入沢康夫(「現在詩」の始まり)


 何ともやっかいな詩人を採り上げてしまったものである。しかし、一度決めたからには、筆を先に進めなければならない。

 入沢康夫は難解な詩人である。とても一筋縄ではいかない。僕のような素人が立ち向かうなど、あまりにも無謀な試みなのかもしれない。だが、入沢康夫の詩は難解であると同時に、得も言われぬ不思議な魅力を湛えていて、素通りすることなどは許されない強さを持っている。何といっても、この詩人は戦後日本の現代詩を代表する詩人であり、日本の詩について語る時にはどうしても外すことは出来ない。

 入沢康夫の第一詩集は、一九五五年に出版された『倖せ それとも不倖せ』である。このタイトルだけを見るとべたべたに甘い詩を想像してしまうかもしれないが、事はそう簡単ではない。まず、詩集の冒頭に置かれた「失題詩篇」を見てみよう。


  心中しようと 二人で来れば
   ジャジャンカ ワイワイ
  山はにっこり相好くずし
  硫黄のけむりをまた吹き上げる
   ジャジャンカ ワイワイ


  鳥も啼かない 焼石山を
  心中しようと辿っていけば
  弱い日ざしが 雲からおちる
   ジャジャンカ ワイワイ
  雲からおちる


  心中しようと 二人で来れば
  山はにっこり相好くずし
   ジャジャンカ ワイワイ
  硫黄のけむりをまた吹き上げる


  鳥も啼かない 焼石山を
   ジャジャンカ ワイワイ
  心中しようと辿っていけば
  弱い日ざしが背すじに重く
  心中しないじゃ 山が許さぬ
  山が許さぬ
   ジャジャンカ ワイワイ


  ジャジャンカ ジャジャンカ
  ジャジャンカ ワイワイ


  (「失題詩篇」全行)


 祭りの囃子歌のような「ジャジャンカ ワイワイ」というリフレインが、心地よいリズムを作り出している。詩というよりも歌詞のような趣を持った作品である。内容の方はといえば、心中しようとする男女が火山の噴火口のあたりまで来て迷っているというものである。噴火口を覗きこんではみるが、やはりためらいがあるのだろう。そこに佇んだまま動けない。そんな絵が頭に浮かんでくる。だが、もくもくと吹き上げる煙が二人を急き立てているようにも思える。おそらくこの「ジャジャンカ ワイワイ」というオノマトペは、硫黄の臭いの中から立ち昇る煙の音でもあるのだろう。

 心中という、どうやっても重くなってしまいそうな題材を、軽いタッチでさりげなく描いているところに、詩人の手腕が発揮されているが、これを読んだ人の中には、重くなるべき題材をあえて軽く扱うことに嫌悪感を抱く人もいるかもしれない。だが、ここで既に入沢康夫という詩人の一筋縄ではいかないところが表れていることも確かである。「失題詩篇」というこの詩は、詩集『倖せ それとも不倖せ』の奇妙さと多様さを予告すると同時に、入沢康夫の全詩篇の予告の役割を果たしているとも言える。

 いったいどれを選ぼうか迷ってしまうが、『倖せ それとも不倖せ』からあと二篇引用してみよう。


  広場にとんでいって
  日がな尖塔の上に蹲っておれば
  そこぬけに青い空の下で
  市がさびれていくのが たのしいのだ
  街がくずれていくのが うれしいのだ
  やがては 異端の血が流れついて
  再びまちが立てられようとも
  日がな尖塔の上に蹲っておれば
  (ああ そのような 幾百万年)
  押さえ切れないほど うれしいのだ


  (「鴉」全行)



  彼女の住所は 四十番の一だった
  所で僕は四十番の二へ出かけていったのだ
  四十番の二には 片輪の猿がすんでいた
  チューヴから押し出された絵具 そのままに
  まっ黒に光る七つの河にそつて
  僕は歩いた 星が降って
  星が降って 足許で はじけた


  所で僕がかかえていたのは
  新聞紙につつんだ干物のにしんだった
  干物のにしんだつた にしんだった


  (「夜」全行)

  (原典では三回出てくる「にしん」すべてにに傍点)


 入沢康夫の多様さを知ってもらうために、あえて傾向の違う二篇を引いた。

 「鴉」は、一読して折り目正しい抒情詩のように見える。これはこれで立派なものだし、鴉に託して文明社会を批判的に捉える思想性のようなものも表れていて面白い。だが、もう一方の「夜」はこの詩人の本領発揮である。何故「四十番の一」や「四十番の二」といった数字が必要なのか、何故「干物のにしん」をかかえているのか、どこにも合理的な説明はなされていない。しかし、読者はそこに奇妙な魅力を感じ取ってしまう。どこかの団地に美しい女が住んでいて、同じ団地の別の部屋には「片輪の猿」が住んでいて、語り手は女の部屋には向かわずに、あえて「片輪の猿」の部屋に向かう。「干物のにしん」という土産物を携えて。

