遠い場所へ届こうとする言葉


――中村剛彦『壜の中の炎』について



 人が日常生活において言葉を発する時、それは普通ごく近い場所を対象にしている。家庭でも、職場でも、あるいは街中でも、言葉は近くにいる人に向けて、または自分がいるエリアの中に存在する人に向けて発せられる。自分の目と声が届く範囲。その中でしか人は声を発しない。だが、時に自らが存在するエリアを越えて、どこだかわからない遠い場所へ向けて声を発する者がいる。多くの場合、その声は日常の雑事の中で掻き消され、目的の対象に届くことなく消えてしまう。それでも、ある種の人間は遠い場所に向かって声を発することをやめはしない。そうした人間のことを人は芸術家と呼び、また詩人と呼ぶ。

 中村剛彦の詩集『壜の中の炎』(ミッドナイト・プレス刊)は、そうした声が控え目ながらも確実に発せられている書物だ。そう。私はいま「控え目」と言った。この詩集に収録されている詩篇には人を驚かすような複雑な言語実験が試みられているわけでもなければ、多くの夜を必要とするような長い物語が綴られているわけでもない。それらの詩はぽつぽつと言葉少なに自らを語る。だが、何気なく読んでいるうちに突然鈍い痛みが襲ってくるような、忘れかけていた幼い日の感情が蘇ってくるような、そんな感触が喚起されてくる。決して派手ではないが、本物の抒情がそこにはある。

 収録された三十三篇(ジェームズ・テイトとシルヴィア・プラスのそれぞれ二篇ずつの訳詩も含む)を順を追って読んでゆく。巻頭の表題作がこの詩集の声のトーンを予告している。



窓に飾った古いガラス壜の中に、小さな月が灯った
小さくても部屋のかしこに、光は届いた
それはあなたと出会った夜のこと

それまで壜の中では、野心の青い炎が一つ
ゆらゆらと揺れ、ときに罪の色を帯び
ひときわ大きくうねっていたものだが

あの夜からずっと、小さな月は壜の中に灯っている
今宵は、この孤独な月を吹き消して
あなたに捧げる赤い炎を灯そう

やがて赤い炎は青い炎と一つとなり
おのずと小さな太陽となり輝きはじめる
そしてもう、あなたのもとに、光は届いている

  (「壜の中の炎」全行)

 ここで早くも声はどこかへ届こうとしている。「あなた」と語られた存在、その元へ届こうとして、声は振り絞られている。定石通りの読み方をすれば、「あなた」とは恋愛対象となる人物であろう。だが、この「あなた」を、たとえば詩人が目指す詩の理想であるとか、あるいは宗教的な存在であるとか、いかようにも読み換えることは可能だ。しかし、重要なのはそんなところにはない。大切なのは、この詩人が厳かなやり方で「あなた」に向かって声を発しているというその事実だ。「あなた」はもしかしたらものすごく遠い場所にいる存在なのかもしれない。だが、それでも構わず、詩人は声を発する。ひたすら「あなた」の元に思いを届かせようとして。

 「刻印」と題された詩は、この詩集に収められたいくつかの寓話ふうの作品の中でも最も簡潔な方法で語られ、それゆえに最も的確に抒情を引き出している成功作だろう。



老夫婦は山を下り広い原野に出た
そして夕焼け空を指差し
あれが一番星、二番星と
数えながら町へ向かった

やがて日は沈み辺りは闇に閉ざされた
老夫婦は空一面に輝く星々を指差し
あれが一番星、二番星と
数えながら歩き続けた

そのまま二人は町へ戻らなかった
時は静かに過ぎ去っていった
人々が気づいたのは随分のちのこと
幾千もの星が空には輝いていることに

  (「刻印」全行)

 たった十二行の詩の中に、これだけ豊かな抒情を結実させる詩人の力に驚嘆する。この「老夫婦」はまるで預言者のようだ。彼等が星を数えている間は、誰も星の存在に気づかない。だが、時が過ぎ、気が遠くなるような長い時が過ぎて、人々はやっと星を見つけるのである。「老夫婦」はきっと、遠い場所から遠い声を伝えるためにやって来たのだろう。人に気づかれることのない真実を言葉に託して伝えるのが詩人の役割のひとつであるのなら、この詩人には充分その資格が備わっているように思える。

