詩情を挟む


 何かというと詩情を挟むのである。私情ではなく、詩情である。詩のような情感とでもいえば良いだろうか。何を見ても、何を聴いても、そこに詩を感じてしまう。そこから詩情が立ち上がってくる。晴れた冬の昼、青い空のやや下にひろがる薄い雲、それが風に流されて高速で移動してゆく時に。夕方、仕事帰りの途上で、近所の家で飼われている犬たちが互いを呼び合うようなその鳴き声に。大抵はきわめて詩的とされている美しいものに対してそれを感じるのだが、醜いもの、薄汚れたものにも、詩情を感じてしまう。ゴミ捨て場を野良猫が荒らして去った後の、その乱雑さに。太った中年男の、どこを見ているのかわからないぼんやりした眼差し、生活が垣間見える無精髭の中に。
 どこにでも詩を感じ、いつでも詩に取り囲まれているように感じる。恐らく多くのネット上で詩を発表している詩人たちにとっては、詩は数多くある選択肢のひとつでしかないのかもしれない。たまたま詩を選んだだけであって、何か別のきっかけがあったならば、その創造意欲は別の表現形式へと向かっていたのかもしれない。そうした人にとっては、たとえ日常的に詩を書いてはいても、身の回りのものすべてが詩情を放って襲いかかってくるなどということはないのだろう。だが、僕の場合は、すべてにおいて何かというと詩情を挟んでしまうのだ。誤解のないように言っておくが、何も僕は常に詩を感じている自分の方が詩人として上等で、そうでない多くのネット詩人たちが劣っているなどと言いたいのではない。誰が作ろうと優れた詩はそのままで優れている。たとえ言葉を覚え始めたばかりの幼児であっても、一千行の詩に勝るとてつもない言葉を吐くことがままある。問題は詩人にあるのではなく、詩の方にある。詩をもってすべてを語らしめよ。だから、詩を自らの表現として選んだ者は、ひたすら詩を書きつづけなければならないのだ。
 話が脇道にそれた。いつどこにあっても詩情を感じる、詩情が自らの心の中に無理矢理挟まってくる。そのような日常を過ごさなければならないのは、果たして幸福なのであろうか。詩は時に暴力的にこちらに襲いかかってくる。こちらが何をしていようと、トイレで用を足していようと、風呂にのんびり浸かっていようと、おかまいなしに襲ってくる。そのような状態にいつもあることは、果たして良いことなのだろうか。詩人は詩人である以前にひとりの人間である。日常生活のこまごまとした用件に頭を悩ませ、人を愛し、人を憎み、その関係性の中でぼろぼろになって壊れたくなることもある。たとえば、身近な誰か、家族のうちの誰かが不幸にして亡くなったとする。悲嘆と絶望の中で泣きながら混乱している。そんな中でも突如として詩情が襲ってくるのだ。具体的に言えば、その人の死をきっかけとして、いくつもの詩が産み落とされる。これは人の倫理に反することではないのだろうか。あるいは、逆に他人が悲しみにうちひしがれている時に、その光景に思わず詩を感じてしまう。これもまた、人の道に反することであるように思える。だが、詩を書き、常に詩に取り囲まれている以上、詩から逃れることは出来ない。また、逃れてしまったらそのことに対して淋しさを感じてしまう。それが詩に取り囲まれて生きている者の悲しい性である。詩に心と身体を丸ごとわしづかみにされている詩人は、その状態を生きてゆくことを覚悟する。覚悟しなければ生きてはいけない。詩を選び、詩にわしづかみにされている以上、詩を捨てることも出来ないから、そうした覚悟とともに生きてゆくしかないのだ。
 詩を生きる。詩を書く者として生きて、詩を見、聴く者として生きる。美しくも醜いこの世界は、何と詩で溢れていることか。世界のすべては詩でつくられている。


(二〇〇四年十二月)



 戻る   表紙