場所と時間の狭間で


――村野美優『草地の時間』について



 人は場所と時間と、その両面を同時に受け入れながら生きている。そのどちらかが欠けても、生の場面を形作ることは出来ない。場所と時間と、それぞれに質の異なる軸が交叉するその狭間に人の生はある。というより、そうして交叉した局面(ある意味それは「特異点」とも言いうるが)の絶え間ない連鎖によって人の生は成り立っているのだ。たとえば、過去のある時間を思い返す時、あの頃はこんなふうだったという思いの中には、記憶が時間にフォーカスすると同時に、その時間に自らが在った場所もフォーカスされているはずだ。人がある特定の場所に特別な思いを抱くということは、その場所が記憶の中で濃密だった時間(それは特殊な時間であったとか、長い時間を過ごしたとか、ケースによりさまざまであるが)に過ごされていた場所であったからであり、そういう意味でも人の生において時間と場所は切り離しえないものとなっている。
 村野美優の詩集『草地の時間』(二〇〇九年・港の人)は、その表題に場所と時間という二つの軸が表れている。いっけんしたところさりげない表題ではあるものの、場所と時間が交叉する局面に常に人の生の主体が置かれているということを考え合わせると、なかなかに意味の深い表題だ。


その寺は
とても広いので

片隅に坐っていると
どこからか落ちてきた
一個の実の気持ちになる

すこし毀れて
汁が出ているけど

ここもだれかの
てのひらのうえ

大きな目が
のぞいている

(「一個の実」全行)

 詩集の冒頭を飾る詩である。一読してリルケの名詩「秋」を思い起こさせるが、あの詩にあった宗教的な感じは希薄だ。ここではむしろかつての名詩を換骨奪胎して、視点をずらすことで新たな詩の世界を形作ることに成功している。最終二行がリルケの「秋」での「けれども ただひとり この落下を/限りなくやさしく その両手にささえている者がある」(新潮文庫『リルケ詩集』富士川英郎訳)という神の視点に対応しているのは明らかだが、ここで主体をのぞく「大きな目」は神というよりもっと曖昧なものだ。たとえて言えば、語り手以外のあらゆる他者の集合体、または時間が延長したところにあるはずの自らを待ち受ける運命のようなものではないだろうか。また、「寺」という場所も純粋に宗教的な場所というわけではなく、「どこからか落ちてきた/一個の実の気持ちに」なってしまう語り手を無言で裁くような場所であり、最終二行の「大きな目」が場所として変換されたようなものと見た方がいいだろう。それは「だれかの/てのひらのうえ」であると同時に、「大きな目」がその視線をもっとも集中させやすい場所なのだ。そうした場所の「片隅」にいることしか出来ない主体のつらさがここには表れており、リルケが「木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように」と俯瞰的な視線で捉えていたのとは大きく視点が異なっており、個人の精神のありようを表現しているだけにより現代的であると言える。さらに言うならば、リルケが「木の葉が落ちる」場面をうたったのに対して、ここでは自らを「どこからか落ちてきた/一個の実」であると見做している。「木の葉」に対して「一個の実」を置くというのも面白いが、自分の心身がそのように外界から途絶されたものとして感じられるという現代人ならではの孤独がうたわれている。ここにあるのは一種の「たどりついた感じ」であり、それまでの生の局面においてさまざまな場所と時間を潜りぬけてきた上での漂着したような感じというか、場所と時間の連鎖を経過した果てのような局面が描かれている。そして、このような「たどりついた感じ」の詩が詩集の冒頭に置かれているということ自体、詩集全体の基調を予告するものとなっているのだ。


想い出の方角が
夜空のように明るいので
おもわずそっちのほうに向かって
歩き出していた

むかし
くるったように
わたしの気持ちで
踏み固めた道の上には

時刻表も行先の表示もない
停留所があって
その前を空のバスがよこぎり

坂道の向こうからは
車椅子に乗った少女が
日差しを弾き返すように
笑いながら降りてきて

頭の上にそびえる
ユリノキ並木の向こうには
かなしいくらい自由な空が広がっていた

(「空のターミナル」から)

