無の中に密集する混沌


――ふるる『空き箱』について



 たとえば回送の電車やバスを目撃すると、ふと不思議な気持ちに襲われることがある。回送だから、そこに客は乗っていない。それにも関わらず、そうした電車やバスは所定のレールやコースを通っていく。いつもと同じように、客が乗っている時と変らずに、中身が「無」のままで走っている。それでいながら、その中に目に見えない何かを乗せているかのようにも思えて、不思議な気持ちになるのだ。
 いったい「無」とは何だろうか、ひとつの入れ物の中が「無」であるとは、どういうことか。それはその中が文字通り「無」であるというのではなく、「無」という実体もなく目にも見えないものを乗せているのではないだろうか。
 『反射熱』の同人のひとりである遠海真野さんがふるるの名前で刊行した第一詩集『空き箱』(二〇一〇年・BOOK工房)は面白い詩集だ。まず、縦書きの詩と横書きの詩を本の表と裏から収めており、そのためにあとがきや奥付は詩集の真中にあるという構成が面白い。また、詩作品だけでなく短歌作品や著者本人が描いた4コマ漫画なども収められており、それらは詩集の中のちょっとしたアクセントになっている。だが、それ以上に納められた詩の数々が面白いのは言うまでもない。


さくらのそのにふる雨は
くるしく切ない春のゆめ
らくえんの蝶逃げ ああ
のこりか いまだ 蘇る
そぼぬる空に君をおもふ
のくたあん響くかの夜に
にんふも聴く淡き初恋の
ふるえただ泣くのは誰そ
るり色に光る水面の影の
あいまいな諦めの息から
めくるめく季節はあまく
はかなきものつもるあさ

(「桜の園に降る雨は」全行)

 端正な散文詩の型の中にすべてが押しこまれていると感じる一篇だ。十二字×十二行というあらかじめ決められた型の中に言葉を流しこんでいるが、よく見るとタイトルにもなっている最初の一行「さくらのそのにふる雨は」が方型の散文詩型全体の三つの辺を覆っているのがわかる。つまり、一行目が「さくらのそのにふる雨は」となっていて、その一文字目の「さ」から最終行まで横に向かって読んでいくと同じく「さくらのそのにふる雨は」となり、最終行の「はかなきものつもるあさ」の最後の一文字「さ」から、今度は逆に一行目の方に向かって横に読んでいくと「さくらのそのにふる雨は」となる(厳密に言えばこの詩は詩集では横書き表記なので、ここで言う「横読み」は「縦読み」となるのだが)。四角形の四つの辺のうちの三つが同じ言葉で埋められているのであり、ただひとつの例外として、最終行の「はかなきものつもるあさ」のみが違う言葉になっている。
 このような技術面での周到さと同時に、詩の言葉は(やや古典的に見えすぎるきらいはあるものの)見事なまでの抒情で彩られている。抒情を発揮するという詩の効力を失念することなく、いっぽうで技術面にも気を配る繊細さが見て取れる。


の丘に
咲いたダリアの一輪の
唇の頬のおなじの太ももの蹄鉄の
隠された場所の

の丘に
びっしりと生えそろう数億のダリアの一輪の
唇の頬のうなじの太ももの
暴かれた場所の

の丘
錆色と鉄線の荒涼と(舌)
丘の
ダリアの一輪の咲く

さく、さく、さく、と
鉄線を踏む音
雨の音
割れた窓雨に濡れ
雨に濡れ錆び
窓枠から望む
幻の

の丘に

(「の丘」から)

