〈日常〉へたどりつくための彷徨


――坂井信夫『〈日常〉へ』について



 私たちはみな生きている。〈日常〉と名づけられた普遍の中を、誰もがみな例外なく生きていて、そこから離脱することは許されない。だが、時にそこから否応なく離脱させられて、戻ろうとしてもなかなか戻れずにいることがある。そのような状態にある者にとっては、慣れ親しんだはずの〈日常〉こそが異世界である。彼はそこで孤独に陥りながら自らの心の声を聞く。たとえば夢想するなどして、自らのうちに深く沈潜する。そうして孤独の中に浸っているうちに、求めたはずの〈日常〉を厭わしく思うようになる。それはひとつの悲劇であるかもしれないが、詩的な驚きに満ちたものでもあるのだ。

 坂井信夫『〈日常〉へ』(二〇〇六年・漉林書房)は、そうした〈日常〉へたどりつくための果てのない彷徨を記録した書物といえるかもしれない。「1」から「25」までのナンバーをふられた無題の詩篇がずらりと並ぶ。そこに書かれた言葉は魅惑的で謎めいている。



黄泉から戻ってみると
日常は いつものように続いていた
まるで昨日もそうしていたかのように
妻は台所で鯖を焼いている――だが
いつのまにか家のまわりは
鴉たちの鳴き声に充ちているのだ

 詩集冒頭の「1」の書き出しである。ここで話者は自らが「黄泉から戻って」きた存在であることを語る。「黄泉」すなわち「死者の国」である。〈日常〉から果てしなく離れた異世界からの帰還。だが、それは華々しく祝福されるわけではない。〈日常〉にあふれる様々な事物はどこかよそよそしく他人のような顔をしている。「鴉たち」はまるで話者といっしょに「黄泉」からついてきてしまっているように見える。ここで早くもこの詩集全体を貫く謎のような言葉たちのうちのいくつかが登場している。さらに先を読みつづければ、この後にもまだまだ同じような謎の言葉がいくつもの章にまたがって散りばめられているのがわかる。「黄泉」「鴉」の他にも象徴的な「釘男」もあるし、「六角橋」「上麻生道路」「西岸根」などの地名、「骸」「犀」などの言葉もある。さらに他の書物からの引用部分が何度も折りこまれたり、話者が目撃するそのたびごとに違う内容の貼り紙があったりする。これらのしつように反復される言葉たちは、いったいどんな意味をまとっているのだろうか。



六角橋のマンション二階まで出かけ
一時間かけて全身の疲れをほどいてもらう
(「2」)

死者Kも ぼくも ほんとうは
色あせた黒い服をいつもまとっているのだ
それから六角橋のほうへ進み
旧道をとおって帰りかけた すると
いつのまにか新しいマンションが建っている
(「4」)

きょうも六角橋の迷路をさまよう
(「8」)

 いくつかある地名のうちのひとつ「六角橋」の出てくる詩行を、ランダムにぬき出してみた。おそらくこれはこの詩集に散りばめられたキイワードの中でももっともわかりやすいものだろう。「橋」は伝統的に此岸と彼岸を結ぶものの象徴であり、ここでもそのような役目を担わされていると見ていいと思う。だが、ただの橋ではなく「六角橋」である。その役割は微妙に違っている。「4」での「六角橋」は伝統的な此岸と彼岸を結ぶ存在となっているが、「8」ではいささか趣きが違う。ここでは「六角橋」は「迷路」となっている。おそらく「六角」にヒントがあるのだろう。正方形でもなく真円でもない六角形。その中に迷路が隠されていると想像してみるのも楽しい。「橋」はこの世とあの世を結ぶが、「黄泉」から〈日常〉へ帰ってきても、渡った橋が迷路を内包しているのだから、すぐに〈日常〉にたどりつくことはないのだ。

 それにしても、この詩集には異様なまでに死の臭いがしみついている。死と孤独の臭い。この詩集には様々な事物が登場するが、どういうわけか生きている者はほとんどいない。いるのは「鴉」や「骸」であり、「釘男」であり、「死んだタカハシ」や「詩人K」などの死者たちである。話者の妻などごくまれに生きている者が登場することもあるが、それは話者に対して必要以上によそよそしくふるまう。生きているといっても自分自身の言葉を発することがないから、まるで風景のように見える。話者は「黄泉から戻って」きたゆえに、心身ともに死の臭いをまとっている。だからこそ〈日常〉を復元することが出来ないし、生きている者すべてが他人のように感じられてしまうのだ。

 そしてそこに話者自身が招き寄せたのか、謎の「釘男」が立ち現れてくる。



散歩から帰ってみると
玄関のまえに誰かが立っている――釘男(くぎおとこ)
かれは左手に鴉の屍をぶらさげ
それを五寸釘で扉にうちつけた
(「1」)

