近代詩再読 立原道造


 勢いこんで始めてしまった「近代詩再読」シリーズ。前回は長い詩暦を誇る草野心平をとり上げたが、今回はいきなり立原道造である。草野心平は八十過ぎまで生きていた人だが、立原道造はわずか二十四歳で亡くなっている。実に対照的だが、別に深い意味はない。ただの気まぐれである。

 僕が持っている立原道造の詩集は一九八八年に初版が発行された杉浦明平編集の岩波文庫版である。年譜や解説の部分も含めると、総ページ数は四五〇ページを越える。立原道造の詩をたっぷり味わうことが出来て、非常にお得な感じがする。だが、これは僕だけの感覚なのかもしれないが、立原道造の詩は、つづけて読むと次第にこちらの感覚が鈍磨されてゆくような印象がある。それは恐らく、その詩の多くが同じような手法で書かれた抒情詩だからだろう。立原道造の詩は四・四・三・三のソネットが多く、詩人自身がその詩型に愛着を持っていることは明らかだと思う。そうしたひとつの定型ともいえる手法で詩を量産しているため、どこを切っても同じ金太郎飴のような印象が残ってしまう。詩を見せる「ワザ」が少ないため、同じような傾向の詩をつづけて読んでいて感覚が鈍磨してくるのかもしれない。恐らく十篇くらいつづけて読むのなら、問題なくその抒情の中に入ってゆけるのだろう。そういえば、立原道造が生前に刊行した二冊の詩集『萱草に寄す』『暁と夕の詩』は、いずれもソネット十篇を収めただけの詩集だった。詩人自身が自らの詩の特質に気づいて収録篇数を決めたのかもしれないというのは、かなりうがった見方だろう。

 さて、立原道造の詩は抒情詩である。それはもう、本当に折り目正しい抒情詩という感じがする。萩原朔太郎のように病的なところはほとんど窺えない。だが、向日的ではあるが、あまりにも線が細すぎる感じがする。古き良き青春の抒情詩。しかも、わずか二十四歳で夭折している。一般の人が詩に対して抱くある種のイメージを形作った詩人のうちのひとりなのかもしれない。

 僕は普段はレトリックを駆使した複雑な表情を持った詩の方を好んで読むのだが、時にこのようなタイプの抒情詩を無性に欲してしまうことがある。線が細く、どこかで淋しい響きのある詩。これらの抒情詩は、ひとりでしみじみと味わうべきものなのだ。



ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

その夜 月は(あか)かつたが 私はひとと
窓に(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだろうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち()めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習ったエリーザベトの物語を織つた

(「はじめてのものに」全行)

 詩集『萱草に寄す』の冒頭に置かれた詩である。「エリーザベト」などと、西洋の女性名を持ち出してきて、このあたりに立原道造のナイーブさのようなものが表われているような気がする。



雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき
(くさむら)は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠(おじゆず)も光つてゐた
東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた
僕らはだまつて立つてゐた 黙つて!

ああ何もかもあのままだ おまへはそのとき
僕を見上げてゐた 僕には何もすることがなかつたから
(僕はおまへを愛してゐたのに)
(おまへは僕を愛してゐたのに)

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

おまへの睫毛(まつげ)にも ちひさな虹が(やす)んでゐることだらう
(しかしおまへはもう僕を愛してゐない
僕はもうおまへを愛してゐない)

(「虹とひとと」全行)

 これも同じく『萱草に寄す』に収められているものだが、ここまで来るとそのナイーブさに微笑ましささえ覚えてくるから不思議だ。第二連の「(僕はおまへを愛してゐたのに)/(おまへは僕を愛してゐたのに)」を最終連で「(しかしおまへはもう僕を愛してゐない/僕はもうおまへを愛してゐない)」と引っ繰り返しているところなど、あまりにも見え見えであざとい手法に思えるのだが、何故か微笑ましい。また、第一連四行目の「だまつて」と「黙つて」など、同じ言葉なのに平仮名だったり漢字だったりで徹底していなかったり、第一連二行目で「蜘蛛」を出しておきながら第三連一行目で同音の「雲」を出したり、普通ならこういうのは避けるはずなのだが、それがごく当たり前のように詩行の中に存在しているということに不思議な思いがする。



