近代詩再読 八木重吉


 数多くいる詩人たちの中で、八木重吉ほど語りづらいと感じる詩人はそういない。何故だろうか。私だけの感じ方であるのかもしれないが、そんなふうに感じてしまう。おそらくそのあまりにも無防備すぎると思えるほど短く簡潔な詩型と相まって、当時の詩壇のどこにも属していないと思えるような独自性がそう感じさせるのだろう。

 八木重吉はその短い生涯のうちに、たった二冊の詩集を残したのみである(しかも、そのうちの一冊は、自選ではあるものの死後に刊行されたものだ)。まずは第一詩集『秋の瞳』(一九二五年)の冒頭の作品を見てみよう。



息を ころせ
いきを ころせ
あかんぼが 空を みる
ああ 空を みる

(「息を 殺せ」全行)

 たったの四行しかない、何ともあっさりしたものである。ここではたったふたつのことしか語られていない。「息を ころせ」という命令形の言葉と、「あかんぼが 空を みる」という事実だけである。「息を」ころすことと「あかんぼが 空を みる」ということの間には、普通に考えれば関連性はない。このふたつの言葉の間には大きな隔たりがある。また、「息を ころせ」という命令形の言葉が誰に向かって語られているのかも、少し気になるところだ。おそらくこれは、作者が自分自身に語りかけているのだろう。さて、自らに向かっての「息を ころせ」という命令と「あかんぼが 空を みる」という描写との間には、いったいどんな関連性があるのだろうか。どうやらいくら考えても、論理的な結論には行き当たりそうにない。この詩の行間には、作者だけにしかわからない「何か」が横たわっているようだ。それは、思わず「感受性」などというナイーヴな言葉を持ち出してきたくなるような「何か」だ。八木重吉の詩にしばしば見られるこうした批評を受けつけない感じというのが、冒頭で書いた語りづらさの一因になっているような気がする。そしてまた、不思議なことであるのだが、この行間に横たわる「何か」が、論理的でないゆえにひとりよがりのものに終ってしまいそうであるにもかかわらず、読者をすんなりと納得させてしまう力を持っている。それは、作者の作り出した行間の「何か」が「息を ころせ」という前段と「あかんぼが 空を みる」という結語との間に、読者に何となく橋をかけさせてしまう力でもある。それは読者に苦痛を強いるようなやり方でではなく、読者が気づかないうちに自然とそうなってしまう類のものだ。

 ここに、八木重吉の詩が持つ不思議さがある。どの詩を見ても特別難しい言葉やややこしい喩が使われているわけではない。その詩はあきれるほどに平明で、ひねりがなさすぎると思えるほどだ。だが、それにもかかわらず、(いまふうに言えば)決してポエムっぽくならない。平明であるということと強靭であるということが、詩の中で同居しているのだ。そして、それが八木重吉の詩の大きな特質のひとつになっていると思う。



甕 を いつくしみたい
この日 ああ
甕よ、こころのしづけさにうかぶ その甕

なんにもない
おまへの うつろよ

甕よ、わたしの むねは
『甕よ!』と おまへを よびながら
あやしくも ふるへる

(「(かめ)」全行)


草をむしれば
あたりが かるくなってくる
わたしが
草をむしつてゐるだけになつてくる

(「草をむしる」)

 前者は『秋の瞳』から、後者は第二詩集にして最後の詩集になった『貧しき信徒』(一九二八年)から引いた。「(かめ)」の方は「うつろ」な「甕」のすがたに自らの姿を重ねている。「甕」の「なんにもない/おまへの うつろ」が同じように「うつろ」であるだろう「わたしの むね」と共鳴している。「あやしくも ふるへ」ている。いっぽうの「草をむしる」の方は、「草をむしる」という自らの行為が、本来持つであろう意味を脱ぎ捨てて、ただの行為そのものとなっていく実存が語られている。いずれも佳作と呼んでいいと思われるが、同時に「これは何だろうか」と思わせるようなものを持っている。その「これは何だろうか」という感覚は、「この詩はこれでいいのか」という疑念と「この変な感じは何だろうか」という両方の意味を含んでいる。「この詩はこれでいいのか」という疑念が起こるのは至極もっともだといえる。事物を自らと重ね合わせてみたり、ただの存在そのものとなっていく自らの実存を語ったりという、これらの詩が語っているのと同じようなことを、もっと高度にもっと上手く語っている詩はいくらでもある。それらの詩に比べれば、これらの詩はあまりにもあっさりしすぎている。だが、同時に沸き起こる「この変な感じは何だろうか」という感覚。そこにおそらく八木重吉の詩の秘密が隠されている。

