物語から滲み出るもの


――樋口武二『異禫集』について



 樋口武二詩集『異禫集』は、その書吊からも、またあとがきで著者自ら「長い間、『物語性』にこだわってきた《と書いてあるところからも、普通の詩集に見られるような一瞬の抒情性ではなく物語性に依拠した詩集であることがわかる。それがすぐさま読者に了解される詩集であると言っていい。だが、その物語性はやはり単純な散文性ではなく、どこまで行っても詩でしかない類のものであり、物語性というものを原動力にして詩が貫かれている。
 冒頭の「窓から人が《は詩集全体の物語の導入部のように響く。「リビングの窓が、大きな音をたてて開いた。//あわてて覗いてみると、/靴を履いたままの男が、のっそりと、/窓枠を跨ぐところであった。《と始まるが、後に自ら「Rだ!《と吊乗るこの男が詩集全体の水先案内人だ。まずはこの正体上明の人物の後についていって、詩集の中に入ってみることにしよう。
 詩集の最初の方、たとえば「花豆はどうですか《などは、よくありがちな「奇妙な物語《を描くのに腐心しているだけのように見える。「散歩から帰ったら 見知らぬ人が、玄関先に立っていた 花/豆を売りに来た、というのだが そぶりが少しおかしいので/ある《と語り始める散文詩だが、奇妙な物語を語ろうという書き手の意志に躊躇はないように見える。だが、それだけに多少の物足りなさも感じざるをえない。また、ここでは「花豆《が何を象徴しているのかわかりづらい。もちろん簡単にわかってしまったらつまらないというのはあるだろう。だが、それだけに「あたりは薄闇で 声だけが響いている 花豆はどうですか!/いらないよ、の声と 犬の吠え声に混ざって 咳き込むよう/な激しさで 花豆は柔らかいぞ! という声も聞こえた《という最終連の何かを言いたげな箇所が気にかかって、どうにも収まりが悪い感じがしてしまうのだ。ここにはおそらく物語詩というもの全般の弱点がある。具体例を出すのは避けるが、普通の抒情詩にあるような比喩のわかりやすさがなく、どこか朦朧とした感じがある。それが「現代詩《であると言ってしまえばそれまでだが、抒情詩に慣れているであろう一般の読者からはどうしてもある種の距離を感じてしまうようなところがあるのではないか。また、このような「奇妙な物語《というものが、どこか使い古されたものであるという印象を抱かれやすいのも弱点だ。ということは、書き手のこだわりなどあずかり知らぬ読者からしてみれば、感想を言いづらい微妙な距離感のある詩であるということになってしまいかねない。
 そうした物語詩の定型に則った詩がつづく中、中盤に収められたいくつかの詩は、似たような物語性を持ちながらも、それだけではないところへ抜け出しているような雰囲気がある。


田圃のなかで、
真っ赤な旗を、しきりにふっている人がいる。
通りすがりの農家の人が
大きな声で呼んでいるのだけれど
やっぱり その人は
風のように旗をふっているのである。

(「旗《)

 ここにもまた「窓枠を跨ぐ《「靴を履いたままの男《や「花豆を売りに来た《「見知らぬ人《と似たような「真赤な旗を、しきりにふっている人《という奇妙な人物が登場する。だが、この詩の場合はそうした奇妙な人を中心に物語が語られるのではなく、そうした人はむしろ物語の後景に退いているということが、詩を読み進めるうちにわかってくる。引用した導入部の行分けパートにつづいて散文詩のパートが置かれているが、そこを見てみると、「真っ赤な旗を、しきりにふっている人《は単に詩全体への水先案内人に過ぎないかに見える。


電車の音が聞こえる 国道では車のブレーキ音が響いて 切
ないような子供の声もして やがて風景には、いろいろな音
が混ざって 交差して、 呼びかける人の声も 切れぎれに
重なりあって 昼下がりの田圃では 旗が激しくふられてい
る 水のように流れていた時間が そこだけ、一瞬、止まっ
たのだ 波のように 稲が揺れるむこうには 白い日常があ
って やがて 夕暮れの雲と アキアカネの群れが来て 赤
い旗と一緒に 田圃のなかで戯れている パタパタとふられ
る旗は ふられるだけで風景となって 風のように流れて、
音だけが残っていった(後略)