一人はあかりをつけることが出来た
そのそばで 本をよむのは別の人だつた
しづかな部屋だから 低い声が
それが隅の方にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)

一人はあかりを消すことが出来た
そのそばで 眠るのは別の人だつた
糸紡ぎの女が子守の唄をうたつてきかせた
それが窓の外にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)

幾夜も幾夜もおんなじやうに過ぎて行つた……
風が叫んで 塔の上で 雄鶏が知らせた
――兵士(ジアツク)は旗を持て 驢馬は鈴を掻き鳴らせ!

それから 朝が来た ほんたうの朝が来た
また夜が来た また あたらしい夜が来た
その部屋は からつぽに のこされたままだつた

(「小譚詩」全行)

 詩集『暁と夕の詩』に収められたこの詩はわりと好きな詩だ。静寂の中にふっと現れる喧騒の幻。だが、それはやはり幻でしかなく、部屋は以前よりもよりいっそう静まって「からつぽに のこされ」てしまう。孤独の中にあっても世界の動向を直観的に感じ取る詩人の洞察力が、うまい具合に抒情の中に溶かしこまれているように思う。

 立原道造のような夭折詩人の場合、生前に刊行された詩集だけを見るのではその全貌を捉えることが出来ない。膨大な量の未刊詩篇や拾遺詩篇の中にこそ、より面白い詩が眠っていると思う。



コップに一ぱいの海がある
娘さんたちが 泳いでゐる
潮風だの 雲だの 扇子
驚くことは止ることである

(「コップに一ぱいの海がある」全行)

 第一詩集『萱草に寄す』を刊行する前、立原道造は手作りの詩集をいくつも作っていたが、これはそうした手作り詩集のうちのひとつ『さふらん』に収められたものだ。四行詩ばかり収められたこの詩集の収録作品を見ていくと、後の刊行詩集に収められた一連のソネットとはまた違った味わいがあって面白い。立原は詩を書く以前に自由律短歌を書いていたらしいが、これらの四行詩はその延長線上にあるものだろう。後のソネットと比べると立原らしい清新な抒情はまだ現れていないが、その代わりに瑞々しい「発見」の驚きがある。どこか八木重吉の短詩を思わせるようなところもある。

 同じような「発見」の驚きが綴られている短詩をあとふたつ紹介しよう。



僕は 脊が高い 頭の上にすぐ空がある
そのせゐか 夕方が早い!

(「僕は」全行)


貧乏な天使が 小鳥に変装する
枝に来て それはうたふ
わざとたのしい唄を
すると庭がだまされて小さい薔薇の花をつける

名前のかげで暦は時々ずるをする
けれど 人はそれを信用する

(「暦」全行)

 ここに引いたのはいずれも『さふらん』と同じ手作り詩集『日曜日』に収められたものだ。『さふらん』が詩人十八歳の時で、『日曜日』が十九歳の時である。このへんの詩を読んでいると、若い才能が詩作への道を踏み出したその道のりを改めて辿り直しているような気分にもなってくる。前記二篇のうち、「僕は」の方は『さふらん』に現われていた「発見」の詩の系列に連なるものであるが、「暦」の方は後の抒情詩人の登場を予感させるものだ。

 僕の持っている岩波文庫版『立原道造詩集』には多くの拾遺詩篇が収録されているが、その中には生前に刊行した詩集に収められたソネットとは違う形式の詩もある。短い詩ではあるがソネットという定型からはみ出した自由詩もあれば、いくつもの章を連ねて書かれた長い詩もあるし、意外なことに散文詩さえある。詩人自身はこれらの「脱・定型」とも言える詩を自らの本流の詩として認めていなかったかもしれない(それどころか、詩作品として認めていたかどうかも怪しいかもしれない)。だからこそ、生前に刊行された詩集には収録されなかったのだろうが、僕はこれらの拾遺詩篇に早世したために発現しきれなかった詩人の可能性を見る。



