服部剛 その詩と人


 自分の友人のことについて語るのは難しい。そこにはどうしても遠慮や照れくささといったものが介在しがちであるし、ましてや彼は僕がやっている「反射熱」という詩誌の同人でもあるので、下手すると仲間褒めといったことにもなりかねない。そういった書きにくさを感じながらも彼について語ろうと思ったのは、近しい間柄でありながらも僕と彼の間には(性格的にもその詩においても)正反対の面がいくつもあり、そういうところを意識して分析することが自分を見つめ直すことにもつながるような気がするからだ。

 服部剛という詩人を語る時に、その「詩」と「人」はわかちがたく結びついているように思える。世には詩と人がまるきり結びつかない詩人も多いが、彼の場合は彼の人としての性格がそのまま直截に詩に表れている。それはやや無防備すぎると思えるほどで、彼の詩を読めば彼の性格まで何となく想像できてしまうようなところがある。



あっ と九十過ぎの老婆ろうばが言うと
黒い杖はエレベーター十階の
開いたドア下の隙間にするりと落ちて
奈落の底で
からんと転がる音がした

「 杖も毎日使われて
  たまには隠れて
  休みたかったのでしょう 」

隣で老婆と腕を組む
介護士の青年は言った

(「古い杖」)

 これなどは実に典型的なもので、「杖も毎日使われて/たまには隠れて/休みたかったのでしょう」という「介護士の青年」の言葉がそのまま作者の言葉になってしまっている。作者の顔が見えやすい詩だと言うことが出来るが、その見え方があまりにもまっすぐすぎるのだ。たとえばひとつの仮構された物語や言語の複雑な網の目の中に作者自身をこっそり隠しておくといったような書き方を、彼は取ろうとしない。物語を語る時も、それは彼がその眼で直接見たものをほとんどアレンジすることなしにそのまま書いてしまっている。だからこそ作者の顔が見えやすいし、徹底して日常に重きを置いた世界観であるから読者にも受け入れられやすい。そのことは彼の書き手としての強みであるのだろうが、どうもそれだけではない一種の危うさを感じさせることもまた事実であると思う。



通勤バスの車内
後部座席から眺める
まばらな人々が眠たげな朝

( 昨晩わたしは、とがった爪を、切っていた。)

人さし指をのばし
四角いボタンを押す
「とまります」
黒字で書かれた
赤いランプが灯(とも)る

それは
「今日を生きる」
という一つの選択

( 昨晩わたしは、尖った爪を、切っていた。)

人のこころの曇り空に
おぼろな日輪があふれるよう
わたしは今日もあなたへと
人さし指を
まっすぐのばす

(「『 降車ボタン 』」全行)

 この詩などは実にうまく情景を切り取っている。バスの降車ボタンを押すという日常的な行為を「『今日を生きる』/という一つの選択」に転換させ、さらにおそらくは「尖った爪を、切」ることでその「選択」が「人のこころの曇り空に/おぼろな日輪があふれるよう」、つまり出来るだけ他者の心を傷つけないように、他者の心を暖かくするような方向に向くようにと心がけてもいる。作者のそんな心理が誰にもわかりやすい形で表面化されている。だが、情景の切り取り方はうまいものの、その先に伸びていくものが見えない。「人さし指を/まっすぐのばす」という「選択」の後に待つものが見えない。情景を切り取っただけなのだからそれが見えないのも当然なのかもしれないが、「選択」をしたのはいいが、それでどうしたというか、「選択」をしただけで作者が満足してしまっているような、そんな雰囲気が詩行の間から見え隠れしているようにも思える。

 また、この詩に限ったことではないが、彼は自らが理想とする「詩」に忠実なあまりそれを語るのに急で、無意識のうちに視野が狭くなっているようなところがあると思う。



藍色のカーテンを
閉め切った部屋で
スタンドの灯りに
照らされた机に向かい
すれ違うこともないだろう
百年後の誰かに手紙を書いた

(「宛名の無い手紙」)

 このような一種の「善意」で彼は詩を書いているが、それが「善意」であると信じこみすぎるがためにそれが悪い意味に取られてしまうかもしれない可能性について彼は盲目になってしまっている。「百年後の誰かに」善意の「手紙を書いた」としても、それを大きなお世話であると思う者がいないとも限らないし、善意を根底にして書きつづけるのは一種の偽善でありそれは悪意よりももっと性質の悪いものだと思う者がいるかもしれない。そういう可能性を考慮することなしに、彼は善意を信じすぎてしまっている。言ってみれば、光の方ばかりを向きすぎているのだ。世の中の影の部分、人の心の暗い部分に目を向けずに、詩で人生を語ってしまう。それは明らかな片手落ちであり、そのような方向性を信じられない人からつっこまれやすい。そういう意味で彼の詩は非常に危ういものになってしまっていると思う。