 ここでは言葉を少しずつずらしていくことの面白さが試みられているように見えるが、同時にこれを書いている詩人の心の中の暗いものが覗いているようにも見える。たとえば、「の丘」とは何か? 詩の中で言葉の修飾を費やして書かれているこの「の丘」がいったいどんな丘なのか、何の丘なのか、それを読者がはっきりと知る手立てはない。ここにはおそらく、はっきりと名指しすることへの躊躇いのようなものがある。自分が表現したいものが何なのか、表現のきっかけとなった具体的なモチーフが何なのか、それを提示することを詩人は恐れているような雰囲気がある。詩の中に何度も暗示的に登場する「ダリア」という花の種類にしても、詩人が心の中で隠し持っている得体のしれないものを象徴するものとして選ばれているように思える。ダリアという花の見た目の華やかさが毒々しい感じにつながり、それが心の中の暗部とつながっているのだが、元より詩人であるなしに関わらず、人の心の中ほど未知で暗い場所はないのだから、的確な象徴と言えるかもしれない。
 このような精神面での暗部が詩を書く際の技術と手を取り合って形作られていくのが、この詩人のひとつの特徴であるとは言えるだろう。それは女性詩人だからどうこうというような狭い範囲に限定されたものではなく、人であるがゆえの普遍的なものが横たわっている。


ああごめんなさい
あたくしといたしましたことが
ひどくうろこむしてしまい
大変お見苦しゅうございましょう

うなじのあたりから
せなかまでがもう
ひどくうろこむしてしまい
はがしても、はがしても、
せんないことでございます

おかみさんからも先ほどきつくお叱りを受けました
こんなあたくしの
ひどくうろこむしてしまったからだ
なでてくだすって
くだすって
吸って

(中略)

ああ
さきほどから
そぼそぼと雨の降る曇天
あちらも

ひどくうろこむして
ひどくうろこむして
ひどくうろこむして

ぬぬぬ、といたしております
あたくし
ひどくうろこむしてこんなからだ
あの雨に濡れて濡れて
ぬぬぬ、といたしたいのでございます

(「ひどくうろこむして」から)

 ここでも「の丘」と同様に、謎の言葉が中心に置かれている。「うろこむして」とは何か? 「鱗蒸して」のことだろうか、「うろこ、むして」か、それとも「うろこむ、して」か、などと想像してみたりするが、明確な答えはない。この肉感的でややエロティックな感じはこれこそ女性詩人ならではのものだろうと思わせるものがあるが、おそらくそれではこの詩の謎に半分だけしか触れていない。ここにあるのは詩人の心の内面が肉体という意匠を借りて現れるわからなさだ。心の内面にあるものだからこそわからないし、だからこそ謎めいているいっぽうでひどく魅力的なものになっている。詩の後半で表題と同じ「ひどくうろこむして」という言葉が呪文のように繰り返された後、「ぬぬぬ、といたしております」とつづくが、この「ぬぬぬ」という意味から離れた文字列こそが、この詩が心の中の精神の暗部のわからなさを出自に持っていることを物語っている。


もしもここに
うつくしい空き箱があったなら
お風呂のように入って
外を眺めよう
風の吹く
外はやさしいように見える
口笛も吹こう
あの懐かしい歌

箱の片隅には
ヒイラギが落ちているから
赤い実も落ちているから
冬だったんだとわかる

外から
口笛がこだまのように返ってくる
懐かしい
今吹いたばかりの歌が
こんなにも懐かしい

(「うつくしい空き箱」から)