 深読みしてみれば、これもまた「失題詩篇」と同じように詩人がどんな詩を書くかの宣言になっているのかもしれない。美しい女に代表されるようなまっとうな抒情性の方には向かわずに、「片輪の猿」のような奇妙な抒情をつくり出そうという宣言のようにも思えてくる。そうすると、第一連最後の「星が降って 足許で はじけた」という一行も、日本の近代詩にあふれていたまっとうな抒情が砕け散るさまを表しているようにも読める。

 『倖せ それとも不倖せ』には実に多彩な詩篇が収められており、ここに紹介した三篇だけではとてもその面白さを伝え切ることが出来ない。ある意味ではデビュー作として完璧な詩集であるが、入沢康夫はここで獲得した豊穣さに安住することなく、次から次へと独自の詩の世界を構築してゆく。ここではとてもそれらの詩業を紹介するだけの余裕はないが、あえてひと言いえば、『ランゲルハンス氏の島』(一九六二年)の擬物語詩という性格と『季節についての試論』(一九六五年)での散文詩の完成は、後に与えた影響を鑑みても特筆に価する。

 六〇年代と言う激動の時代を締めくくるかのように、詩人は大作『わが出雲・わが鎮魂』(一九六八年)を発刊する。「わが出雲」と題された長篇詩と「わが鎮魂」と題された膨大な量の註からなるこの詩集は、日本現代詩の金字塔のひとつと言っても過言ではない。既に多くの詩人や批評家によって語られてきたこの作品に、いまさら僕が何かつけ加えることはないかもしれないし、僕の未熟な腕でこの複雑に入り組んだ作品を読み解くことは不可能なのかもしれない。だが、入沢康夫を語る時にはどうしても外せない作品であるし、あえていくらかの引用と説明を施しておくことも無駄ではないだろう。


  やつめさす
  出雲
  よせあつめ 縫い合わされた国
  出雲
  つくられた神がたり
  出雲
  借りものの まがいものの
  出雲よ
  さみなしにあわれ


  (「わが出雲」Tより)


 全十三章に及ぶ「わが出雲」の書き出しの部分である。「わが鎮魂」での詩人自身による註によれば、三行目の「よせあつめ」から七行目の「借りものの まがいものの」のあたりは、この作品の構成の一面についての説明であるとのこと。詩人の故郷である「出雲」(現在の島根県)を舞台にして、「記紀」や昔話などの日本の神話を援用し、そこにさらにキリスト教の伝説や過去の文学作品からの引用を巧みに織り交ぜてつくりあげられたのが「わが出雲」という長篇詩であり、冒頭の数行でそれを宣言することによって、読む者をこの複雑なテクストの中へと導き入れている。

 このようにして始まった詩は、「友のあくがれた魂をとりとめに来た」(第U章)男の物語を中心に、その物語を隠れ蓑にして、さらにテクストの奥へ、神話の奥へと読者を誘ってゆく。冒頭で「まがいものの/出雲よ」と呼びかけられているように、ここには本当のものはいっさい存在せず、「本当の出雲」という中心の周囲を巡りながら、その中心には決してたどりつくことが出来ない、永遠の回転運動のような趣をもって読者を幻惑してゆく。膨大な引用を詩行の中に違和感なく溶けこませる(あるいはまぎれこませる)とともに、形式の面でも文字が十字の形に配列されていたり(第U章)、行を追うごとに文末が一文字ずつ上がっていったり(第\章)、鏡文字を使用したり(第]U章)と、様々な試みがなされている。それまで詩の世界で試みられてきた手法をひとつにまとめたようでもあり、頭で理解する以上に、肌でそのすごさを実感出来る稀有の作品であるといえる。

 この一大記念碑のような大作の後、入沢康夫はいくつかの拾遺詩集を間に挟みながら、一冊でひとつの世界を構築するような優れた詩集をいくつも発刊してゆくことになる。『かつて座亜謙什(ざあけんじゅう)と名乗つた人への九連の散文詩』(一九七八年)では、一篇の詩を手がかりにして、その詩を元にした(あるいはその詩の元となった)いくつものヴァリアントを提示してみせ、「詩集」という書物の概念でさえも揺さぶってみせた(私見だが、こうした方式は、音楽でいえばシングル盤に同じ曲の異なったリミックスが収められているのを連想させる。七〇年代の時点で言葉だけでそれをやってのけたことは驚嘆に値することだと思う)。『牛の首のある三十の情景』(一九七九年)は、何度読み返してもわからない難解な詩集だが、そのわけのわからなさは「わが出雲」の時と同じように肌でそのすごさを実感することにつながっている。一種の迷宮、「わが出雲」のそれよりもさらに暗い、不気味な迷宮のような趣を湛えていて、わけがわからないけれどもどうしても惹かれてしまう。