 それはおそらく彼が詩を書くに当たって自らを徹底的に観察者の立場に置いてしまっているからだろう。「『る』」のように彼自身の心の痛みを語ったような詩もあることはあるが、多くの詩で彼は観察者として世の中を眺めるに留まっている。以前、先輩詩人の難波保明氏と村野美優氏を含めて僕と四人で飲んでいた時に、難波氏が「服部さんは相対的な生で岡部さんは絶対的な生だ」とおっしゃっていたが(ちなみにこの時の話は同人誌「反射熱」第1号での僕と彼の対談でも触れている)、僕と彼の詩の資質の違いを言い当てた実に示唆的な意見だった。つまり彼の場合、生への踏みこみが足りない。目の前で起こった事象をスケッチして詩という形に整えていくという方法を取っているために、他者の生も自らの生も表面をさらっと撫でるだけになってしまっている。だから、どうしてもただの綺麗事に終ってしまいかねない危険性をはらんでいる。

 技術的なことを言えば、先述のように場面を切り取る手つきは堂に入ったものでうまさを感じさせる。それと意外なことに(と言うべきか)「『 千手観音 』」のように一種の視覚効果を狙った実験的とも言えるようなことを試してもいる。僕の場合はあまり推敲はやりたがらないところがあるが、彼は推敲を厭わない。必要とあらばいくらでも書き直す生真面目さがある。そのへんは個人的に見習うべきところなのだろう。

 ともかく最初に書いたように彼は友人であるがゆえに語りにくさがある。個人的には、服部剛という人がいなければ自分はここまで来られなかったという思いがあるので感謝してもいる。つき合ってみるとわかるのだが、彼は単なる「いい人」ではなく(もちろんそういう面もあるが)、天然で可笑しなところを持ち合わせてもいる。また、非常にマイペースで頑固だ。そういう彼のキャラクターがそのまま詩に表れていて、同時に彼の詩を狭い範囲に留めてしまっているように思える。また、瑣末な部分で言いたいことは山ほどある(たとえば彼は独特の言い回しを多く用いるが、それが僕から見ると非常に違和感の残るしっくりしないものになってしまっている等)。そうした諸々のすべてを合わせて服部剛の詩と人が形づくられている。



3日前に職場で腰を痛め
うずくまったまま動けず
車椅子に乗り
整形外科へ搬送され
9年目にして初めて
10日間の秋休み

今日も午前10時の朝食を終え
ほがらかな日のそそぐ
秋の小道を散歩する

見下ろす川の堤防に
一羽の白鷺しらさぎは佇み
そろり そろり と細足で
太陽を映す水の鏡を歩きつつ
時折鋭いくちばし
あめんぼう等を
瞬時にくわえる

見上げた空から

 くるっくっく

ぱたぱた羽ばたく一羽の鳩が
目線の先でひるがえり
わたしの背後に飛び去った

( 今頃職場の同僚は
( 老人ホームのお風呂場で
( 曲がった背中の数々を
( 汗を流して磨いてる

棚の上から落ちたような
予想外の秋休みに小道を歩く
「何者でもないわたし」

 くるっくっく

振り返った
背後の空の遠くに消えた
あの鳩の言葉のように
「訳せぬもの」
がこころにふくらむ
秋の午後
高い空から
街路樹の枯葉とともに
降りそそぐ
(風のうた)に立ちどまり
わたしは胸に
手をあてる

(「秋休み」全行)

 これは僕が個人的に彼の近作の中でもっとも評価しているものだ。ここにはいままで述べてきたような彼の詩を規定していたものから逃れ出るような雰囲気がある。ここに書かれた「『何者でもないわたし』」と「『訳せぬもの』」が向かう先を見てみたい。「わたしは胸に/手をあてる」というその決意の瞬間。それは先ほど引いた「降車ボタン」と同じ類のものではあるが、ただ情景を切り取っただけのものではなく、その先にあるものを予感させるようなところがある。それは「くるっくっく」と「ぱたぱた羽ばたく一羽の鳩」の導きによるものであるのかもしれない。ここには彼の信じているものだけではない他の何かが紛れこんでいて、それが詩の世界を豊かなものにしている。その紛れこんだものを彼は不純物と見做して切り捨ててしまいたくなるかもしれないが、人生が様々な「余計なもの」が介入することによって彩りを増していくように、あえて猥雑なものを持ちこむことによって詩がそれまでとは違う高みへと引き上げられることもあるだろう。それは他者の視点を獲得することにも似ている。自らが信じているものを人々がみな信じているのではないし、自らが良しと思ったものがある人にとっては邪魔なものになってしまうことも充分ありうることだ。そうした様々な他者の視点を取りこんで想像してみること。それによって、彼が本来目指していたはずの詩の「優しさ」へとよりいっそう近づくことが出来るのではないだろうか。



(二〇〇七年十一月)



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