透徹した視線から生まれる詩


――宮岡絵美『鳥の意思、それは静かに』について



 見ること、能動的に見ること、あるいはふと視界の隅に入ったものが記憶に残りつづけてしまうようなこと。視覚というものは人間の五感の中でもっとも強く、またそれゆえにもっとも残りやすいものであるだろう。そうして記憶の中に残ったものが像を結び、やがてそれは奇妙な形で外側に出て来る。たとえば詩のような形で。
 宮岡絵美の詩集『鳥の意思、それは静かに』(港の人)は視覚的な詩行が多く紡がれた詩集だ。冒頭の「夕暮」という詩を見てみよう。


夕日を見つめたいのだけれど
君からは眼を逸らさなくてはならない
当てはめる定義は夕べ

遠くに見える鉄塔群は
何がしかの生きる術について
おそらくは電波での言語にて話し合う為に
身を寄せあって柔らかく屹立している
多様な赦し
人は何かに向かい合う為に生きているのではないか

(「夕暮」冒頭)

 まず語り手は「夕日を見つめたい」という欲求を語る。だが、すぐに「君からは眼を逸らさなくてはならない」とつづく。「夕日」と「君」が対称的な存在として語られているようであるが、おそらくそうではあるまい。この両者は同じものではないにせよ、どこかで響き合っている存在なのだ。結論を急ぐ前にもう少し後の詩行を見てみると、第二連で「身を寄せあって柔らかく屹立している」「鉄塔群」のことが語られていて、引用部分以降の第三連では「見つめる火は遠く、遠く燃え/たちどころに陽炎が立つ/それが現実だ/歴史の跡を辿りたくはないと/誰もが頬杖をつく窓辺に/君も立って、そして、在る」と書かれている。「歴史」という記憶と記録の集積があり、それは「跡を辿りたくない」ものであるからには所謂「歴史の悲惨」とでも言うべきものがここでは暗示されている。そこに「君も立って、そして、在る」のだから、この「君」という他者もまた、そうした悲惨を、その「跡を辿りたくはない」と思いながらも否応なく「歴史」の中に組みこまれていかざるをえない者としてあるに違いない。ということは、冒頭で対称的に提示された「見つめたい」「夕日」と「眼を逸らさなくてはならない」「君」との関係も明らかになってくる。「君」とは「夕日」に象徴されうるような「遥かなヴィジョン」と心情的イメージが重ね合わされるような存在なのだ。つまり「君」は悲惨を抱えていて、それが語り手によって「夕日」の悲しさに象徴されている。ここで「見つめたいのだけれど」「眼を逸らさなくてはならない」とあたかも対称的に語られているのは、語り手の「君」の悲惨を見つめながらも見つめきれない相反的かつ複雑な心情のゆえであるのではないだろうか。
 そしてこの詩は「いわば同じことが何度も繰り返されるだろう」と、またしてもいまここに在る悲惨と「跡を辿りたくはない」歴史の悲惨とが想起され、「訪ねることが使命でもあるこの地平線に」という詩行で締めくくられている。「使命」というやや大仰とも言える言葉が使われているが、ここで語り手はいまここに在る悲惨と歴史の悲惨とを重ね合わせて、それらを同時に見つめてゆくことを決意したかのように見える。そして、この最終行は第二連最後の「人は何かに向かい合う為に生きているのではないか」という自らへの問いかけのように響いていた一行を再確認するかのようでもある。多少飛躍した言い方が許されるならば、この二つの行において対象を「見つめる」詩人の誕生が告げられているとも言いうるのではないだろうか。
 これにつづく「謎」という詩でもこの詩人であろうとする決意が形を変えて再び告げられているようだ。「わたしの謎はどこ」「私とは/複雑では無いかも知れないと恐れている」というふうに自己への懐疑に似た思いが語られ、つづいて「それは/単純にあなたへの叫び」と他者への渇望が語られながらも「あなたは理解できないだろう/私の隅につきまとう埋火について」と、他者との距離の遠さが語られてもいる。語り手は「握り拳の両手を開いて」「手だけがそこに在る」状態を確認する。そう確認してなお「その手は跡形も無くなったこの地を抱き締める」のだ。


視点が揺れる
世界が止まっているかのように見えるので
私は走り出そうとする

(「謎」最終連)