わが家にたどりつくと玄関のまえに
待ちうけていたように釘男(くぎおとこ)
なんにもしなかった一日を祝福するように
穴のあいた片手をあげるのだ
(「4」)

 釘男はいつも話者の前に現われる。話者の家の玄関のまえに立ち、「鴉の屍をぶらさげ/それを五寸釘で扉にうちつけた」り「穴のあいた片手をあげ」たりという行為は謎めいていて不気味だ。こうした記述から「釘男」を死神か何かのように感じてしまいそうになる。たしかにそのような側面も持っているのかもしれないが、どうやらそれだけではないようだ。もう少しこの「釘男」について見てみよう。



公園のベンチに坐った男が
寄ってくる鳩たちめがけて餌を投げている
かれは職がないのか 週日が休みなのか
ただ無表情に餌をあたえつづけている
(中略)
鳩たちは餌をついばみながら
「グル グル」と鳴いた あれは
餌をあたえる者への服従のしるしなのか
それとも平安をもたらす鳴き声であったのか
(「15」)

真夏の陽をあびて ひとりの骸骨が
いまにも崩折れそうになりながら立っている
かれはいつからバスを待っているのかと
まるで奇妙な問いがわきあがり
その掌には硬貨が握られているかと
サングラスをはずして顔を近づけると
骨だけの手の甲に黒い穴があいているのだ
まさか釘男のなれの果てではないだろうと
ひとりの骸骨を しげしげと眺めた
すると首から紐が垂れさがり
焼けこげの板がいちまい ぶら下がっている
そこに書かれた文字は判読を拒んでいるが
ただひとつ「××の王」とだけ読めた
(「17」)

 ここで引用した「15」にはこの後「そういえば かつて〈グル〉と呼ばれた男は/髭だらけの顔でブラウン管のなかに笑っていた」とあり、「平安をもたらすはずだった男とその仲間は/いつのまにか殺戮をなりわいとする軍団となり」という記述がつづく。そして章の終りで「餌をあたえていた男は立ちあがると/穴のあいた掌(てのひら)を宙にむかってかざした」という記述があって、そこで初めて読者はこの男が「釘男」であることを知る。途中の「かつて〈グル〉と呼ばれた男」の記述は一種の新興カルト教団の教祖を思わせるが、それがさりげなく「餌をあたえていた男」と重ね合わせられているような書き方がなされている。そして「17」での「ひとりの骸骨」となってしまった釘男だが、彼が首からぶら下げている板には「××の王」と書かれているのだ。このような記述を見ていくと、釘男がイエス・キリストを模倣した存在のように思えてくる。そういえばキリストも磔刑の時に掌に釘で穴を開けられている。最初に話者の前に登場した時に「鴉の屍をぶらさげ/それを五寸釘で扉にうちつけた」とあるのも、釘男の出自を遠回しに言い表しているようで興味深い。だが、釘男はただ単純にキリストそのものの象徴となっているわけではないだろう。詩集の前半でまるで死神のように見えるふるまいをしていたあたりを見ると、生(あるいは聖)と死の境界に立つ者という表現がふさわしいかもしれない。そう考えると、釘男が玄関の前に立っているのも何やら象徴的だ。

 そして、登場回数こそ少ないものの、妙に印象に残るのが「犀」だ。



夜があけると また
何人かが犀になっている――いま
世界はそんなふうではないのかと
ぼくは玄関先においた掃除機に(はたき)をかけながら
ぼんやりと そう考えている
(「7」)

 初めて犀が登場する「7」の書き出し部分である。この後、話者は「あのときなぜか/おれだけは犀にならないと決めこんだ」と昔を思い出しているのだが、やがて掃除をしながら「ぼくの両腕は/いつのまにか硬ばりはじめ」ていて、「背を折りまげてホースを動かしていると/そのまま元にもどらな」くなる。そして、「鼻のうえに小さな突起物が生えて」「両肢は かたい皮膚で覆われ」、話者自身が犀になってしまう。新聞を見ると、「昨日の犀変身者は○人」という記事も出ている。人間が次々に犀に変身しているという事態が、ここでは起こっているということがわかる。

 さらに犀の登場する場面を見ていくと、「10」にこの犀の謎を解くような詩行が出てくるので、これも引用してみよう。



深夜の横浜上麻生道路を
けたたましい爆音で走りまわっている
あれは暴走族ではない――あれは
夜になって犀に変身した若者たちだ
(中略)
もう かれらをパトカーは追わない
夜中の一時に110番する住民もいない
みんな毛布をかぶり おし黙って
ただ嵐が通過するのを待っているのだ