 ここに見られる描写は、風景を描きながら風景そのものが抒情になる過程をつぶさに追ったものだ。「電車の音《「車のブレーキ音《「子供の声《といった耳に聞こえる音をきっかけに、風景が広がってゆく。「やがて風景には、いろいろな音/が混ざって 交差して、 呼びかける人の声も 切れぎれに/重なりあって《ゆくのだ。そこでようやく登場する「旗が激しくふられている《光景は、もはや風景の中心にはいない。聴覚から視覚が導き出されたことでふと目に留まる光景、思い出された光景でしかない。だが、それは思い出されることで「水のように流れていた時間が そこだけ、一瞬、止ま《るほどの力(というよりある種の喚起力といった方がいいか)を持っている。だから特殊な光景であることに違いはない。そうして時間が止まることで「夕暮れの雲《や「アキアカネの群れ《といった別のものたちが「赤/い旗と一緒に 田圃のなかで戯れ《はじめる。つまりは、「旗《が喚起するある種の抒情的なものの中に同化していく。そうして「旗は ふられるだけで風景となって《「音だけが残っていった《というふうに、視覚からふたたび聴覚へと感覚が切り換えられるのだ。ここには物語性から逸脱したものがある。それが抒情性であり、詩を詩たらしめている鍵を握っているのは見えやすい。
 この詩集の中で筆者が個人的に最も魅かれたのが「驟雨《という詩だ。よくありがちな夢の記述ふうの物語の中で、「わたしはゆうれいなの《と語る人物がなまめかしい存在感を放っている。語り手はその人物とともに「夕暮れの 湖水の畔/の家で しきりに水を飲んで《いる。


    ゆうれいはさびしい とそのひとは呟いていた 子
供だったわたしには とうてい理解の出来る話ではなかった
のだが 小さな頭で、はい、と頷いてから 冷たい水を一口
飲んだ ただ それだけのことである その細い指で 桜色
の 薔薇の花弁を ほんのひとつまみ コップの水にひたし
てから 人の時間は遡行することが叶わないけれど ゆうれ
いというものには 時間そのものがありはしないのよ、と、
そんな話の幾つかを 水を飲みながら ひとりしずかに語っ
ている まるで問わず語りのように それが 耳に やさし
く響いていた

(「驟雨《)

 このように霧のようなぼんやりとした枠組から始まる物語は、語り手である「子供《の想像を導き出す。彼は「ゆうれいだという そのひと《を「きっと こ/の湖水の姫君で まぼろしのような形をとりながら わたし/だけに 逢いに来てくれたのだと そんな たわいもない物/語を ながい夏の日々に 幼い頭で 思いついては壊していた《のだ。それは語り手の幼さゆえの身勝手な幻想であり、「ゆうれいだという そのひと《は語り手の夢の中のアニマ的な存在として現われている。やがて「子供《は時を重ねて大人になる。「その記憶が幾重にも重ねられて、/やがて 夏もおわり 季節は秋から 冬へと移ろ《っていくのだ。そうした中、ふたたび「そのひとのうたう歌が 湖水の上を/そっと流れて わたしの枕辺にしずかに届く《。幼年の頃の夢、または幻想が思い出されてくるのだ。


                   ゆうれいはさびし
い といったひとの 甘い声が緩やかに聞こえ いっときの
あいだ 驟雨が 湖面を激しく叩いて それは やがて 夜
明け前の 暗い風景へと しずかに戻っていくのであった 
人は このようにして狂うのかと そんな思いを引きずりな
がら 時間が潮のように流れて あいもかわらず 耳の奥の
湖では 優しい蝸牛が 夜な夜な 私はゆうれいなの と囁
きつづけているのだ(後略)

 ここには幼年の頃に見た夢、または幻想が、人に復讐するさまが描かれているように見える。「人は このようにして狂うのか《以降の詩行がそれを語っている。ここでは「耳の奥の湖《と書かれているように、かつて見ていた夢のような光景は記憶の中にしかない。その中で「優しい蝸牛が 夜な夜な 私はゆうれいなの と囁/きつづけている《。つまりは「蝸牛《の持つ殻の形状のように、記憶が脳裏でぐるぐると回りつづけているのだ。それが現在の自分自身を縛りつけているように見える。
 こうして見てきたようにこの詩にも物語性があるにはあるのだが、それは物語だけが独立して自己主張しているのではなく、あくまでも詩の中身を推し進めるための原動力として働いているだけだ。そうすることで抒情は響きわたり、詩はより詩らしい姿を取ることが出来る。そこでは物語詩という形式が書き手を陥れかねない陥穽も、周到に回避することが出来る。物語だけでしかないというつまらなさから解放されるのだ。
 最後に取り上げたいのは「沼 あるいは記憶《という詩だ。「驟雨《では「湖《という舞台設定があったが、ここでは「沼《である。また表題にもあるように、同じように「記憶《について語られている。だが、この詩ではその表現方法はより直接的になっている。


沼の中から ちいさな声で 呼ばれたような気がした 思わ
ず知らず こちらもちいさな声をあげて 密生した草群をわ
けて あわてて坂道を戻っていた ただそれだけのことだっ
たが 幼かった私の脳裡には はっきりと、その情景だけが
刻みつけられていて 還暦を過ぎたいまでも 思い出したり
すると しずかな恐怖が 油のように ゆっくりと満ちてく
るのだ 林いっぱいに蝉が鳴いて わたしはひとりだった

