詩人の罪


 本当は、こんな文章を書くべきではないのかもしれない。ましてやそれを発表するなどということは、絶対にしてはいけないことなのかもしれない。だが、時には書かなければいられないこともあるし、書かなければならないものが僕を待っている、そんなこともある。
 妹のことについて、書きたいと思う。ちょうど一年前の春、桜の花が咲く季節に、妹は死んだ。わずか三十三年の人生だった。妹と僕は、まるで友達のように仲の良い兄妹だった。どんな時でも僕の味方をしてくれた。その妹が死んだ。僕は突然一人っ子になってしまった。
 それ以前、妹が亡くなる前の数ヶ月間、僕は詩作においてスランプに陥っていた。駄目なものしか書けないのならまだ良いが、まったく書けず、アイディアも何も湧いてこなかった。ところが、妹が亡くなった途端に、僕の中に詩が降りてきた。妹を亡くした直後だけに、テーマは自ずと妹の死に絞られていた。僕は妹を亡くした空虚感をごまかすため、またはなだめるため、それらの着想に従って詩を書いた。妹の死にひきずられて書いたのではだめな詩になる。そう考えて、なるべく感情を抑えて、冷静に書こうとした。春から夏、そして秋にかけて、僕は妹の死だけをテーマに詩を書きつづけた。意識してそうしたわけではない。妹の死から離れて別のテーマで書こうとしても、妹の死が無理矢理に僕の書くものの中に押し入ってきた。その頃の僕は、どうあがいても妹の死から逃れられずにいた。いま考えれば、そうして妹の死だけをテーマに書きつづけることが、大きな喪失体験を味わった僕にとっての、心のリハビリテーションになっていたのではないかと思う。
 そうして書いた詩が二十数篇。なるべく冷静に、感情を抑えて書こうとしたのだが、それらの詩の中には、どうしても拭い去ることの出来ない感情が、べっとりと血糊のようにこびりついていた。落ち着いて読み返してみると、ほとんどが読むに堪えない代物だった。だが、その中でもわずか数篇は何とか詩としての強度を保っていた。僕はそのようやく救い出した数篇のうちの二篇を「現代詩フォーラム」に投稿した。「墓地の壁」と「駈けていった」がそれである。
 いまこの時期に書いた詩を読み返して、思うことがある。書いていた当時もぼんやりと思っていたことだが、それは、詩人の罪ということである。
 人が死ぬ。その人の近くにたまたまひとりの詩人がいて、その人の死をテーマに詩を書く。人の不幸をきっかけに、一篇の詩が生まれる。皮肉なことではないだろうか? その昔、自然主義文学や私小説が盛んだった頃、小説家たちは自分の周囲の不幸や醜聞をネタに小説を書いた。それと同じようなことが、詩の周囲でも起こっている。人が死ぬ。それをテーマに詩を書く。新しい詩が書けたことに詩人はほくほくする。一丁挙がりである。人の不幸を元に書くという、詩人の罪。詩を書く者は、みな多かれ少なかれ、知らず知らずのうちにであるとしても、そうした罪を犯しているのではないだろうか。だが、詩人は自らの周囲にそのような事態が起こった時、それをテーマにして書かずにはいられない、因果な人種である。それを、人の死をテーマにすることに対して、心のどこかで罪悪感を抱いていたとしても、詩人は書かずにはいられない。人の死という事実が、詩人を無理矢理かきたててしまうのだ。
 人の死をテーマに詩を書くことは良くないことだ、という意見がある。僕にはその真意を推し量ることは出来ないのだが、こうした意見に接すると、僕の中でもやもやした納得のいかない思いがわき起こってくる。何故、人の死をテーマにしてはいけないのか? 死者に対して失礼だからか? 読者にとっては何の関わりもない他人の死について語られても、しらけるだけだとでも言うのだろうか? 
 推測される第一の理由に対しては、はい、その通りです、と答える他ない。だが、先にも述べたように、詩人はどうしてもそのことについて書かずにはいられないし、心の隅で罪悪感を感じてもいる。また、自分が書くことによって、死者へのせめてものはなむけになれれば、という思いもある。だが、僕が納得のいかない思いに立ち止まってしまうのは、推測理由第二についてだ。こうした理由で人の死をテーマにした詩を否定する者には、僕は真っ向から対立する。このような意見を述べる者に対して、僕は言いたい。それでは、あなたは身近な人の死に出会ったことがあるのか? と。僕はどうしても感情を優先して物事を考える傾向にあるのだが、こうした意見を述べる人間が時にとてつもなく冷徹であるように思えることがある。自分の身近で人が死ねば、それをテーマに詩を書かずにはいられない、そんな感情が、多くの詩人のうちに眠っているのではないかと思う。人の死をテーマにした詩を否定する者は、ただ単に身近な死者に出会っていないだけなのではないか? そんな疑いをどうしても持ってしまう。
 つい感情に押し流されて、筆が先走ってしまった。だが、やはり納得がいかない。人の死をテーマにした詩を否定するという考えは、どう見ても僕とは相容れない考えだ。確かに詩を言語芸術として考えるならば、身近な者の死をテーマにすることは危険な行為である。詩がどうしても感情に押し流されてしまうからだ。だが、最大限の努力を払って感情を制御し、詩という表現のうちに踏みとどまろうとすれば、こうした問題は回避し得る。個からマスへ。個人の体験を万人に納得し得るものとして普遍化すれば良いのだ。もっとも、それは大変困難なことではあるのだが。
 僕はまたしても罪という考えに立ち止まる。やっぱりこんな文章を書くべきではなかったのかもしれない。だが、僕はこの文章を書き、発表する。そのことによって、妹の魂が少しでも安らかになれるようにと願いながら。
 こうして、僕はまたひとつ罪を重ねる。


(二〇〇五年三月)



 戻る   表紙