのですが、ひとつひとつの反論に律儀に答えているうちに精神的に疲弊してしまいました。いまでも何故現代を異常な時代であると定義してはいけないのかわかりませんし、自分のこの考えを撤回するつもりもありません。ただ、世の中にはさまざまな考えの人がいるのだということを、いまさらながら改めて思い知らされました。
 後にそれらの反論への答として、「異常な時代に対する最終弁明 ―または、直観の疾走者」という文章を書いて「現代詩フォーラム」に投稿しました。これは「現代詩フォーラム」内での論争がなければ書かれなかったもので、その性質上、当サイトにアップする予定はまったくありません。僕自身の個人サイトであるここにアップすれば、論争相手に対して失礼に当たるし、事情を知らない人がいきなりここでそれを読んでもわけがわからないだろうという配慮からです。ただ、論争の火種となった「異常な時代に抗する言葉」はそのような論争を予期して書かれたものではなく、僕自身の詩作に対する決意表明という性格の強い文章であるため、個人サイトにアップしても差し支えないと判断しました。
 なお、「現代詩フォーラム」での「異常な時代に抗する言葉」のページはこれです。同じく「異常な時代に対する最終弁明 ―または、直観の疾走者」のページはこれです。興味のある方はお読みになってみてください。

 いまさらながらだが、まったくおかしな時代になったものだと思う。恐らく多くの人が感じていながら、それでも黙っているのだろう。二十一世紀という現代に生起する現象、人の思惑同士が交差し合い、とんでもなくおかしな事態が出来してしまう。人が人を傷つけ、時には命を奪いさえする。それもさしたる理由もなしに、だ。昔だったら、貧困でやむにやまれず犯罪を犯すというパターンが多かったのだが、現代においては、昔の基準では理解しがたいほどに人の心が捩れ始めている。
 犯罪という、目に見え形に表れるものだけではない。どこか人の心がぎすぎすして、誰もが余裕をなくし、必要以上に急いでいる。目先のことに囚われ、遠くのものを見ようとしていない。誰もが自分の足元だけを見て、他人を見ていない。そこから礼儀も尊敬も、すべての良き心が失われてゆく。そんな異常な時代に対応するため、新しい言葉やモノが次々と発明され、それらは急速に社会に浸透してゆく。逆ギレ、セクハラ、ストーカー、女性専用車両。みんな昔は存在しなかった言葉だ。
 この異常な時代、人心が荒廃し、一寸先が見えないもやもやした不安に包まれる時代に、詩を書く者はどう対処していけば良いのだろうか。飯島耕一は「現代詩手帖」2005年1月号の鼎談で「バス停に五分間立っただけで、ひどい世の中ってわかる」と言っている。同時に飯島は「世界に対するとか、時代に対するとかそんな言い方がもう役に立たないような難しい時代にいまは突入している」とも言っている。
 いったい、どうすればいいのだろうかと思う。この時代に生きて詩を書いている人間として、自らの言葉をどう扱っていけば良いのかわからなくなることがある。そんなに難しく考えなくてもいい、ただ楽しんで書けばいい、そう言う人もいるだろう。わかっている。難しく考える必要などない。ただ楽しめばいい。だが、それでも、何か納得のいかない思いが残る。ただ楽しんで書いているだけでは、異常な時代に目を背けて、詩という遊びの中に逃げこんでいるだけではないのだろうか、とも思う。もちろん、ただ楽しみたいだけの人はそれでいい。自分なりのやり方で楽しめばいい。それだけだ。
 言葉で上手く言い表すことが出来ず、定義づけることも出来ないのだが、この異常な時代にこそ、時代に対抗するような言葉をつづるべきではないだろうか。それは政治からも宗教からも離れた(だから、それは昔のプロレタリア文学のようなものではありえない)現代という個人主義の時代にふさわしい「個」の言葉で、時代に対抗するのだ。誰かの物真似ではなく、ただ自分の言葉を書きつづること。そのことで時代の異常さに立ち向かいたい。それが詩としてどんな外見を持っているのか、それはわからない。だが、少なくとも、ただ綺麗なだけの抒情詩や折り目正しい定型詩ではないだろう。そんな言葉では、時代に対抗することなど出来はしないだろう。もっとぶざまで、ごつごつとしていて、手で掴めばその重量が伝わるような言葉、そんな言葉で詩を書きたい。格好悪くても構わない。定型にはまらず、美しさに逃げずに、自分の言葉をつくり出したい。この異常な時代に対抗するために、言葉という楔を打ちこみたい。それが、いまこの時代に詩を書く人間としての、僕の最大の望みだ。


(二〇〇五年八月)



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