 やはりこれは決意の詩行であるように見える。「世界」の謎も「私」の謎も、ともに解き明かすことは出来ない。そうであるとわかっていながら「走り出そうとする」。「視点が揺れ」て「世界が止まっているかのように見える」のはそれだけ謎が深いからであると同時に、「何もないのに」「跡形も無くなったこの地を抱き締める」という語り手の姿勢のゆえであるだろう。それはおそらく普通の姿勢ではない。「跡形も無くなったこの地を抱き締める」ようなことを、普通の人はやろうとしないのだ。だからこそ私たちはここに一人の詩人の誕生を読み取ってしまいたくなるのだ。
 考えてみれば「視点が揺れる」というのは何とも示唆的な表現だ。そこに詩を書く者独自の「視点」の在り方があるように思える。こうして誕生した詩人は、果たしてその後どのような物の見方をするのか。誰もが興味を抱くことであろう。
 ややファンタジックな物語を描いたように見える「平行世界、飛行ねこの沈黙」と日常の一齣から書き始められたような「言葉と時間」の二つの詩篇は、その意味で非常に興味深い事例を示しているように思える。「夕焼けに飛行ねこが飛んでゆく」という現実には決してありえないだろう光景から書き始められる前者と「書類を見ていると 何か/忘れものをしているような気になってくる」と始まる後者はいっけん対称的な詩であるかに見えるが、そこに現われた語り手の姿勢は共通している。それはひとつに鳥瞰や俯瞰ではなく地上に這いつくばって対象を見つめようとしていることであり、もうひとつはその視線が最後には書き手が夢見ているであろう何らかの理想を遠く見上げているということだ。「平行世界、飛行ねこの沈黙」では「飛行ねこ」という奇妙な生物に書き手が象徴的に託したものがあり、それを核にして詩行は書き手が想定した場所へと急速に進んでゆく。


飛行ねこは大きな群れをつくり
それはまるでひとつの地平線を形成しているようにみえる
(中略)
飛行ねこは気だかくある
決して鳴かず 静かに
大自然に溶けあうことを許された
特別な存在であることを受け入れているように
その生態はよく調べられてはいるようだが
人々は口には出さない
黙って空を指さし
(ほら、飛行ねこがとんでゆくよ)
空を見上げ
心の中で頷く
どこか神聖な 許された存在なのだ
その風景自体が
我々の生存をつよく肯定してくれるような

(「平行世界、飛行ねこの沈黙」から)

 この「飛行ねこ」に関する記述は、どこか書き手の側に憧れのような感情があるように見える。それは詩人の想像力の中で拵えられた現実にはありえない光景であるだけに、憧れの感情が現実の地平を飛び越えてよりいっそう切ないものとして響いている。「どこか神聖な 許された存在」であるそれは、おそらく人によって「その生態はよく調べられて」はいても「飛行ねこ」の方でその分析を完全に受け入れることはない。言わば「飛行ねこ」は分析はされてもどこかに謎が残る存在としてある。でなければ「我々の生存をつよく肯定してくれる」というようなことにはならないだろう。つまり「飛行ねこ」は半ば神聖不可侵のものであるのだ。そこに詩人の現実世界に対する失望とそれゆえの「飛行ねこ」に託した思いがあるのはその通りであろうが、同時に詩人が感受する現実の強度が「飛行ねこ」に匹敵するほどのものではないからこそだとも言いうる。
 いっぽうの「言葉と時間」は「書類」というきわめて地上的かつ現実的なものがきっかけとなって、語り手の意識が浮遊しはじめる。「書類を見ていると 何か/忘れものをしているような気になってくる」というところから「言葉の海に眠る時間」「私の思い出さない何か」といった現実世界にはない何ものかが想像されてくる。「書類」という意識を目の前に引き留めるはずのものが、逆に意識を浮遊させてしまう。そこから「言葉の海」や「紙の上に印字されたメタ・メッセージ」といった想像が働き、「世界中に散らばっているそれらが/ひとつになることを想像してみる」という地点にまで行く。しまいには「人は追い求めることで/孤独から解放されることがある」という哲学的な境地にまで至ってしまう。「平行世界、飛行ねこの沈黙」では最初から詩人の想像力に頼った書き方がなされており、それが詩行を進ませる原動力となっているのだが、「言葉と時間」においては現実に目の前にあるものが想像力を喚起して、結果として「平行世界、飛行ねこの沈黙」の時と同じような場所へと行き着いてしまう。出発点は異なるのだが、どちらもゴール地点は同じであるかに見えるのだ。そうなってしまうのに詩人の想像力を言うのはたやすいが、同時に詩人が対象を表面を撫でるようなやり方ではなくしっかりと見通しているからこそだとも言える。逆に言えば、だからこその想像力の飛躍なのであり、そうして対象を丁寧に見通して精査した上であるからこそ詩人が求める場所へと詩行は進んでくれるのだ。
 この詩集には「鳥」「空」「飛ぶ」などの言葉が頻出する。ある種幻想的なイメージをかもし出すそれらの言葉は実に魅力的だ。だが、私たちはこれらのキーワードにあまりにも魅惑されすぎているような気もする。大切なのは詩人が対象物を、それが遠くにあるものでも近くにあるものでも変らずに真摯な態度で見つめ、それを詩のかたちで言葉に定着しえていることだろう。詩集に出て来るそれらの言葉はそれを良く成しえるための道具立てに過ぎないのではないか。たとえばこんな詩行がある。


夕方の太陽の中
自宅近くの遊歩道を自転車に乗って走っている
ふいに小さな虫が頬にへばりつき
私は夢中でそいつを取り除ける
(じゃまだな)
左手を見ると〔それ〕は潰れていた
ふいに聞こえる

