淋しいうた


 僕の書く詩には、淋しさを表現したものが多い。怒りや喜びなど、淋しさ以外の感情を表現したものや、感情の表出を抑えた冷静な詩風を目指したものもあるが、淋しさという感情が僕の詩を貫くひとつの鍵になっていることは明らかだ。
 喜怒哀楽という言葉がある。人間の持つ様々な感情をひとつの言葉で言い表したものだが、僕にとっては、この中に淋しさという感情が入っていないことに多少の違和感がある。「喜」と「楽」は似たような感情だから、どちらかひとつにまとめて、「喜怒哀淋」または「喜怒哀寂」とした方がずっとしっくり来る。
 思うに、淋しさという感情は人間にとってもっとも根源的な感情なのではないだろうか(淋しさに加えて恐れもそうかもしれない)。昔から人間は群れをつくり、集落を形成し、村や町をつくって、肩を寄せ合って暮らしてきた。人間は誰もが淋しがりやで、誰も自分ひとりだけで生きていくことは出来ない。失恋した人などに対してよく言われる「ひとりでも何とかなる」などという言葉は、単なるまやかしに過ぎない。誰もが淋しくて、誰もが人恋しいのだ。
 また、淋しさが人間にとって根源的なものならば、その感情は宇宙全体に広がっているものなのではないかという直観もあった。もし、実際に宇宙空間にたったひとりで取り残されたならば、その淋しさは人の心を押しつぶしかねないほどに巨大なものとして迫ってくるのではないだろうか。そんな思いもあって、「氷った男」「待つ男」のような、宇宙的な規模の淋しさをテーマにした詩を書いてきた。
 淋しいのは、他人の心から自分が忘れ去られることだ。人は実に多くのことを忘れる。忘れることで、日々の生活に対処してゆく。その時の日常の中でとりあえず大切なもの、忘れるべきではないものを記憶に留め、いままでの人生の中で強烈に焼きつけられた記憶や、長い年月が経過しても本人が忘れたくないと判断したものは、忘れることなく心の中に留まりつづける。だが、同時に人は忘れても良いもの、忘れてもとりあえず支障はないものは、ぽろぽろとこぼれ落ちるように簡単に忘れ去ってしまう。そうした記憶の取捨選択は、人が生きてゆく上で自然に身につけた一種の生活術のようなものなのだろう。だが、もしもどこかに淋しい人がいて、ある特定の人に対して自分のことを忘れてほしくないと願っていたとしても、その相手はその人のことをとうに忘れ去っているかもしれない。そんな忘れ去られてしまった人は悲しい。悲しくて淋しい。多くの人の心に留まりつづける人は強者であり、誰からもすぐに忘れ去られてしまう人は弱者だ。輝かしい強者のことをうたったとしても、その詩にいったい何の意味があるだろう。僕は忘れ去られてしまった淋しい弱者についてうたいたい。それは特定の誰かではなく、世界のあちこちの片隅で溜息をついている、無数の誰かなのだ。
 時には道端の石ころや水道から漏れる一滴の水でさえも、そこに淋しさを感じ取って僕はうたう。世界中に、宇宙のそこかしこで、淋しさはひとり溜息をついてうずくまっている。あらゆる名づけられることのない淋しさについてうたうこと。それが僕にとっての詩の正義であり、僕が詩を書く最大の理由だ。いつの日か、僕の詩が世界の片隅で溜息をついている淋しい誰かの心をふるわせることが出来るのなら、僕と僕の詩にとってこれに勝る喜びはない。


(二〇〇四年十月)



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