詩に至る道


 初めて詩(らしきもの)を書いたのは中学三年の時。確か冬休みが終ったばかりで三学期に入った頃だったと思う。その年齢にふさわしいベタベタに甘っちょろい代物で、いま思い出すと顔から火が出そうだが、あの当時は自分なりに、身体中に渦巻く得体の知れない感情を、何とかして言葉に代えたいと思っていたに違いない。その詩の内容そのものは、原稿を捨ててしまったのでほとんど憶えていない。
 それ以来、高校三年間を通じて詩を書きつづけ、その後一年ほど書くのをやめていた時期もあったが、現在に至るまでずっと書きつづけている。
 改めて書き始めてから現在に至るまでを振り返ってみると、変な喩えだが、まるで生物の進化の過程を見ているようでもある。最初はアメーバ状の単細胞生物、それが徐々に進化して魚になり、両生類になり、爬虫類になり、そして現在はやっと哺乳類にまで進化してきたという感じだろうか。
 時折満足のいく作品が出来る時もあるが、他人の作品を読むと、自分はまだまだだなと思う。商業出版されている詩集だけでなく、このような詩を扱ったホームページをいろいろと見ていくうちに、次第に自信喪失になってくる。何故こんな堅苦しい詩しか書けないのか。何故言葉を自在に扱えないのか。そう思って、自分の才能に疑いを持ってしまう。それでも僕は詩を書く。たとえスランプに陥って何ヶ月も書けなくなったとしても、脳の中のある部分がむっくりと起き出して、机の前に、あるいはパソコンの前に座って書き始める。
 詩を書かなければ、不安なのだ。詩を書かない自分、詩を書けないでいる自分には価値がないとすら、思ってしまう。他のことで自分を証明することが出来ないから、たまたま見つけた詩を書くという行為によって、必死になって自分を確認し、自分を証明しようとするのだ。詩と自分が密着していて切り離せない状態になっているので、自分の詩を否定されることは自分そのものを否定されることになってしまうし、詩を書けない状態が長くつづくとたまらなく不安になってくる。
 しかし、そうはいってもそこまで思いつめて詩を書いているわけでもない。単純に、詩を書くのが楽しいのだ。詩が好きだから自分でも書くし、本当に満足がいく詩を書き上げた時のあの達成感は何物にも換えがたい(その達成感をふたたび味わいたくて書きつづけているという面もある)。ただ楽しいからこそ書く。好きなテレビ番組を見るように、好きな音楽を聴くように、詩を書く。それこそが恐らく正しい詩の書き方なのだろう(正しい詩の書き方などというものがあるとするならば)。
 楽しみとして詩を書くということと、詩が自分自身に密着した状態であること、このふたつの間でさまよいながら、究極の詩を目指している。誰も到達したことのない、詩の最高峰。その頂点に上り詰めたくてひたすら詩を書きつづける。中学三年の幼い心から始まった長い道。その途上にいまも僕はいて、時に楽しみながら、たくさん苦しみながら、ひたすら詩を書きつづける。
 ただ「詩」と名づけられた究極の詩。そこに至る道を、僕はいまも歩きつづけている。


(二〇〇四年九月)



 戻る   表紙