木葉揺 その個性の行方


 木葉揺の書く詩には常人では思いもよらないような妙な味があって、それが彼女の詩の鮮烈な個性となっている。個性があるというのはそれだけで大きな武器になりうるものだが、悲しいかな、個性というものは努力して得られるものではない。凡人はどう頑張っても平凡な想像力しか持ちえず、彼女の詩に現われているような珍妙な詩行を書くことなどとうていかなわない。つまり、それが一般的に言う「才能」というものであるのだが、そう考えると彼女には確かに「才能」がある。ただし、その「才能」は括弧つきで留保しておきたいという思いもする。



キャッチングキャッチングDVD
追いすがるよなひねり出し効果に
器具を掃って自己卑下チョップ
冗談さらせよ一転倒立
腰まげて6ロックB‐BANG
地べたに頬擦りしなきゃ
スコンスコンだるま落としできないぜ

ピッチャーはトーマス・マン
大きく振りかぶってー
        選ばれなかった!

(「後遺症ランニングファスト」第1〜2連)

 この詩の1連目に書かれた言葉は面白い。「キャッチングキャッチングDVD」も「器具を掃って自己卑下チョップ」も「地べたに頬擦りしなきゃ/スコンスコンだるま落としできないぜ」も、普通は思いつかない言い回しだ。快いリズムと一行目からたたみかけられるこうした詩行の効果で、たとえ意味がわからなくても読者はすんなりと詩の中に入っていくことが出来る。だが、次の2連目が問題だ。この三行はいっけん1連目と同じような奇妙な言葉であるように見えるが、詩人の個性とは真逆の「普通の地平」に落ちこんでいると思う。これにつづく3連目の「試合終了〜/は十年後まで待ってください」の二行も同様だ。どう言えばいいのだろうか。ここには詩人の外部(おそらく詩人が暮らす日常)からやって来た言葉がそ知らぬ顔で詩の中に居座っている。この後につづく残りの詩行にはこの詩人らしい個性的な言葉が連ねられているだけに、この2連目(と3連目の冒頭二行)には違和感が残る。そして、筆者が先ほど「その「才能」は括弧つきで留保しておきたい」と言ったのは、こういう部分を指している。特異な個性が、時に「普通であること」への欲求に負けてしまうのだ。

 木葉揺の詩をまとめて読んでみると、詩人自身は自らの個性に対して自覚的であったりそれを厭わしく思ったり、名前の通りに「揺」れているように思える。たとえば「涙の海でおぼれよう」などの抒情的な詩は、まったく詩人の個性に似つかわしくないと感じる。このようないわゆる「普通の抒情詩」だったら、もっとうまく書ける人は他にいる。

 おそらくこの詩人は、詩の中に自らの個性を出すことに引け目を感じている(あるいは羞恥を感じていると言いかえた方がいいか)。詩人自身の頭の中に理想とする「立派な詩」というものがあって、自らの個性を出すことはそこに至る道が閉ざされてしまうことであるかのように感じるのだろう。だが、自ずから備わった「才能」や「個性」というものは努力して手に入れられるものではなく、どんな傾向の詩が向いているかは書き手によって異なるのだから、自らの個性は最大限活用すべきだろう。



ロゼッタ
ごめんよ、約束を破る

こんなに風が強い日は
恵まれた二人のセレモニー

出会う前から恋になる
噂に胸をときめかせていた

気の遠くなるよな
熱に煽られ

初めて出会った君は
不思議な表情で魅了した

揺らぐ足元を
確認しながら

だから知りたくなる
君の全て

(中略)

本当に君を愛していたんだろうか
君を愛する僕を演じたのだろうか

それならば
いっそのこと
見えない世界へ


すまない




       シュー



              ドスンッ!



熱風がシャワーを作り
君の上に降り注いだ

(「二千年目のすれ違い」より)

