セロファン越しの世界


 ある日の夕方、いつものように仕事から帰って電車を下りると、空を一面雲が覆っていて、そこに沈みかけた日の光が射しこんで、あたり一面が実に幻想的な光景に包まれていた。夕日が雲を薄いオレンジ色に染めて、地上にも同じ色がわずかながら届いていた。まるでごく薄いオレンジ色のセロファンを通して風景を見ているような、かすかな酩酊感をともなう光景。自然の神秘が造り出した芸術。
 だが、その幻想的な光景に目を奪われている人などほとんどいなかった。いつものことだが、月がいつもより赤みがかって不気味に輝いていても、冬の晴れた夜に星が美しく瞬いていても、人々はただ足早に家路を急ぐか、自分たちの狭い世界の中に閉じこもって、空を見上げようとはしない。もったいないことだと、いつも思うのだ。自然がせっかく壮大な美しい光景を見せているというのに、人はそれに気づきもせずにただ通り過ぎてゆく。何故、空を見上げようとしないのか。たったの十秒かそこらで良い。空を見上げさえすれば、心の中に抱えこんでいた苦い思いは一時的にせよ一掃され、晴れやかな気持ちはますます晴れやかになるというのに。十秒ほどの時間を費やすだけの余裕すらないのだろうか。それほどまでに、時間がもったいないのだろうか。そんな心の余裕をなくした人の時間とは、どれほどまでに貴重な時間なのだろうか。
 いつでも自然に対して畏怖し、賛嘆する気持ちを忘れたくないと思う。いいかげんいい年をして、浮世離れしたことを言うなと叱られそうだが、こうした気持ちは人が文明を造る以前からずっと持ちつづけてきた財産であり、人が決して失ってはいけない根源的な感情だと強く思う。もしも人が、文明の中で、その中の日々の生活の中で、それを失ってしまったとしたら、それは人の姿を借りた何か別の者、人の抜け殻に過ぎないのではないだろうか。
 さて、セロファン越しの幻想的な風景についてだ。その薄いオレンジ色が広がる光景を見ていて、ふと思った。人もまた、日々の生活の中で、このようにセロファン越しに世界を見ているのではないか。人それぞれ少しずつ違うけれど、人はみな大なり小なり、自分が決めた価値観に沿って生きていて(それが一般社会の価値観と相容れないことも大いにあり得る)、そうした価値観を曲げようとはしない。みんな頑固に自分の考えを持ちつづけていて、その価値観を他人から否定されると、むきになって反論したり、意固地になって自分の殻に閉じこもってしまったりする。
 みんなそれぞれに、自分にだけ固有のセロファンを持っていて、それを通して世界を見ている。それらのセロファンは互いに似ているように見えて、微妙に異なっている。まったく同じ環境で成長した人間が二人といないように、まったく同じセロファンを持った人間も二人といない。それぞれに固有のセロファン(またの名を色眼鏡ともいう)。同じ光景を見ているようでいて、それぞれ微妙に異なった光景を見ている。だが、人は自分の育った環境からしか学べないから、みんな自分の見方こそがもっとも正しい物の見方だと信じて疑わない。
 すべての人と人との対立はここから生じる。頑ななまでに己の考えに固執して他を認めようとしない。右を信じる者は左を信じる者の気持ちがわからず、逆もまた同じ。だが、あまりにも自分のセロファンにこだわり過ぎるのは危険なことだ。誰もがみなそれぞれに固有のセロファンを持ち、それを通して世界を見ているということは、世界の本当の姿、そこにある生のままの世界の姿を見た者はひとりもいないということでもある。言い換えれば、それぞれが見ている微妙に異なった世界の姿のうち、本当の世界の姿などどこにもない、みんなが見ている世界はそれぞれ微妙に間違っているということでもある。そんな間違えて見ている世界の姿を、自分のこそが真実、絶対唯一の世界の姿だなどと思うのは大きな間違いである。それぞれが正しくて、それぞれが間違っている。それが世界の多様性というものの正体なのかもしれない。人それぞれが互いの見ている世界の姿を認めてやらなければ、対立は大きくなり、やがて大いなる不幸が訪れるだろう。
 単純なことだ。人間が社会生活を営む上で必要なのは、互いを思いやること、互いを認め合うこと。ただそれだけのことに過ぎない。ずっと大昔から言われつづけてきた人生訓。だが、人は相変わらずそれぞれに固有の世界の姿をふりかざし、他人の考えを受け入れようとはしない。その先に大きな不幸が待っていることも知らず、自分だけの孤独な象牙の塔にこもって意地を張っている。
 単純なことこそ、やり遂げるのがもっとも難しいのかもしれない。今日も人はそれぞれの世界の中で、お互いを手探りしながら生きている。
 あの日の夕方のセロファン越しの美しい光景は、夜の急速な訪れとともに消え去り、空は薄いオレンジ色から濃い藍色へ、そして漆黒の闇へと変わっていった。その時、大いなる不幸の前兆であるかのように、空から小さな雨粒たちがぽつりぽつりと、地上に降り注ぎ始めた。


(二〇〇四年九月)



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