近代詩再読 草野心平


 いきなり「近代詩再読」などと大きく出たが、僕に出来ることは限られている。一般に近代詩人に分類されている人たちの中で、僕が好きな詩人、興味を持てる詩人をとり上げて、数ヶ月に一回のペースで、何がしかの文章を書いていこうと思うのだが、苦手な詩人はとり上げないことにする。よって、その選択は偏ったものにならざるを得ない。文語詩一般がどうも高踏的に感じられて苦手なので、明治期の詩人たちは完全無視という形になるだろう。主に萩原朔太郎以降から、太平洋戦争終結までに活動を開始した詩人のみをとり上げることになるだろう。その中には、終戦後にも旺盛な詩作をつづけた詩人も含まれる。

 以上のように、きわめて主観的かつ恣意的な選択になることをご承知いただいた上で、読み進めてもらえれば幸いである。


 *


 まず最初にとり上げるのは草野心平だが、いきなり近代詩の時代と現代詩の時代を股にかけた、詩暦の長い詩人を登場させることになった。

 草野心平といえば、蛙を題材にした一連の詩で有名である。特に詩集『大百階級』は全篇蛙の詩で統一されていて、その独自の視点、語り口の面白さもあり、草野心平入門用としては最も適した詩集であろう。冒頭に置かれた「秋の夜の会話」は、二匹の蛙の会話で全行を通していて、そうした形式以上に詩としての完成度が高い。



さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだろうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね

(「秋の夜の会話」全行)

 こうした一連の蛙の詩の中で、現在の僕が読み返してみて意外な面白さを発見したものがある。それは、「蛙つりをする子供と蛙」と題されたたった三行の短詩である。



グリャリャ
あの子のちんぽをみな
曲つティるよ

(「蛙つりをする子供と蛙」全行)

 これですべてである。これのどこが面白いのか? まず一行目の「グリャリャ」というのは、蛙の名前であろう。草野心平の蛙の詩には、ところどころに蛙の名前が出て来る。この「グリャリャ」だけでなく、「ゲリゲ」だとか「ギケロ」だとか「ぐりま」だとか「ごびらっふ」だとか、草野心平の詩の中では、蛙にも人間と同じように固有の名前があり、人間と同じように恐怖を感じ、ささやかな遊びを楽しんだりもするのだ。つまり、ここでは一匹の蛙が「グリャリャ」と呼ばれるもう一匹の蛙に話しかけているのである。二行目。「ちんぽ」である。タイトルに「蛙つりをする子供」とあるので、この男の子は池のほとりか何かに座って、釣り糸を垂らしているのであろう。しかも、下半身むき出しでである。エロティックとか言う以前に、何とも滑稽な図ではないだろうか。しかも、その「ちんぽ」が「曲つティる」のである。いったいどんな「ちんぽ」なんだと言いたくなるが、このひと言に僕は何とも言えぬアナーキーさを感じる。よく注意して見てほしい。「曲つている」のではなく「曲つティる」のである。わざわざ途中の字を片仮名にした上で促音をまぎれこませている。蛙の言葉は人間の言葉とは微妙に違うことの表れなのであろうか。こうした独特の「蛙語」とも言うべきものが、この詩だけでなく一連の蛙の詩に豊かな彩りを与えている。それが人間社会に対するある種のカウンターとして響くからこそ、そこにアナーキーさが生まれるのだ。もちろん、そうした回りくどいことを考えずとも、この短詩は一種の可笑しな光景を描いたものとして面白く読めるのだが。

 それにしても、ここに出て来る蛙たちは何とものんき過ぎはしないだろうか。「蛙つりをする子供と蛙」というタイトルである。この少年は蛙を釣ろうとしている。蛙たちにとってみれば、自分たちの命が危機にさらされているのである。「曲つティるよ」などと言っている場合ではないと思うのだが。

 しかし、ここでもう少し思考を働かせてみよう。この詩の場合、蛙たちにとって自分たちを釣ろうとする少年は敵である。命を狙われているのだから、それも当然だ。だが、少年は人間であり、蛙は人間に対しては初めから無力である。そこで蛙たちが取った行動は、逃げるのでも立ち向かうのでもなく、ただひたすら敵を笑うことだったのだ。少年が下半身をさらしたいかに無防備で滑稽な姿でいるか、その「ちんぽ」が「曲つティる」ことを指摘することによって、少年よりも優位な立場に立とうとしているのだ。かなりうがった見方かもしれないが、こうして裏を読んでみるのも面白いと思う。