 この詩の出発点は「普通の想像力」にある。「ロゼッタ」という名前にも現われている異国的な雰囲気を持ったラヴストーリーだが、そういった異国趣味のようなものもある程度の経験があれば身につけることが出来るごく普通のものだ。だが、この詩は後半に至って転調する。引用した「シュー///ドスンッ!」という箇所がそうだ。ここは眠っている間に一瞬訪れる鋭い痛みのように鮮烈だ。「シュー」も「ドスンッ!」も平凡な表現ではあるものの、詩に描かれた世界をかき乱すだけの破壊力を持っている。この後の詩行は前半と同じような普通の言い回しで書かれているのだから、「シュー///ドスンッ!」があるのとないのとでは読後の印象が大きく変ってくるだろう。これがないとごく普通の抒情的な恋愛詩で終ってしまうところだが、あえて詩行の間に異物のように挟みこまれているからこそ、詩全体が凡庸さに陥るのを免れえていると思う。つまり、この箇所こそが詩人の個性が現われた部分なのだ。だからこそ、この詩にとってこの箇所は必要なものなのだと思う。最初に引いた「後遺症ランニングファスト」とは逆の現象がここでは起こっており、この二つの詩は、詩人が自らの個性に対してどのような態度を取るかを考えるための絶好のサンプルのようで面白い。

 強烈な個性を持つことは、本人にとっても疲れることであろう(ちなみに筆者はこの詩人と知り合いなのでわかるのだが、詩人自身の人としてのキャラクターは気配り上手の優しいお姉さんといった感じで、そのへんは誤解のないように言っておきたい)。その個性に振り回されたりうまく手綱をとることが出来なかったりすると、「愛しき日々は、ヘリコプター」のような散漫な詩になってしまいかねないが、うまくいった時には「決意」や「てのひらサンプル」のような、強烈な破壊力を持ったいままで誰も見たことがないような詩が出来上がる。



暴力的なラフランス
狂ってごらんなさい
もともと腐った友達と
一センチの三枚刃
氷砕いて乳首の前でひるんだ夕べ
焦げつく匂いが屋敷の合図

ジュマペール黒のJ
歌っていたら泡吹いて倒れたわ
有袋類も豆には弱いのね
それでも生意気に予言を残して
詩都心 裏知る 今週末

茎も剥いたら栄養素
腕ギロチンは魔術の小道具
突っ込んじゃえばドロロロ
買われてゆくのね、あなたのターミナル
メロンは一人十個まで
玉突きクラブで虫を並べるよ

沈殿する恐怖を受容する人体
隣のゲーテにリボンを結んで知った
人類が滅びる時間が迫っても
あなたの壁は破れないまま
(破れないまま)

(「暴力ラフランス」より)

 一人称で語られていないぶん、作者は詩の裏に隠れていることが出来るということの好例である。「ラフランス」というただの果物に過ぎないものが「暴力的」と言い切るところも並みの想像力ではないが、詩行の裏に隠れた情念のようなものが読んでいて息詰まるほどに濃密だ。この詩の場合、詩人独特の個性を現代詩ふうにパッケージングしているような趣きがある。一部求心力が弱まるような部分もあるが(特に、ここでは引用していないカギ括弧の語りの部分など)、全体としては申し分がないと思う。「あなたの壁は破れないまま/(破れないまま)」と同じ言葉をわざわざ括弧つきで繰り返すところは、この詩の核となっている情念をよりいっそう高めるのに効果を発揮している。

 個性というものを最大限生かすためには、どうしたらよいのだろうか。一般論は言えないが、彼女の場合は、現代詩なら現代詩、抒情詩なら抒情詩と、ひとつの決まったフォルム(定型ということではない)に個性を滲みこませるような書き方が有効だろうと思われる。先ほど引いた「二千年目のすれ違い」は抒情詩のフォルムに個性を滲みこませているし、「てのひらサンプル」は物語のフォルムの中に、「暴力ラフランス」は現代詩のフォルムの中に、それぞれ個性を滲みこませている(ちなみに彼女の詩にはタイトルだけでも面白いものが多いが、そのへんの命名のセンスも個性の現われのひとつだろう)。もしこの詩人が美しい抒情詩を書きたいと願うのならば、自らの個性を殺さずにそれをうまく詩の中に溶かしこむ方法を探った方がいいと思う。生半可な一般的な抒情詩を書こうとしたら、抒情詩の方が詩人の個性に負けてしまって失敗する恐れがある。この詩人はことあるごとに「基礎」ということを口にする。確かにそれも大事だが、人によりけりだと思う。これだけの素晴らしい個性を持っているのだから、それを生かさない手はない。最初に書いたように「個性」とは「才能」であり、それを初めから備えているということは、詩を書く上で大いに幸福なことだと思うのだ。

 木葉揺という詩人がこれからどんな詩を書いていくのか。詩人自身の中で揺れている個性の行方はどこにあるのか、それをひとりの読者として楽しみにしたいと思う。



(二〇〇六年十二月・「第二回批評祭」参加作品)


 

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