家族的情景への収束


――服部剛『Familia』書評



 服部剛の詩集『Familia』(二〇〇九年五月・詩遊会出版)には、タイトルどうり様々な家族的情景が描かれている。ここでわざわざ「家族の情景」ではなく「家族的情景」と書いたのは、詩集の中の語り手が自分の家族だけでなくそこに登場するほとんどすべての人たちを、まるで自分の家族の一員であるかのように遇して思いを傾けているのがはっきりと現れているからだ。それは「老人ホームの送迎車から/半身麻痺まひで細身の体を/僕に支えられて降りたお婆ちゃん」(「手像の指」)だったり、「去年の暮れ/五十八で亡くなった/少年野球の頃の監督」(「風の声」)だったり、「自ら人生を途中下車した友」(「春雨の午後」)だったりと様々だ。それらの人々は死者だったり正者だったり、語り手のよく知っている人だったり見知らぬ人だったりするのだが、ひとつ共通しているのは、彼等が服部剛というひとりの書き手によって家族的情景の中に召喚され、極めて親しげな眼差しを送られているということだ。詩の中に彼等が登場する度に、語り手とほとんど同一人格になっている書き手によって家族的情景の中に置かれてゆく。それは詩の言葉がその情景一点に収束してゆくという形で現れるものだ。書き手が日頃の生活で見聞したものを詩の形で再現しているという、極めて素朴な作風であると言える。


親父は定年退職し
母ちゃん専業主婦となり
息子のぼくは半人前

母ちゃん家計簿とにらめっこ
ばあちゃんが払う食費も1万ふえて
なんとかやりくりの日々であります

 こう始まる「さといも家族」は、普通の家庭のどこにでもある日常を描いていながら、後半に至って思いもよらない相貌を見せる。タイトルにもある「さといもの煮っ転がし」が食卓に並んでからだ。「食卓の上の/天井から吊るされ」た「らんぷに照らされた/いくつものさといも達は」「じっとみつめると/だ円の丸みに小さな目鼻が浮かんで」くる。「さといも」というごくありふれた食物が擬人化され、家族的情景の中心に座り始める。そして、「『ぼくらを食べて!』とにっこり言」われるままに「さといも」を食べた家族は、自分たちが口にする食物と同化し始める。


家族4人で食卓囲み
今日の出来事を語らいつつも
4人の口の中で身を崩すさといもが喜んで
ぼくの口の中を少々くすぐるようです

4人の顔はそれぞれの大きさで
灰色のだ円の丸みになってきます

 ここでは「さといも」に家族の仲を取り持つような役割が与えられており、それを食べることで「灰色のだ円の丸みになって」くる。家族的情景が「さといも」によってデフォルメされているのだ。いっけん「さといも」が情景を支配してしまっているように見えるが、それはあくまでも引き立て役でしかなく、人と人のつながり(この詩においては家族のつながり)を再確認し強めるために呼び出され、表面に出ていながら人の裏に隠れているという構図になっている。
 ここに服部剛の詩の持つ強みと弱みがある。このような手法はわかりやすいため読み手にすんなり納得させる力を持ちうるが、いっぽでそれらはすべて人々がかもし出す家族的情景を引き立てるためにあるので、陳腐な手法として便利に使いまわされて形骸化しやすいという弱点を併せ持っている。
 ともかく『Familia』は前詩集『風の配達する手紙』(二〇〇六年・詩学社)に比べると、書き手の詩を書く動機がより純粋に表出している。家族的情景への収束という、現在の詩の流れの中ではある意味特異とも言えるそれにぶれはない。書き手はそこにある種の信仰めいた感情を持って臨んでいるようにも見える。個人的には第三部に収められた一連の詩(「宇宙ノ木」や「ルーアンの鐘」等)にこの書き手の新たな側面を見たいという思いがあるが、こちらの勝手な思惑など気にすることなく、服部剛は自らの詩を追い求めてゆくことだろう。その途中にある里程標のひとつとして、とりあえずはこの詩集を受け止めておきたいと思う。



服部剛『Familia』(二〇〇九年五月詩遊会出版)


(二〇〇九年八月)
(「反射熱」第5号所収)



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