咲いてゐるのは みやこぐさ と
指に摘んで 光にすかして教えてくれた――
右は越後へ行く北の道
左は木曾へ行く中仙道
私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
そうして 夕やけを脊にしてまつすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
馬頭観世音(ばとうくわんぜおん)(くさむら)に 私たちは生れてはじめて言葉をなくして立つてゐた

(「夏の旅 T 村はづれの歌」)

 これは全部で7章まである「夏の旅」の書き出し「T 村はづれの歌」である。この詩の中で詩人は「みすぼらしい故里の町」へと旅をする。途中、「古びて黒い家……そこの庭に/繋がれてある老いた山羊」(「U 山羊に寄せて」)についてうたったり、「村中でたつたひとつの水車小屋」(「V 田舎歌」)についてうたったりする。そして、「W 憩ひ――I・Tへの私信」で、ひとつの高みに達する。それは詩の中で描かれた旅の高みであると同時に、この詩そのものの高みでもある。



 昔むかし僕が夢を美しいと信じた頃、夢よりも美しいものは世になかつた。しかし夢よりも美しいものが今日僕をとりかこんでいるといつたなら、それはどんなにしあはせだらうか。信濃高原は澄んだ大気のなかにそばが花咲き、をすすきの穂がなびき、遠い山肌の皺が算へられ、そのうへ青い青い空には、信じられないやうな白い美しい雲のたたずまひがある。わづかな風のひびきに耳をすましても、それがこの世の正しい言葉をささやいてゐる。さうして僕は、心に感じてゐることを僕の言葉で言ひあらはさうとはもう思はない。何のために、ものを言ひ、なぜ訊くのだらう。あんなことを一しやう懸命に考へることが、どこにあるのだらう。Tよ、かうしてゐるのはいい気持。はかり知れない程、高い空。僕はこんなにも小さい、さうしてこんなにも大きい。

(「夏の旅 W 憩ひ――I・Tへの私信」)

 見ての通り、散文詩形式で書かれている。全7章のうち、ちょうど真中に置かれたこの章だけが散文詩なのだが、これは絶唱といってもいいような気がする。これは若い詩人の夢から現実への目醒めの瞬間なのだろう。「夢よりも美しいものは世になかつた」と思っていた詩人が、「心に感じてゐることを僕の言葉で言ひあらはさうとはもう思はない」ほどの自然の美しさを感じ取るのだ。「僕はこんなにも小さい、さうしてこんなにも大きい」という目醒めを感じる断言は、詩人が感じ取った自然の美しさと同じように美しい。

 だが、残念なことに(と言うべきだろうか)、この詩はここから先、せっかく獲得したはずの目醒めの瞬間を手放して暗い諦念の方へと傾いてしまう。「X 墓地の方」から最後の「Z 旅のおはり」までの流れは詩人が「夏」の盛んな勢力の凋落を知る過程であり、そこにはもう美しい詩はない。「旅人は 空を仰いで のこして来た者に尽きない恨みを思つてゐる/限りない悲しい嘘を感じてゐる」(「Z 旅のおはり」)のだ。せっかく第W章で至高の詩的高みにまで達していたのに、終盤がこれでは詩の構成として失敗ではないだろうか。もし立原道造がもっと長く生きていたなら、この詩的高みを充分に抒情の中に溶かしこんだ一大傑作が書けていたかもしれない。

 夭折詩人というものは、いつもどこかに物悲しさを感じさせる。立原道造の場合はまだ二十四歳という若さであるからなおさらだ。もっと長く生きていればというのは、後世の読者の勝手な恨み節に過ぎないのかもしれない。多くの可能性を秘めて、まだまだこれからという時期に詩人は亡くなった。後には壊れやすい透き通るような抒情が残されただけだ。



(二〇〇六年三月〜五月)



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