 集中、いくつかのユーモラスな響きを湛えた詩篇があるが、それをただの可笑しな詩で終らせていないところは、この詩人の生真面目さだろうか。特に「秘密」と題された詩が目を惹く。



僕の指は五本とも罪人です
親指は窃盗
人差し指と中指は姦通
薬指は強盗
小指は親殺し
気品のある犯罪意識
見事な犯罪過程
様々な上級犯罪の美学を備え
すべて最上の働きをしました

そのためこの誇るべき五本の指は
栄光のギロチンにかけられます
真っ白な断頭台に第一関節を引っ掛け
僕の体重と同じ重さの刃が降ろされる
それは人波の中
世にも荘厳な日常の営み
あっちにも、こっちにも
あの黒髪輝く、横顔が可愛らしいあの子も
指先には罪の指輪をはめている

揺れる、揺れる
断頭台のぬくもりが体中を沸騰させ
早く、早く
この五本の指を斬ってください
さもないと
罪の子供たちが春が来たと間違えて
今にも飛び出してきそう

(「秘密」全行)

 五本の指に罪を負わせる書き出しはまぎれもなくユーモラスだが、行を追って読んでゆくとただそれだけではないことがわかってくる。自らの心身から滲み出すように現れる罪、それに対して詩人はとまどいながらも、じっと身を低く保っている。罪を滲み出させないためにも、自らを笑うユーモアが必要だったのだろうか。だが、そのユーモアの後ろには、詩人の決死の思いが隠れている。だからこそ「秘密」という表題なのだ。この「秘密」を知られてはならない。知られてしまえば、「春」が何の恩恵もなしに傍らを通り過ぎてしまうだろう。そんなことを許してはならない。だからこそ、五本の指の「秘密」は保たれていなければならない。



長く長く 歩きついた
二十四歳の南国の
暁の砂漠のまぶしさに
思わず足をすべらせ尻餅つくと
これから一体何を見つめ
どこへ行けばいいのか分からなくなった
そんな時真っ青に晴れた空から
友がくれた腕時計が落ちてくる
親父がくれた眼鏡が落ちてくる
母がくれた万年筆が落ちてくる
そして一編の詩が落ちてきて
見えた!
砂塵に白む少女の目
そうだ、今こそ爽やかに
一人熱い足跡を残しながら
あそこへ向かって歩いてゆけばよい

それは光り輝く南国の
二十四歳の朝
恋のように詩が生まれ
詩のように恋が生まれた

  (「朝」全行)

 ここで読者は、詩人の遠い声の誕生に立ち会うことになる。清新なみずみずしい抒情を湛えたこの詩は、若さゆえの「暁の砂漠のまぶしさ」に満ちていて美しい。「二十四歳の朝」、この時、詩人は遠い場所へ声を届かせる決意をしたのではないだろうか。その「見えた!」という瞬間の驚きと、世界が一瞬にして変貌する喜びとを、詩人は知る。遠い場所へ声を届かせようとする決意は、すなわち詩人として生きてゆく決意でもあるだろう。「あそこへ向かって歩いてゆけばよい」とうたわれる「あそこ」とは、詩人が目指す遠い場所であるだろう。

 さて、ここまで私はこの詩集について随分と熱をこめて語ってきたつもりだ。ありていに言えば、私はこの詩集が好きである。また、この詩集に表されている中村剛彦という詩人の姿勢が好きである。それは詩に対する姿勢であると同時に、詩人自身の生に対する姿勢であるかもしれない。『壜の中の炎』、遠い声を得た詩人が著した、静かな豊穣を勝ち取った詩集である。またひとつ、私の書架に良書が増えた。詩人へ感謝の思いを捧げたい。



中村剛彦『壜の中の炎』(二〇〇三年六月ミッドナイトプレス刊)


(二〇〇六年三月)



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