回り道、つぶやく。


――五十嵐倫子『空に咲く』について



 人の心の動きというものは不可思議だ。大抵の場合、人は首尾一貫して考えているのではない。ぼんやりとほとんど何も考えていないこともあれば、何かについて一途に思いを巡らそうとしても、眼に映るもの、耳に聞こえるものに惑わされて思考が中断してしまうこともある。あるいは自分の身体の状態が思考の邪魔をすることもある。空腹であれば食事のことを考えるし、考えごとをしながら歩いていても、たとえば石につまずいて転べば、痛みが思考に取って代わってしまうだろう。五感によって外から取り入れた情報を、脳は瞬時に処理しなければならない。内部での思考よりも外部から来る情報の方が、脳にとっての優先順位が高いからだとも言える。そんなふうにして、人の心は日々回り道をしている。誰もがそうと意識することなしに、自らの中での彷徨を日々体験しているのだ。

 五十嵐倫子のりこ詩集『空に咲く』(二〇〇六年・七月堂)を読んだ。ここにはいま述べたような人の心の中の日々の回り道が、飾ることなくつづられている。いっけん平明な詩のように見えるが、心の動きの過程を克明に記しているので見かけ以上に難解なところがある。



日曜日の夕方
このまま終わってしまうのはいけないような気がして
外に出てみる
ショッピングセンターまで歩いていく
1階から6階まで くまなく歩き回って
もう何も見るものが無くなってしまって
それでも何も買うものが見つからなくって
下へ
下へ 下へ 下へ
地下1階は食料品売り場
誰かが食べているのを見て
何となく たいやきを
1つだけは気が引けるから 2つ買う
家に帰ってからチンして食べることにして
外へ
外へ 外へ 外へ
桜咲く公園へ
散歩しよう

(「たいやき 友だち」部分)

 心の動きをそのままつづったような詩行である。「日曜日の夕方/このまま終わってしまうのはいけないような気がして」というのは、とてもよくわかる感覚だろう。その後につづくショッピングセンターの描写、「誰かが食べているのを見て/何となく たいやきを/1つだけは気が引けるから 2つ買う/家に帰ってからチンして食べることにして」という詩行などは、心の動きを描く際の手つきが実に決まっている感じがする。また、その前後の「下へ/下へ 下へ 下へ」「外へ/外へ 外へ 外へ」というのは、心の動きを視覚化したような詩行だ。

 この後につづく詩行をもう少し引用してみよう。語り手はショッピングセンターを出た後、「公園へと渡る橋の上で」ひとりの男と出会う。



ふと隣を見ると 男が立っていた
私を見下ろしている瞳と出会う
あぁ 好きな顔だな。
目が離せなくて
「たいやきを一緒に食べませんか?」
「・・・・・」
「しっぽの先まであんが入っているんです」
差し出すと 男は少し微笑んだ
知り合うなんて そんなものだ

(「たいやき 友だち」部分)

 先に引用した「家に帰ってからチンして食べることにして」という計画は、男の登場によってあっけなく軌道修正される。「1つだけは気が引けるから 2つ買」ったことが功を奏したような形だが、別にここからロマンスのようなものが始まるわけではない。結局この男とはただ一緒にたいやきを食べ、「しばらくのあいだ/夕日がビルの谷間に沈んでゆくのを眺め」るだけで終ってしまう。物語は発展せず、ひたすら語り手の心の動きだけがつづられていく。何気ない日常の、よくある日曜日の情景。それを心のフィルターを通して掬い上げている。



ページをめくる
右の人差し指の腹で
本の左端の下までなぞって
ぺりっ
ページをめくる
この響きがいい
めくるめく季節を読み飛ばして
最後のページへ

(中略)

ふと 指先の感触を意識する
するり
とたんに何か 風が吹いたようにすり抜けてしまう
時間は
無限に流れていくけれど
生きているものたちには
限られている
時間

(「ページをめくる」部分)

 読書に集中しているその思考が「ふと 指先の感触を意識する」ことによって中断される。これまでの例で言えば、思考の中断は心の回り道をそのまま追うことになっていて、それが語り手の偽りのない心の道筋を誠実に伝えることでもあったのだが、ここではやや趣きが異なっている。本を読む、「ページをめくる」という行為は、長い人生の道を歩むことの比喩になっていて、その中断は生を俯瞰的に見つめ直すことにつながっている。それは自らの生に対する見つめ直しであると同時に、「生きているものたちには/限られている/時間」、つまりこの世の生全体を見つめ直すということにもなっている。そしてそれは、「とたんに何か 風が吹いたようにすり抜けてしまう」という、気づきの瞬間でもある。この詩の最終連、「だけどもしかしたら/答えはいつのまにか本文の中に書かれていて/最後のページで/その答えを知るのかもしれない」という結びはやや常套的に過ぎる嫌いもあるが、読者を納得させる力を持っているし、作者の誠実な心の動きの結語としては順当だろう。何よりも、作者の誠実さがやや無防備すぎるように見えるほど真っ当に表われていて、読者はそこに親しみを覚えるであろうことは想像に難くない。

 これまで述べてきたような語り手の心の動きを丹念に追っていくという書き方は、無駄に詩を長くしていると思われるような危険性がある。心の動きが回り道をしているのを忠実に追っているがために、詩そのものも回り道をしている。余計な道草を食っているように見えてしまいかねない。だが、逆にこのような書き方をすることによって、平明でありながらも豊かな抒情を立ち上げることが可能になっているのだということも言えるだろう。