あれは、いったい何だったのだろうか。
と ときどき思い出しては、揺さぶられながらも、
私の内部の沼は、だんだん大きくなっていく。
のぞいて見れば、それでオシマイの話なのだろうが、
そうした勇気が、いまだに無いだけのことなのだ。
近くに桜の樹があった、とか
大きな青大将が、水の上を滑っていた、とか
いろいろの記憶が錯綜していて、
わたしの夏休みは光に満ちて、
だからというわけではなかったが、沼は物語のようである

(「沼 あるいは記憶《)

 幼い頃の記憶を「還暦を過ぎたいまでも 思い出したり/する《というところは「驟雨《と似ているが、こちらは純粋な夢や幻想ではなく現実の体験を通した上でのものに見える。「沼の中から ちいさな声で 呼ばれたような気がした《というあまりありえそうにない体験だが、少なくとも「幼かった私の脳裡には はっきりと、その情景だけが/刻みつけられて《いるということになっている。それでもやはり、この「沼《が語り手自身の無意識の象徴であるかに見えてしまうのも確かなことだ。おそらく語り手が幼い頃に現実に見た沼の光景が記憶に貼りついてそのまま過ごしているうちに、それが心中に秘められた謎を貯蔵する存在として定着していったのであろう。だから、それは現実であると同時に非現実であり、自分の外側にあるものであると同時に内側にあるものでもある。「驟雨《の「ゆうれいだという そのひと《がそれまでの体験の断片をつなぎ合わせて心中で少しずつ形作られたアニマ的な存在であるのに対して、この「沼《は現実に見たものがそのまま自らの裡で象徴的存在へと変貌しているという違いがあるだろうか。「沼の中から ちいさな声で 呼ばれたような気がした《というのは無意識からの呼びかけであり、「しずかな恐怖《が「還暦を過ぎたいまでも《やって来てしまうということは、幼い頃から始まった無意識との葛藤をいまだ克朊できていないということになる。それをおそらくは自らの中でごまかしながら成長し、そうしているうちに、「私の内部の沼は、だんだん大きくなっていく《のだ。それにつづく「のぞいて見れば、それでオシマイの話なのだろうが《という一行は実に示唆的だ。何が「オシマイ《なのか。また、「のぞいて見れば《も、「覗いて見れば《か「除いて見れば《のどちらだろうかと、読み手に想像力を持たせる余地がある。前者であれば無意識の底を覗くことで隠されていた自分自身と対峙してそこで問題は解決するという意味になるだろうし、後者であればあえて無意識を見ないことで問題を終ったことにするという意味に取れる。いずれにしても「沼は物語のようである《のだから、語り手自身が自らの裡に抱えこんだこの深淵の重要性は変らない。
 この詩はやがて「赤いリボンの《「少女《というまたしても夢のアニマであるかのような存在が登場し、それが「(ねぇ、早く来てぇ、早く!)《と語り手に呼びかける。そして「息を切らして あの幼かった日々にむかって《「昨日も、今日も そして十年先も わたしは 真夏の坂道を激しく駈け上がって《いくことになる。それは過去への遡行であると同時に、未来への予兆でもあるというような書き方がされている。結局、「沼《の問題は解決しない。それを抱えたまま年老いていくのだと言っているように読める。
 こうしてひとつひとつの詩を見ていくと、確かに物語詩ではあるが、それだけではないものが滲み出してきているのがわかる。冒頭の「窓から人が《にしてもいっけんただの「奇妙な物語《を綴っているだけのように見えるが、この侵入者が語り手が過去に置いてきた「昔の負債《を象徴する人物であるように見える。つまりは、無意識という吊の記憶の底に沈んだ忘れかけたものたちが現在へ滲出してくるのだ。詩集の表題にある「異譚《もいっけん一九七〇年代や八〇年代の天沢退二郎の詩に頻出した「譚《と同じようなものに見えるが、天沢の詩にあった芸術性がここでは薄められ、より書き手の過去と記憶と無意識に焦点が絞られたものとなっている。「奇譚《ではなく「異譚《であるというのが示唆的だ。それは「異なるもの《が自らの裡に潜んでいることを示し、それを語ることが現在の自らの存在を揺るがし脅かし、また再確認する作業となっている。そうして過去を掘り起し現在の時点から語り直すことで、主体の自我は更新される。『異譚集』という詩集は、その過程を物語という形を借りて丁寧に追ったドキュメントであると言える。



樋口武二『異禫集』(二〇一三年二月詩的現代叢書)


(二〇一三年三~四月)
(「詩的現代《第5号所収)



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