レッツ・キル・ミュージック


――三角みづ紀『オウバアキル』書評



 頭の中に常に音楽が流れているという人がいる。一九五〇年代か六〇年代以降、大衆娯楽としての音楽はそれを録音し再生するテクノロジーの進歩と相俟って、世界中に拡大していった。そして世界のあらゆる片隅に、頭の中で音楽を鳴らしてしまう名もない人を多く生み出してきた。二〇世紀中盤以降に文化の先頭に立っていたのは、まぎれもなく音楽だった。美術でも映画でも舞踏でもない。ましてや、文学でなどあるはずがない。音楽は特に若年層を中心に生活になくてはならないものとなり、いまや音楽のない日常など考えられないほどにまでなっている。  そうして頭の中に音楽を住まわせてしまった人の中で、外の音楽と自らの内にある音楽は一致しているのだろうか。完全に一致しているという人は幸福だ。だが、時には自らの内と外で鳴る音楽が食い違ってしまい、そのために世界をずらし、自らをもずらす必要性を感じる人がいる。そういう個人のことを、人は「詩人」と呼ぶ。
 二〇〇四年に思潮社から刊行された三角みづ紀の第一詩集『オウバアキル』は、全体を「side A」と「side B」という二部構成に分割している。それはレコードやカセットテープのA面とB面を容易に思い起こさせ、この詩集の書き手もまた世界と日常が音楽に侵食された世代の人なのだということをも思い出させる。


そっと太陽に手を伸ばす
腕、崩れる

(「私を底辺として。」から)

 詩集の巻頭に置かれ、帯にも記されたこの二行は、詩集全体の基調となっているように響く。「崩れる」ところから始まる世界。いや、むしろ自分から積極的に崩そうとしているかのようだ。たとえばこの巻頭詩につづく二篇目「快晴の過程で」では、途中にいきなり「いっしょういきているんだかいないんだかわからないままなのかとおもうと」というそれまでの行に比して明らかに長すぎる一行が登場する。また、「新世界」での空行を多く設けて短い連がたどたどしくつづいてゆくさま。多くの詩で見られる、それまでの流れを分断するかのように括弧でくくられた行がぽつんと置かれるさま。それらは、この書き手が詩の音楽性というものに背を向けているからこそ書かれたものであるかのように見える。
 三角みづ紀がセンセーショナルに登場した時(それはあたかも期待の新人歌手が鳴り物入りでメジャーレーベルからデビューしたようにも見え、そのためにハイプっぽい雰囲気も含んではいたのだが)、読み手が注目したのは何よりもまず彼女の個性的なキャラクターだった。若い女性である上に病気も抱えているという要素が、芸能ゴシップの三面記事のように読者の目を惹きつけたしまったことは否めない。だが、そういうわかりやすい「個性」は表面的なものであり、そこに魅かれて彼女を評価したり、あるいはそれゆえに彼女を必要以上に嫌ったりというのは、結局わかりやすい表層的な部分に目を眩まされているという点で同じ穴の狢でしかなかったのではないか。
 おそらく三角みづ紀という書き手の最大の特徴は、言葉を音楽的に響かせまいという意思にある。それが先ほど挙げた彼女の個性と混じり合うと、ああいう形の詩となるのだ。いわゆる「言語破壊」の詩であり、そういう技術的部分に着目するならば明らかに「現代詩」であり、彼女と似たような個性を持ちながら甘い「ポエム」の旋律に流れてしまいがちな数多の書き手とは、その点で一線を画している。


不安は要りませんか
私の不安
少しわけてあげましょうか
五時の音楽
聴くと
どくんと心臓が波うち
不安の匂いがたちこめる
ヒューストン
ヒューストン
私の声は届きますか
私の不安は届きますか

(「ヒューストン」から)

 彼女の中では周囲のあらゆるものが秩序立った(それこそ音楽のような)ものに響いてしまう。街のざわめき、人々の話し声、車の警笛、駅のホームのアナウンス、そしてあちらの店からもこちらの店からもひっきりなしに聞こえてくる音楽、また音楽。「私の声」も「私の不安」も混沌そのものであり、周囲の秩序とすれ違わざるをえないものとしてある。だからあえて言葉をずらし、破壊し、「私の不安」を保とうとするのだ。それを音楽的な形式のひとつであると見做されている詩を使って行うのはやや皮肉めいているが、だからこそきわめて現代的であり、現代でしかありえない詩として佇立しているのだとも言える。タイトルにある『オウバアキル』の「キル」とは、自分自身と併せて言葉をも殺すということであり、この詩集はそのようにして次から次へと言葉を殺めていった記録なのだろう。
 もちろん彼女もまた現代に生まれ現代に生きる個人であるからには、この時代に君臨する音楽の影響を受けないではいられない。彼女も私たちと同じく、頭の中で音楽を鳴らしてしまう人であるのかもしれない。だが、自らを保つためにあえてそれに抗う。そうして自分自身を確立し、破壊された言葉を自らのものとしはじめた者の出発点として、この詩集はいまも輝きを放っている。


わたしを基準とするならば
皆壊れてしまっているのだ

(「私達はきっと幸福なのだろう」から)

 この「壊れてしまっている」世界と自らとの異和。そこからしか詩は生まれない。そうであるならば、やはり音楽を殺してゆくことでしか道は開けないのだ。レッツ・キル・ミュージック。音楽を殺せ。それが私たちを殺しつくしてしまう前に。そして独自の音楽が、破壊された新しい音楽が生まれる。それが三角みづ紀が歩き出した地点である。



(註)この小文のタイトルおよび文中の「音楽を殺せ。それが私たちを殺しつくしてしまう前に」は、イギリスのロック・バンド、The Cooper Temple Clauseの"Let's Kill Music"から引いた。三角さんはこの曲を知らないかもしれないけれど、彼女の詩の世界観に似ていると思ったので使用しました。


三角みづ紀『オウバアキル』(二〇〇四年十一月思潮社刊)


(二〇〇九年六月)
(「反射熱」第5号所収)



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