「それは君だよ」

(「dialogueとしての命、わたし」から)

 よくありがちな何気ない日常の一齣から詩が立ち上がってくる。誰もみな近づいてきた虫を手で追い払ったことがあるだろう。普通はそれだけで終ってしまうのだが、この詩人はその先に詩を見つけてしまう。「(じゃまだな)/左手を見ると〔それ〕は潰れていた/ふいに聞こえる//『それは君だよ』」という四行はどこか恐ろしい。何故恐ろしいのか。それは日常の隙間から日常ではないものが侵入してくるさまが描かれているからだ。「ふいに聞こえる」「『それは君だよ』」という声が何を指しているのか判別しづらい。「小さな虫」が「君」なのか。それとも「君」の方こそが「(じゃまだな)」と思われてしまっているのか。おそらくそのどちらでもかまわない。肝要なのはこの時点で日常に裂け目が生じて、そこから詩が生まれてしまっていることだ。この詩もそうだが、詩集の第U部以降には日常に材を取ったやや軽めの詩が多く収められている。だが、そこでも「夕暮」や「平行世界、飛行ねこの沈黙」と同じように詩人の透徹した視線は変らない。ただ材料が身近なものになったためにやや地味に見えるというだけのことだ。


月に陰翳を映してまで
何を見ようというのだろうか私は
振り向けば降り積もる雪のように
天に白くひかる月は
確かに其処にいるのだが
まだ約束はしていない

(「まるい月」から)

 詩集の巻末に収められた詩の書き出しである。ここまで対象をしっかりと見据えてそこから詩を紡ぎ出してきた詩人は、そうした自らの姿勢を振り返ってみる。そこにふと生じた疑問のようなものは、物言わぬ「天に白くひかる月」を前にしても解消されることはない。「月に陰翳を映してまで」とあるように、ここで詩人は自らの事物に対する視線が自分の中を通すことで歪んでしまっているのではないかと思う。この詩はここから先、それでも何かを見つめざるをえない「私達」について言及して終る。「限りない生の炎影に/跪いた私達は/まるで洞窟に渇えた人のように/飽くことなく/彼方を向いている」のだ。そのような人々の姿を描き出すことで、自らの視線への疑問は抱えながらも、それでもやはり見つめつづけ、その上で書いてゆくしかないのだと言っているように見える。
 詩集全体を通して感じるのは、この詩人が自らの問いに対して正直であり、それゆえの青くささがあるということだ。だが、それは否定的な意味でのものではない。何故ならば、その真っ正直とも言いうる青くささのゆえに、現代詩が久しく忘れてしまっていたメッセージ性が詩の中で実現されているからだ。実際、この詩集にはインパクトの強い詩行がところどころに散りばめられている。ここで引用した詩の中でも「人は何かに向かい合う為に生きているのではないか」(「夕暮」)や「世界が止まっているかのように見えるので/私は走り出そうとする」(「謎」)などがあるし、それ以外にも「振り返る暇もなく過ぎてゆく光線に/明日は繰り返してゆく今ではないのだから」(「生きるために」)、「風を感じるということは/終わりがないということなのです」(「刻印」)、「やはり人間は限界のある生きものらしい」(「遠景」)など、いくらでも挙げることが出来る。こうした衝迫性のある詩行は昨今の現代詩ではなかなかお目にかかれない貴重なものだ。個人的に巷間言われる現代詩の停滞の要因のひとつに、こうした鋭く突き刺さるような詩行、これを個人的には「つかみ」と呼んでいたのだが、それの減少があるように思う。詩の読者でも実作者でもない一般の人々からすると、こういうわかりやすい言葉の連なりはありがたい。それがあることで、たとえ難解な詩でもそれをきっかけにしてその詩のさらに奥へと入ってゆくことが出来る、言わば道先案内のような役割を、そのような詩行は果たしうると思うからだ。宮岡絵美の詩にはそれがある。そのような衝迫性のある詩行があるのは詩人の詩と自らの生に対する真摯さのゆえであるのかもしれない。彼女の紡ぎ出す詩行はある意味危うい。詩と生に対してあまりにも真摯でありすぎるために、読んでいてどこかはらはらするような印象がある。だがそこには同時に現代詩ならではの技術もしっかりとあり、読者を読ませるところもある。個人的にはこのようなある種不器用で青くさい思いが現代詩のスマートな技術とともに実現されているのに、同じ実作者の一人として軽い嫉妬を覚えるのだが、それはともかく、一読者としてはこういう詩は歓迎したい。私たちが詩人に求めるのはただの技術や言語のアクロバットではなく、結局はひとりの人間が透徹した目で対象を見つめて、そこから美しい詩を紡ぎ出してゆくことなのだから。



宮岡絵美『鳥の意思、それは静かに』(二〇一二年四月港の人)


(二〇一三年五〜九月)
(「反射熱」第九号所収)



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