 この詩以外にも、蛙の詩には面白いものが多い。タイトルの後にやや大きめの黒丸が描いてあるだけの有名な「冬眠」という詩など、一種の実験的な詩とも思えるものから、蛙の鳴き声のオノマトペを使った「号外」や、「秋の夜の会話」の会話形式を踏襲した「おたまじゃくしたち四五匹」の優しくファンタジックな世界まで、蛙というひとつのテーマだけで、実に様々な詩を書きわけている。「号外」での以下に引用するオノマトペは、読んでいて思わず一緒に歌い出したくなるような勇壮さだ。



ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ

(「号外」より)


どうしてだろう。
うれしいんだのに。
どうして。なんか。かなしいんだろ。
へんだな。
そういえばあたしもかなしい。
うれしいからなんだよ。
そうかしら。
そうだよ。きっと。

  (みず。もやもやもや)

きみ。ひとりぼっち?
え?
わかんないなぼく。
ぼくはひとりらしいな。
どうかしらあたしは。

  (みず。もやもやもや)

ちがうよ。
みんなぼくたち。
いっしょだもん。
ぼくたち。
まるまるそだってゆく。
まるまる。
ぼくたちそだってゆく。

  (みず。もやもやもや)

(「おたまじゃくしたち四五匹」より)

 さて、草野心平といえば、蛙の詩の他にも自然の雄大さを謳った数多くの詩がある。『富士山』や「劫初からの時間の中で」「猛烈な天」などがあり、それらの詩も好きなのだが、草野心平の詩を時間を置いて読み返してみると、むしろ詩人の心情が飾り気なく現われている「わが抒情詩」や「デンシンバシラのうた」などにより強く惹かれる。



そんなときには。いいか。
デンシンバシラとしゃべるんだ。

稲妻が内部をかけめぐり。
丸い蜜柑がのけぞりかえる。
そんな事態になったなら。
白ちゃけて。唸るようにさびしくなったら。
人じゃない。相棒になるのは。
夜中の三時のデンシンバシラだ。

デンシンバシラはゆすっても。
デンシンバシラは動かない。
手のない。指のない。見えない腕で。
デンシンバシラは。しかし。
お前を抱くだろう。

ありっこない。そんなことが。
そんなことの方がまだあるんだ。

ちぐはぐで。ガンジガラメで。
遠吠えしてもまにあわない。
そんなときには。霙にぬれて。
夜中の三時のデンシンバシラだ。

(「デンシンバシラのうた」全行)

 淋しい人を慰めるような口調でありながら、そこには詩人が長年培ってきたユーモアのセンスが息づいている。お節介に他人を元気づけようとする者が多い中で、こんな詩になら慰められても良いと思えるし、夜中の三時にデンシンバシラとしゃべっても良いかもしれないとも思えてくる。

 草野心平の詩には、生活者としての土着的な強さがあると思う。蛙や自然を謳い、一見夢想の世界に遊んでいるようにも見えるが、その実しっかりと生活に根を下ろしていて、だからこそつくりごとではないリアルな詩情が詩の中から立ち昇ってくるのではないだろうか。



百姓という言葉はいい言葉だ。
一人で百の姓をもつ。
その豪儀。
その個と。
連帯。

(「百姓という言葉」より)

 こう謳う「百姓という言葉」などは、最も露骨に詩人のそうした特性を表している。恐らく蛙や自然を謳った詩も、そうした生活者としての視点から、下から上を睨みつけるように書かれていて(詳細は知らないが、草野心平はそれほど生活に余裕のある方ではなかっただろう)、そうした視点が時にアナーキーに映るのではないだろうか。生涯に実に多数の詩を残した草野心平だが、詩法の面では様々な変化があるものの、詩人としての姿勢は終始一貫していたように思える。それらの多数の詩を読む楽しみが、読者にはまだ残されている。



(二〇〇六年一月)



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