昨日の昼屠殺された牛どもの金色の首が、北東の空に陣取つて、小刻みに震へながら、(今、何時だらう)わたしたちの、わたしの、中途半端な情熱の見張り役をつとめてゐる。わたしたちは、わたしは、藻のやうな葉をなま温い風にしきりに漂はせる樹々に背を向け、地べたで、安つぽい三十枚ばかりのプログラムを次々に燃やし、その光でもつて、石柱の表面にはめ込まれた縞瑪瑙の銘板の古い絵柄を読み解かうとする。少くとも、読み解かうとするふりをしてゐる。すでにいくつかの意味をなさない文字が、わたしたちの、わたしの、ひそめた眉の間から生まれて、燐光を放つ熱帯魚さながらに、闇の中へと泳ぎ去つた。

  (「牛の首のある六つの情景」1)


 詩集冒頭の「牛の首のある六つの情景」の書き出しの部分だが、ここですでに詩集全体のモチーフが要約されているように見える(「わが出雲」もそうだが、入沢康夫の詩集には、このように冒頭で全体を予告するような仕掛けが施されているものが多いような気がする)。謎めいた「牛の首」というイメージよりも、全体を通して必ず「わたしたち、わたし」と二重になっている人称代名詞に、この詩集を解く鍵が隠されているような気がするのだが、悪夢のような異様な言葉の群れの中で、ただ迷いつづけることしか、いまの僕には出来ない。これは物語でもメッセージでもなく、一種の記号のようなものではないかという、そんな思いが頭の隅をかすめるだけだ。

 こうした読み解くのに骨が折れる詩を量産した後、八〇年代以降の入沢康夫は、やや私的な方向に言葉をシフトさせているように見える。それでも、言葉によってまがいものの詩をつくりあげてきたこの詩人のことであるから、それは一面に私的なものになっているわけではなく、『死者たちの群がる風景』(一九八二年)や『漂ふ舟』(一九九四年)のように、ひとつの仮構された物語の中に私的なものがまぎれこむといったものになっている。語り口は自然に、よりソフトになったものの、まだまだまがいものの言葉をつくりあげようという意欲は衰えていないのではないだろうか。

 入沢康夫は、おそらく日本の詩の流れの中で最重要の詩人のひとりであろう。それまでの日本の詩は、ともすると感覚と感傷に頼りがちであったが(吉岡実の初期の詩や「荒地」の詩の多くも、感覚によって出来ていると僕は思う)、入沢康夫の登場以降は、言葉でひとつの世界を構築するということが一般的になってゆく。頭脳でつくりあげる詩、そうした自らの詩作を詩人は「まがいもの」と呼んだのだが、このある種の人にとっては敬遠したくなるような種類の詩は、以後、日本の現代詩の主流になってゆく。感覚の詩から頭脳の詩へ。だが、入沢康夫も、おそらく頭脳だけで詩をつくってきたのではないだろう。近年になって私的な要素が詩の中に入りこんできていることを考えても、この詩人はおそらく頭脳と感覚の狭間に立つ詩人なのではないだろうか。入沢康夫が第一詩集『倖せ それとも不倖せ』を発刊した五〇年代は、一方で「感受性の祝祭」と呼ばれた大岡信や谷川俊太郎などの詩人が登場してきた時代でもある。それを思うと、デビュー時の入沢康夫はさぞかし異端に見えたことであろうと想像される。だが、六〇年代、七〇年代と時代が下るにつれ、入沢康夫が提示した方法論(実作とともに、詩論集『詩の構造についての覚え書』などが有名だが)は現代詩の世界では一般的な手法になってゆく(それとともに一般の人々が次第に詩を読むことから離れてゆくのだが、それはまた別の話である)。そういう意味では、入沢康夫は現在書かれている詩の礎を築いた「現在詩」の始まりに位置する詩人なのではないだろうか。


 (入沢康夫・いりさわやすお)

  一九三一年島根県生まれ。

  主な詩集

 「倖せ それとも不倖せ」(一九五五)

 「ランゲルハンス氏の島」(一九六二)

 「季節についての試論」(一九六五)

 「わが出雲・わが鎮魂」(一九六八)

 「かつて座亜謙什(ざあけんじゅう)と名乗つた人への九連の散文詩」(一九七八年)

 「牛の首のある三十の情景」(一九七九年)

 「死者たちの群がる風景」(一九八二年)

 「漂ふ舟」(一九九四年)

 「(とほ)宴楽(うたげ)」(二〇〇二年)



(二〇〇五年九月)


 

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