誰も知らない日常 ――小川三郎の詩について


 日常は退屈なものだ。そこに新規の珍しいものが出現したり、波乱に満ちた物語が出来したりすることなど、ほとんどありえない。日常は静的に閉じた空間であり、だからこそ人は安心してそこに暮らすことが出来るのだが、逆に言えばどうしても退屈な場所になってしまいがちでもある。だが、誰もがみな同じ熱量で日常をやり過ごしているかというと、それには疑問符がつく。外側から見れば他の多くの人と同じような静かな時間が流れているようでも、個人の内部ではもっと豊かでもっとダイナミックな「日常」が駈けぬけているのかもしれない。私たちはそうした他人の精神の内側を知悉することは出来ないから、ともすればすべての人を同じ尺度で計ってしまいがちになる。その実、他の誰も体験していない豊穣な時空が個人の内面にあるかもしれないのに、それに気づかずに過ごしてしまう。静かな微笑で日々を過ごす人の中にどんな物語があるのか想像しようとせず、私たちもまた微笑む。そんな自分たちの中にもまた、誰にも知られることのない、もしかしたら自分自身でさえ気づいていない珍しい「日常」が横たわっているのかもしれないのに。

 小川三郎のともに思潮社から刊行された二冊の詩集、『永遠へと続く午後の直中』(二〇〇五年)と『流砂による終身刑』(二〇〇八年)を読んだ。ここにはある統一された世界観が表現されている。詩の中で主体は弛緩した日常の中にいる。それに抗うのでもなく、狎れあうのでもなく、ただその中に存在して物思う。世紀末を潜りぬけてもなお残る終末のムードが詩全体に漂っている。日常の中にいながら、本来静的なものであるはずの日常が静かに、けれども激しく動き回っている。それを見つめる主体の語り口はあくまでも冷静だ。どこかに焦燥感のようなものが認められるようではあるが、主体は日常の中にいるばかりで物事を動かそうとはしない。徹底して日常の内部にいて、それを観察している。そんな姿勢が、そのまま詩の形として刻みつけられている。



静かなボートの上で
平和だなあと
あなたが言った。
平和だなあと
私も言った。
ずっと彼方の岸辺には
賑やかそうな街が見えた。
売り子の声や車の音が
きっと響いていたのだろうが
平和な私たちの所まで
届きはしなかった。
水の音がするだけだった。
大声で叫んだところで
岸辺には届かなかったろう。
頭上を流れる雲にすら
私の声は
届かなかったろう。
平和であってもそうでなくても
同じく私は無力だった。
あなたと一緒にいたところで
やはり私は無力だった。

(『永遠へと続く午後の直中』所収「平和」から)

 何事も起こらない「平和」な時の中で、「私」と「あなた」が「ボートの上で」揺られている。ただそれだけの詩のように見える。だが、ここにはただ平和なだけではない何かが胚胎しており、「私」はそれにうすうす気づきながらも何もしない。というより、すべてを諦めてしまっている。「ずっと彼方の岸辺には/賑やかそうな街が見えた」としても、それは対岸の火事のように現実性を欠いている。もっと言うなら、この「平和」そのものが非現実的なのだ。「平和であってもそうでなくても/同じく私は無力だった。/あなたと一緒にいたところで/やはり私は無力だった。」と語られている通り、状況がどんなものであっても諦念は変らずにそこにありつづけるのだ。とりあえずいまは「平和」であるというだけの話でこれから先どうなるかはわからないが、たとえ何事かが起こったとしても「私は無力」だという事実だけは揺るぎなくそこにある。また、ここに登場する「あなた」はただ「私」の諦念や倦怠や間延びした日常に首肯するだけの存在でしかなく、本来の意味での他者とは成りえていない。ひとつの意見を述べた時にそれについて議論し時には反対するというような他者の機能がなく、どろどろとしたわけのわからない存在としての他者性を欠いている。ただここにある沈鬱な世界観を共有するだけの存在。「あなた」が「私」の中に、「私」が「あなた」の中に取りこまれて、ただ頷き合うだけのものとなっている。他者性を喪失した世界だから何も起こらないし、何も起こそうとはしない。ただ「ボート」の上の「平和」を感じて、いつか訪れるかもしれない時を漫然と待つことしか出来ない。

 ここにあるあらゆる行動を拒否したような姿勢が小川三郎の詩には顕著であり、何か重大なことは既に起こってしまったという事後の感覚とともに、彼の詩の基調となっている。



気絶し道に転げた猫の
瞳の中で目が動く。
その眼中に私もあって
あくせくこの日を
行ったり来たり。
猫はピクリとも動かない。
猫の瞳は貝殻だ。
裏切る光はひとつとしてなく
私の生は安泰である。
猫は喉を鳴らしている。
瞳は常に開かれている。
どんより雲も光を透かして
時折瞬き
そこに現出することの不可思議。
あらぬ事実を口走る人。
思いがけず雨が来る。
その下で猫は何を見るのか。

(『流砂による終身刑』所収「昏倒日和」から)

 この詩で語り手は「私の生は安泰である」と言っているが、「気絶し道に転げた猫」の悲劇と、それゆえに担わされた「見る」という役割、それを並列して語ることで「私の生」の「安泰」は帳消しにされてしまっている。「あらぬ事実を口走る人。/思いがけず雨が来る。」というおそるおそるの確認と予兆の二行もあることから、結局、「猫」に託された悲劇が「私」と世界を襲う可能性を語り手はわかっていて、わかっていながら変らぬ日常を送っているかのように見える。

 小川三郎の詩は、よく読むとちょっと恐いところがある。それはたとえばスプラッタムービーのようなどぎつい直接的な恐怖ではなく、心理の襞から少しずつ攻め入ってくるような、朦朧とした恐怖だ。なぜ恐いのかというと、それは日常をそのまま描くのではなく、その裏にあるかもしれない得体の知れないものをそっと覗き見しているからだ。日常の薄皮一枚をそっとめくって、慌ててまた元に戻すような感じがそこにはあり、一瞬見てしまった、どうしようというような、秩序の側から混沌を知ってしまいながらまた秩序へ戻ってゆく心の揺れが克明に綴られている。言ってみれば、秩序と混沌の狭間で懸命にバランスを取ろうとしているようなものであり、だからこそそれは非常に危うく、下手したら奈落の底に転落してしまいそうな恐さがあるのだ。もともと秩序は混沌を内包するものであり、秩序の中にいれば万事安全というものではない。何の変哲もない日常の中に悲劇の種子が埋められている。それを知りながら、いや、知ってしまったからこそ、日常を「永遠」や「終身刑」のようなものに感じてしまう。そして、誰も知らない日常が主体の精神領域を静かに侵食してゆく。その絶えざる不安のドキュメントこそが、小川三郎の詩の世界なのだ。



(二〇〇九年六月)



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