 詩集全体のテーマを表しているとも思える一篇だ。ここまで見てきたように、この詩集には詩人の内面のわからなさ(おそらくそれは、詩人本人にとっても解き明かせない類のものだ)が基調としてある。そのわからなさはわからないゆえに曖昧にしか書くことが出来ない。その結果として生まれてくる詩は、詩という器の中に工夫を凝らした言葉が盛りこまれてはいても、いっけんすると何が書いてあるのかわからない。だが、いっぽうで、それは人であれば誰もが持つ心の内面から出て来たものであるために、謎めいてはいても謎を謎のままとして受け入れ、奇妙に惹かれてしまうような類のものだ。
 この詩ではそうした心の内面の謎が、ここまで挙げてきたどの詩よりも率直な言葉で語られている。まず語り手は「うつくしい空き箱」というものを想像し、その中に入りこんで、そこから外部を眺めることを夢想する。「お風呂のように入って」とあるように、その「空き箱」は心身ともにリラックス出来る場所であるはずだ。だが、奇妙なことに、その中に入って語り手が発する「口笛」の音は「懐かしい歌」のように聞こえてくる。それだけではなく、「外から/口笛がこだまのように返って」きさえするのだ。これはどういうことか。
 ここで語り手は「空き箱」というものの中に入ることで自らの内部に閉じこもろうとしていながら、同時に外界との交流を保っている。それは「懐かしい歌」という言葉に象徴されるような無意識を通じての交流だ。だから、それは通りいっぺんの普通の交流ではなく、「空き箱」に閉じこもることで初めて生じてくる交流であると言える。それは見方を変えれば、いまここで詩を書いている書き手としての自分が詩を書くという行為に没頭する(「空き箱」に閉じこもる)ことでそれまで書かれてきた数多の詩の歴史と接続しているという感覚であるとも言える。つまり、ここで語られているのは書き手としての自分を軸にするならば詩の歴史との交流であり、詩の中の話者、ひとりの人間としての自分を軸として見るならば無意識を通じての全人類との交流となる。だからこそ自分の「口笛」が「懐かしい」のである。この詩で語られていることは「空き箱」というひとつの器へ没入することで生じる自らの変容であり、それはただの無意味なひきこもりとは一線を画している。
 「空き箱」は、そこに何も入っていないからこそ「空き箱」となる。当たり前のことだが、ここは重要なことだ。あらかじめ様々なもので溢れている箱であるならば、「空き箱」とはならない。なぜ「空き箱」が必要とされるのか。そこに自我を埋めこむことが出来るからだが、この自我は詩人本人にとっても見えづらい、わからないものだ。先ほど「の丘」について語った段で「はっきりと名指しすることへの躊躇い」と書いたが、どの詩であってもこの詩人は自らの自我をストレートに出すことはない。自我が詩の上で表面化していないのだ。その「躊躇い」が言葉として表れると「の丘」で見られたようなモチーフを提示するのを拒否した姿勢になったり、「ひどくうろこむして」に見られたような意味から離れた文字列となったりする。詩という「空き箱」の中に自らを盛りこむにあたって、この詩人はひどく禁欲的だ。下手な書き手であればその中を暑苦しい自我で充満させてしまうだろうが、彼女の場合は詩の書き手としての節度を守っている。「空き箱」の中にはいっけん意味のないようなそれゆえに「無」であるかのように見える言葉が詰めこまれているが、そこには詳らかに語ることを禁じられた自我の卵が密集している。そのような方法を採用することで、詩人は抒情を呼び寄せ、技術を駆使し、詩を形作ることが可能になっている。
 自らが入っている「空き箱」を自らが入っているにもかかわらず「空き箱」であるとするのは、自我にとっての痛切なアイロニーだろう。何も入っていないからこその「空き箱」であったはずだが、そこに自らが入りこむことでもなお「空き箱」であるということは、自らの存在がぎりぎりまで「無」に近いものになっていることを意味する。そこに先ほど述べたような詩人の禁欲的な姿勢を見るのはたやすいが、ここはそのようにして「無」に近いものとなった自我の、自我でありながら自我になりきれない危うさを見るのが、詩の読みという点では面白いのかもしれない。それはなりきれない自我であるからこそ混沌と似たものになっており、そこから詩人はスープをかき混ぜて掬い出すようにして、詩をつかみとっている。つまりは、「無」でありながら「有」であり、整然としていながら混沌である。その矛盾の中に、詩があるのだ。
 「うつくしい空き箱」には、終盤でこのような三行がある。


外では
冬と雪が混ざって
お湯はもうすぐ沸く

 「お湯はもうすぐ沸く」。その時のために、「空き箱」の中には「無」がある。「無」という混沌がある。自我という混沌の卵。それを描き切った後で「お湯」は「沸く」。今日も回送電車や回送バスは、「無」を乗せて、いつもと同じ道を通って帰ってくるのだ。



ふるる『空き箱』(二〇一〇年六月BOOK工房)


(二〇一一年八月)
(「反射熱」第七号所収)



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