 読みながら、「方角」「そっちのほう」「向こう」といった言葉が妙に気になる詩だ。これらの方向を指し示す言葉は、語り手が残してきた時間と響き合って詩を形成している。このように方向を示す言葉が重要な鍵となっているからには、語り手がいまいる場所よりもいまはいない場所の方に思いが向いているということであり、それは「想い出」という形で表される「いまはもういない場所」と、「バスがよこぎり」「坂道の向こう」「頭の上にそびえる/ユリノキ並木の向こう」というふうに次々とたたみかけられる「いまはまだいない場所」の二つの方向を指向している。その正反対の方向の狭間で語り手の主体が引き裂かれてあるというのが、この詩のポイントであるに違いない。それは簡単に言えば過去と未来ということでもあるが、過去にあった場所と未来にあるかもしれない場所というふうにも言い換えることは可能だろう。その両者の間にある主体が「いまここ」(それは英語で言う”nowhere”=”now here”を思い起こさせもする)という時間と場所に立ちながら、とまどっていたり迷ったりしているという構図がこの詩にはあり、そうした語り手の心象を「かなしいくらい自由な空」という形で象徴させている。タイトルにある「ターミナル」とは終着点であると同時に出発点であり、過去の時間と場所、未来の時間と場所の双方の間に立っている語り手がこれから向かうのはどんな局面であるかが考えられている。そういう意味でこの詩は「一個の実」で語られた「たどりついた感じ」の先にあるものであり、たどりついてから後の心の揺れが繊細に綴られている。この詩は引用部分の後で「そこまで歩けばターミナルがあって/きっとさっきのバスに間に合う」と結ばれているが、迷い懊悩しながらも、かすかな希望が語られているのだろう。
 この詩に見られるような過去の時間と場所と未来の時間と場所の狭間で主体が揺れ動くさまがこの詩集では繰り返し語られており、「公園の思い出」のような些細な記憶を描いたものや「藍色のうさぎ」「青いドア」のような深層意識にそっと触れたようなものまで、多岐に渡っている。言ってみればこの詩集全体が過去の時間と場所、未来の時間と場所の間にある主体の揺れ動きを丁寧に追ったものであり、それは書き手個人の思い出といった狭い範囲を飛び越えて、人であれば誰もがそうした狭間に立って自らを顧みることがあるように、したたかな普遍性を獲得したものとなっている。


住宅街を歩いていると
空き地の前で
いつも足を止めてしまう

旧い家が壊されて
新しい家が建つ前の
(草地の時間)
わたしが生まれてくる前と
死んだ後の時間も
そこを流れているような

     *

夜明けにゆかに横たわり
しかばねの姿勢になると
からだは土に抱きとめられて
立ち昇る蒸気のように
息をはじめる

(「草地の時間」から)

 詩集表題作の前半部分だが、ここに描かれているのはこれまで述べてきたような狭間に立つ主体がただ懊悩するだけの状態ではなく、そこからさらに一歩踏みこんだ、何か大きなものとの一体感だ。「空き地の前で」「足を止めてしまう」ことによって訪れるひとつの発見。それが「わたしが生まれてくる前と/死んだ後の時間も/そこを流れているような」「草地の時間」であり、そこに主体がゆっくりと同化していくような形での一体感が実現されている。それは「しかばねの姿勢」という表現で語られているように死を思わせるものだが、「わたしが生まれてくる前と/死んだ後の時間」とも語られているように、生の未然の状態でもあり生の後の状態でもある。常に時間が流れ場所が変ってゆく生の不安定さから離脱した、時間と場所を超越した状態だ。だから、それは死であると同時に生の前でもある。時間と場所の連続から開放されたブレイク的な一瞬の中の永遠であり、そこで主体が同化する大きなものはある種の汎神論的なものだ。詩の終結で語られる「ひととき流れる//草地の時間」とは、そうした永遠のような一瞬でひととき味わうことの出来るものであり、語り手はこの時だけは何とかして安らぐことが出来ている。もちろん、その後も生の相対的な時間と場所の局面が連続して語り手を訪れるであろうことはわかっているのだが、そうであるからこそ逆にこの一瞬の解放は貴重なものとなっている。場所と時間が交叉する地点の連続が生の本質だとするならば、この詩で語り手が安らいでいる「草地の時間」とは、場所と時間が交叉する地点と次にまた場所と時間が交叉する地点へと行き着くまでの中継地点であり、その連続が途切れた狭間の場所だ。「一個の実」「空のターミナル」で語られているように場所と時間の狭間で懊悩したり迷ったりするのも人ならば、場所と時間の連続の狭間で安らぐのもまた人であることをこの詩は静かに物語っており、生の局面の交代の連続に疲労せざるをえない人間がいかにしてひとときの安らぎを得るかということが、その孤独と凍結した時間と場所とともにさりげなく提示されている。また、こうした一瞬の中の永遠、凍結した時間と場所を提示するということは、「草の音」の中で語られている「声をもたないものたちが/はげしく音をたてている」という小さなものが上げることが出来る世界に対する一種のプロテストになりえているのも重要だ。
 こうして見ていくと、この詩はある種の「たどりついた感じ」を表現した詩集冒頭の「一個の実」と対になっていることがわかる。あそこで語られていた自らを外界から途絶して「一個の実」と感じてしまうような孤独感が、ここでは汎神論的な境地の中で救われている。どちらも場所と時間が織り成す局面の連鎖から一瞬離れていることは変らないものの、主体の意識の方向性がまるきり異なっているのだ。そうすると、リルケの「秋」から着想を得たように見えた「一個の実」が、ここに来て西洋的な一神教ではなくあくまでも土着的な汎神論へと昇華していったのも面白い。「草地の時間」という言葉で示されるこの境地は、静かではあるものの内に秘めた力を感じさせるものがあり、それを読む者にもまた静かな力を与えてくれるようなところがある。
 こうして「草地の時間」は人を捉える。だが、先にも触れたように、それが終った後も生はつづくし、つづけていかなければならない。また場所と時間の交叉する狭間に人は置かれるが、このようにひとときその連続から離脱して、生ではありえない夢を見るのもいいだろう。それは人にとって、自らが許されて在るということをおぼろげながらも感じ取れる瞬間であるはずだ。



村野美優『草地の時間』(二〇〇九年十一月港の人)


(二〇〇九年十二月)
(「反射熱」第6号所収)



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