 たとえばAという状況があって、そこに語り手の心情Bを投影するというのが、日常から詩情を立ち上げる際の一般的な手法である。この場合、語り手は最初に示された状況Aの裏に隠れている。そして、詩の核心となる箇所(多くの場合は詩の結末の部分)でひょっこりと語り手の心情が顔を出す。そういう手法が普通なのだが、この作者の場合、まず語り手の心情Bが大前提としてあって、それに忠実であろうとするがために状況Aがいくつにも細分化されてしまう。普通なら状況の裏に隠れている語り手の心情が初めから顕わにされていて、状況は心の動きにつれて変化する背景と化しているのだ。それがこの詩集の大きな特徴と言える。冒頭近くで述べた「いっけん平明な詩のように見えるが」「見かけ以上に難解なところがある」というのは、こういうところを指している。読者はみな語り手と完全に一体化することは出来ないから、その心の動きについていくという作業はいっそう難解にならざるをえない。語り手の心情がまっすぐではなく曲りくねって伝えられているために、読む方からすると語り口は平明であっても語り手の心の動きについていくのが難しいということになるのだ。

 しかし、私はそこにこれらの詩の美点を見たい。ここまで散々述べてきたようにそれは作者の誠実さから来るものであるし、ささやかで目立たないものであるとは言え、ある種のレトリックとして作用してもいるからだ。

 これまで見てきたように、この詩集には物語はほとんどない。語り手の心の動きが詩集の中の主人公として立派に機能しているから、物語が入りこむ余地がないとも言える。だが、ひとつだけ例外がある。「エマ」と名づけられた作者の母の死をテーマにした詩がそうだ。



きもだめし≠チてしたことある?
私はね 真夜中に墓地に忍び込んだことがある
墓地には灯りがひとつも無いから、真っ暗闇なんだよ
石の路を踏み外したら
よろけて土の上
しっとりとやわらかい感触にビクリとした
一面の墓石がぼうっと闇にひそんでいたよ
だけど会いたくて
勤め帰り 夜も深く沈んだのに
エマが亡くなって四十九日目だったから
こっそり会いに行ったんだ

(「悲しい人いませんか?」部分)

 珍しく誰かに語りかけるような口調で始まる。「エマ」と名づけられた亡き母に語り手は会いに行く。「石の路を踏み外したら/よろけて土の上/しっとりとやわらかい感触にビクリとした」という詩行は、語り手の心の危うさを表しているようにも見える。この詩でも相変らず語り手の心は様々な方向に動く。だが、それがこれまで引用してきた詩と決定的に異なるのは、その心の動きが「エマ」の死によってその死に沿うような形で動いているところだ。引用部分の後、「友達からメールが届」くが、それも「『メイが死んじゃった・・・』/一緒に暮らしていたシェパード/もう寿命だからと言っていたけれど、私も悲しくなったよ」と、「死」というキイワードに沿ってのことである。当たり前だと思ってはいけない。肉親の死という切実なテーマであればあるほど、作者はその切実さから逃れられないものであり、普通は「死」という一点に向かって言葉が凝縮していくはずなのだが、この場合「死」はそこに向かって凝縮するものではなく回転運動の中心軸であるような書き方が成されているのだ。つまり、「死」というものを中心にして、語り手の心がぐるぐると回っているような印象を受けるのだ。「死」を中心軸にして動いているから、どうしても「死」から逃れられないし、どうしても「エマの死」へと回帰せざるをえないような構造になっている。



今日なんだか悲しくなった。
茜色の空を見たとたんに
この感じは
そう
たぶん
きっとね、死んだ人の悲しみが映っているんだと思う
残していく人を想って
どうか深く悲しまないようにって祈っているんだと思う
それが茜色に染まって 私の中の霊がふるえるんだ

だから友達みんなにメールを送るよ

『お元気ですか? お変わりありませんか?
私に届いた悲しみは、あなたのものではありませんか?』

(「悲しい人いませんか?」部分)

 ここに引いた「この感じは/そう/たぶん」とひと言ずつ改行していく部分と、「それが茜色に染まって 私の中の霊がふるえるんだ」という一行も相変らず危うい感じがある。そして「友達みんなにメールを送る」のだが、それは自らの悲しみを確認すると同時にそれへの代償行為であるように見える。それにつづく「『お元気ですか? お変わりありませんか?/私に届いた悲しみは、あなたのものではありませんか?』」という問いかけは、「友達」への問いかけというよりは自らに向けての問い直しのように響く。そして、この詩は「悲しい人いませんか?/悲しい人いませんか?」という問いかけが繰返されて終る。この問いかけも、自らへの問い直しであり「悲しい人」は結局自分であり、それを再確認することによって「エマの死」を自らの内に大切にしまいこんでいるような印象だ。

 引用した詩以外にも、ところどころで語り手の心は揺れ動いている。そこには女性らしい細やかさも認められるし、ひとりの生活者としてふと立ち止まってしまうがゆえの苦さもある。だが、語り手は「空に咲く」ことをあきらめていないように見える。それは生に対する誠実な態度であり、自らの心の軌跡をたどり直すことによって生まれてくる恩寵のような何かなのかもしれない。人が日々心の中でたどる回り道。その中で発せられるつぶやき。その過程を丁寧に記録したものとして、この詩集はある種の貴重な爽やかさを読者に与えてくれる。



五十嵐倫子『空に咲く』(二〇〇六年十月七月堂刊)


(二〇〇七年七月)



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