 思うに、八木重吉はあまりにも「自分」でありすぎる。八木重吉の詩をまとめて読むことは、彼の人生の道程をたどり直すことに等しい。または、感情の物語と言い換えてもいいが、いずれにしても、八木重吉は詩の中で無防備に自らをさらけ出しすぎているように見える。詩人の生と詩作を安易に結びつけるようなことはしたくないが、先ほどの「この変な感じは何だろうか」という感覚が、詩人の歩んだ人生(キリストへの信仰や、病気のために虚弱であらざるをえない身体など)がみなもとになっているような気がしてならない。この詩人には、一篇だけ取り出して読めばどうということのないただの感慨に過ぎないような詩が多くある。たとえば『貧しき信徒』に収められた次のような詩がそうだ。



日をまともに見てゐるだけで
うれしいと思つてゐるときがある

(「太陽」全行)

 これは無作為に選んだ一篇だが、八木重吉の詩にはこのような詩が大変多い。一読して思わず「だからどうした?」と言ってやりたくなるようなものだ。この詩が収められている『貧しき信徒』の「貧しき」という言葉を、このような詩が皮肉にも裏書きしてしまっているようでもある。それほどまで、言葉が貧しいままで書かれてしまっている。だが、このような詩にさえも、「この変な感じは何だろう」という感覚がつきまとってきてしまうのだ。一歩間違えれば、いまふうのポエムになりかねない危険性をはらんでいるのだが、ぎりぎりのところで「詩」としてとどまっていられるのは、こうした「変な感じ」のおかげであると思われる。

 さて、夭折詩人にありがちなことであるが、八木重吉の詩もまた詩集『秋の瞳』『貧しき信徒』に収められたものだけでなく、それ以外の膨大な量の詩稿がある。詩人自らが傾向別にまとめたと思しきそれらの詩稿には、刊行詩集では味わえないような面白味がある。それは言ってみれば、短い詩をいくつも連ねた一種の連作詩のように見える。

 その中でも私が特に面白いと思うのは、「大正十三年六月十八日」の日付がある「(まり)とぶりきの独楽(こま)」(原典では「ぶりき」に傍点)と題された詩群だ。



あかんぼが
あん あん
あん あん
ないてゐるのと

まりが
ぽく ぽく ぽく ぽくつかれてゐるのと

火がもえてるのと
川がながれてるのと
木がはえてるのと
あんまりちがわないと おもふよ

(「○(あかんぼが/あん あん)」全行)


ぽくぽく
ぽくぽく
まりを ついてると
にがい にがい いままでのことが
ぽくぽく
ぽくぽく
むすびめが ほぐされて
花がさいたようにみえてくる

(「○(ぽくぽく/ぽくぽく/まりをついてると)」全行)


まわるものは
みんな いいのかな
こまも まわるし
まりも まわるし

(「○(まわるものは)全行」)


くう
らん と とまる
独楽のかなしさよ

(「こま」全行)


森へはいりこむと
いまさらながら
ものといふものが
みいんな
そらをさし
そらをさしてるのにおどろいた

(「○(森へはいりこむと)」全行)

 いっきに五篇も引用してしまった。少し注意書きをしておくと、八木重吉の未刊詩稿にはタイトルのないものが多い。タイトルのあるべきところにただ大きめの「○」が記されているだけで、最初の数行をタイトルの一部としてここでは代用している。また、同題の詩も多いということもつけ加えておく。

 思うに、夭折した近代詩人というものは、詩集として刊行されたものと合わせて生前は未刊のままで終ってしまった詩群まで含めて検討しなければ、全体像は見えてこないのではないだろうか。ここに引いた「(まり)とぶりきの独楽(こま)」からの五篇はその好例である。ここでは「鞠」と「独楽」という子供のためのおもちゃを題材にして、その題材をつきつめることによって他の単発の詩ではなかったような面白い味が出ている。最後に引いた「○(森へはいりこむと)」のように題材から離れた詩をところどころに挟みこむことによって、詩稿全体が外に向かって開かれているような感触もある。これらの詩でまず目を惹くのが、繊細で優しい響きを持った独特のオノマトペだろう。鞠をついている様子を「ぽくぽく」と表現したり、回っている独楽が止まる様子を「くう/らん と とまる」と表現したりしているのは、八木重吉ならではの独特の言語感覚であって素直に面白い。また、先ほど述べたように、八木重吉の詩のスタイルとして定着した短詩という形式が、こうしてひとつのテーマでいくつもの詩を書きつぐことによって、一種の連作または断章を重ねた長篇詩のように読めてしまうのは興味深い。


 八木重吉の詩について四苦八苦しながら何とかここまで語ってきたが、最初に述べた語りづらさというものはなおも残っている。私はこの詩人の特質である「変な感じ」の謎を完全に解明するまでには至らなかった。詩人の生と詩作を安易に結びつけたがるありがちな論調に疑念を持ちつつも、そうした論調の方に傾きかけてしまった。結果として確固とした答を提示できないまま終ってしまった形になるが、そのことはこの文章の大きな弱点であるのかもしれない。だが、今回改めて読み直してみて、詩と詩人の生、その関係性のあり方についていまさらながらに思いを深くしたのは確かである。



引用作品はすべて『八木重吉全詩集』(全2巻・ちくま文庫)から。


(二〇〇七年五月)



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