村上昭夫の詩について


 村上昭夫の詩を読んでいると、このような詩が戦後詩の喧騒の中でひっそりと現れていたことに驚く。それほどに村上昭夫の詩は戦後詩というよりも近代詩的な特徴を持っている。つまりは、現代詩からかけ離れてやや古めかしく見えるし、現代的な「新しさ」の意匠を持たずに素朴に見える。少なくとも見かけ上は。
 たとえば「荒地」とか「櫂」とかあるいはその後につづいた六〇年代の詩人たちの持っていた新しさを、村上昭夫の詩は持っていない。それは表面的にはきわめて素朴でわかりやすい詩行としてある。だが、そのわかりやすさは主に語彙の選択にかかっていて、全面的に平易であるわけではない。



雁の声を聞いた
雁の渡ってゆく声は
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ

私は治らない病気を持っているから
それで
雁の声が聞こえるのだ

治らない人の病いは
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ

雁の渡ってゆく姿を
私なら見れると思う
雁のゆきつく先のところを
私なら知れると思う
雁をそこまで行って抱けるのは
私よりほかないのだと思う

(「雁の声」)

 普通の平明な詩であれば自他の道筋はまっすぐであるだろうが、村上昭夫の詩の場合はもっと入り組んでいる。自がそのまま直接に他へ向かうのではなく、いったん動物や宇宙や自然といったものを経由してから他に向かおうとするのだ。それもそういった物言わぬ自然物に自らを仮託してそうするのだ。何故ならそれはここで引用した詩で言及されているように、「治らない病気」のためである。そのために、他者にまっすぐに向かうことが出来ない。病気が他者に向かうための足枷になっているために、そのような回り道をすることでしか他者とつながることが出来ないということになっている。言ってみれば何とも不幸な構造を持っているのだが、それがかえって村上昭夫の詩をただの平易な詩であることから救っているともいえる。
 これは言い換えれば、動物や宇宙などの自然物をうたっているといっても、そのままの姿が素直にうたわれることはなく、必ず書き手の負った「病気」というフィルターを通してうたわれるということでもある。そのようにして語り手の心情を託された動物たちは、詩の中で別の輝き方をするようになる。また、引用した詩の四連目で「雁の渡ってゆく姿を/私なら見れると思う/雁のゆきつく先のところを/私なら知れると思う/雁をそこまで行って抱けるのは/私よりほかないのだと思う」とあるように、「治らない病気を持っている」からこそそうでない人々よりもより遠くまで動物や自然物の真実を見通せるのだという矜持が働いてもいるだろう。
 このようにして、村上昭夫の詩は基本的に作者が負った「治らない病気」のために動かされている。病気という普通ではない状態が、詩を書き推進させる原動力になっているのだ。その点において、村上昭夫の詩は単に平明なだけの詩とは異なっている。病気から詩を書くということは、言ってみればある種のスティグマというか業のようなものを根底に置いて書いているわけで、ただ単にわかりやすい詩を求める読者からすると書き手の持つそのようなどろどろした部分に付き合わされるのはあまりありがたくないことであるだろう。平易なだけの詩を求めるとすれば、そのようなものを根底に持っている詩はそうした読者の要求に答えてくれはしないはずだ。
 村上昭夫の詩の持つこうした特質が、彼を戦後詩の流れの中で見ることを難しくさせていることは間違いない。自らが図らずも抱えてしまった病気という特質のために、村上昭夫は「荒地」「列島」「櫂」といった戦後詩の「スター」たちをはじめとする同時代の書き手たちの実験と達成の流れの中に乗っかることが出来ていない。というより、はじめからそのつもりもなかっただろう。彼は病気だからこそ詩を書いているのであって、近代詩から戦後詩へ、そして現代詩へとつづいてゆく日本の詩の流れの中に自らを置いて見ることはない。その時代から切れた感じが古めかしさを感じさせ、そのため容易に「いま」よりも数十年昔の時代を想起させる。つまり、近代詩っぽいという感想を読者に抱かせるのだ。それは村上昭夫の詩に向かう動機から間接的に近代詩的なものが立ち上ってくるということであって、彼の詩そのものが近代詩に似ているとか近代詩的な骨格を持っているというわけではない。



五億年の雨が降り
五億年の雪が降り
それから私は
何処にもいなくなる

(「五億年」)

 ここで描かれた主体は充分に現代的だろう。「五億年」という永劫の時の中で「私」という主体が消失する。病気というスティグマを背負っているからには主体の自我はどこまでも拡大していきそうなものだが、ここでは逆にそれゆえに一種の諦念のような思いも作用してか、主体の自我は消えてゆく。そして主体は自然物の中に、永劫の時の堆積の中に溶けていってしまう。ここでは近代に確立した個人の自我の目覚めの位置からずっと先のところまで行き着いてしまっている。それは自我という概念の希薄だった近代以前の時代の感覚ではなく、いったん苦しいほどの自我の奔流の中に身を任せた後で起こるものであって、それゆえに近代的ではなく現代的な感覚であると言える。
 そうして消失した自我は万物流転の宇宙的な大きなサイクルの中にのみこまれて、それと一体化する。様々な動物や自然物がうたわれているが、それらの背後にはいつもそうした宇宙的な拡がりがあった。おそらくやがてはこれらの自然物もその宇宙の中に消えてゆくのだろう。村上昭夫の生前唯一の詩集にある『動物哀歌』という表題は、詩人が自らの病気のゆえにそうした大きな「哀しみ」を見通してしまったことを言い表しているのかもしれない。



(二〇一一年十二月)



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