 これを見ると、犀は人間でない者、人間でありながら人間としての常識やルールを理解していない者ということになる。だが、これだけだとただ単に迷惑を顧みない若者で終ってしまっていて、それでは少し弱い。あともう一箇所犀が登場するのは詩集最後の「25」においてだが、せっかくなのでこの章は全行を引用してみよう。



 横浜上麻生道路に立つと、二十年まえに走
り去った暴走族のすがたが甦る。あのころ犀
であった少年たちは、いまどうしているのだ
ろう。みんな十年かけて人間になったあと、
ジャンクフードを貪りながら労働にまみれて
いるのか。それとも犀であったころを懐しみ
ながら暗い部屋で眠っているのか。あのころ
犀をみかけることは稀だった。だが、いまは
どうだ。わずか二十年が経っただけなのに、
路上を往きかうのは犀ばかりだ。かたい(つの)
ふりかざしながら挨拶を交わしているではな
いか。かれらは、いつ自分が犀になったかも
気づかないままスーパーTOPにつめかけ、
デニーズを満席にしている。だれもが犀でい
ることを疑いさえしない。それはたんに慣れ
てしまったからなのか。かつて犀となった者
は白い眼でみられていたが、いまではだれも
異様とは思わない。むしろ人間のほうが歩道
のはしっこを遠慮がちに歩いている。だが、
いまはこんな風景さえみられなくなった。も
はや車道を渡ってくるのは、ぜんぶ犀だ。い
や、もう車さえ走っていない。ふいに、ぼく
の眼のまえで一頭が駆けだすと、つられて数
頭がつづいた。もう長いこと舗装されていな
いアスファルトの車道には、ぶ厚い砂ぼこり
が積もっている。かれらは蹄を蹴たてて走り
まわった。風が――いや絶望が、もうもうと
舞いあがった。みわたすかぎり犀しかいない
光景が現れた。その群れは看板をゆりおとし
広告柱をなぎ倒し、砂塵をまきあげながら道
路いっぱいにひろがった。角をふりたて厚い
胴体の皮をふるわせ、奇妙な叫びごえをあげ
ながら渦をまいた。そのとき忽然とすがたを
現した釘男は、穴のあいた両掌をたかくあげ
て犀たちを静めようとした。けれど狂ったよ
うに群れはかれめがけて襲いかかり、踏みく
だいた。ぼろきれのようになった釘男は、そ
れでもようやく立ちあがり、なにものかを阻
止しようとふたたび両腕をあげた。そうして
犀たちが去っていった後を、一歩ずつ踏みし
めるように上麻生道路の砂けむりのなかに消
えてゆくのであった。

 この散文詩が詩集全体をしめくくっているのだが、ここにおいては犀の存在が圧倒的になっている。これを読むと、犀とはつまり、醜い心を持ちながらそれを自覚しようとしない、本当は弱い存在なのに徒党を組んで強く見せかけている、感性が鈍磨し自我だけが肥大した存在であるように見える。彼等は〈日常〉から外に一歩も踏み出ることがない。〈日常〉という狭い世界だけを世界のすべてであると思い、自我の命ずるままに疾走し振り返ることのない存在。「衆愚」という言葉によって言い表しうるような、人間のどうしようもなく醜い部分が拡大された存在なのかもしれない。いまや圧倒的多数になってしまった犀の群れを鎮めようと、釘男が現れる。だが、彼の力も無力であり、犀を押しとどめることは出来ない。釘男は〈日常〉と〈非日常〉との境界に立ち、その両方を必要とする。そして、話者もまたそうであるだろう。だが、犀は〈日常〉の中にしか住んでいない。彼等は〈日常〉に入り切ることの出来ない話者を尻目に、〈日常〉から〈日常〉へと移動する。あとには、疑うことを知らない〈日常〉が通りすぎていった後の残骸が残されているだけだ。

 結局、この詩集は何を語っていたのか? おそらくそれは明示できることではないし、明示するべきことでもないのだろう。ただ、孤独をまとった話者が〈日常〉へたどりつこうとして彷徨している姿だけが、執拗なまでに克明に記録されている。だが、たどりつくことはかなわず、話者は相変らず〈日常〉と〈非日常〉の狭間に立って呆然としているだけだ。そして私たちは〈日常〉へと至る道が意外なほどに長く曲りくねっていることを知り、その道のりの過酷さを思って自らの〈日常〉もまたそのような不安定なものであるのかもしれないと思って、足下に視線を落とすことになる。そこには、見慣れたはずの〈日常〉が他人のような顔をしてゆらゆらと揺れているのだ。



坂井信夫『〈日常〉へ』(二〇〇六年十二月漉林書房刊)


(二〇〇七年二〜三月)



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