特別であり普通である私たち


 以前書いたある文章への反応に、作者である自分からしたら思いもよらないものが返ってきたことがある。その文章は自らを特別な存在のように見做してしまう「詩人」へのエールのようなつもりで、同時にひとつの作品を目指して書かれたものでもあった。ところが、「群集の中のひとり」として、いわば「普通の人間」の立場から「こんな自らを特別な存在であると思うような人の書いたものは読みたくない」と言われてしまった。あれはあくまでもエールであり作品であったという思いが強かったので、こういった反応が返ってきたのにはいささか面食らってしまった。同時に、なるほど、こういう受け取り方をされるのも当然ではあるかもしれないとも思った。作者としてはそれは誤読だよと言いたい気持ちもあったし、ちょっと過剰に反応しすぎではないかと思ったりもしたのだが、そのような誤読や過剰反応を惹き起こさせる要素があの文章(またはテーマそのもの)にあったということなのだろう(また、自分自身の中に自らを「特別な存在であると思うような」気持ちがなかったとは言い切れない)。それ以来、「特別な人間」というものは果たして存在しうるのか、もし存在しうるのだとしたらそれはどのような形をして現れるのか、また、いわゆる「普通の人間」との関係性はどうなっているのかということが気になっていた。この文章では、そうしたことを少しばかり考察してみたいと思う。
 ある特撮ドラマの中に、ゲスト登場人物が語るこんな台詞がある。「人はみな特別な存在です」(註)。この言葉を足がかりにして、考察を進めてみたいと思う。この言葉をドラマの文脈から引き剥がして、単なる言葉として見てみる。「人はみな特別な存在」とはどういう意味だろうか。みんながみんな特別な存在になってしまったら、社会生活は立ち行かなくなってしまうのではなかろうか。
 世界には数え切れないほど多くの人間が生きている。いまここにいる「私」はそれらの人間たちのほとんどにとって未知の存在である。だから特別も普通もない。未知であるということは考慮のうちに入っていないということであるから、特別だの普通だの考える必要もない。ところが、この世界で少なくともたったひとりだけ「私」を特別な存在であると見做している者がいる。言うまでもないが、それは「私自身」である。いくら自分は普通の人間であり群集の中のひとりに過ぎないと言ってみたところで、やはり自分自身は他の誰にも勝って特別な存在である。これは誰が何と言おうと、いくら「普通」の側からの異議があったとしても揺らぐことのない真実だ。何しろ人はみな自分自身の視点でしか物を見ることが出来ない。自分自身の狭い考えからしか世界を語ることが出来ない。加えて生存本能という生物として生まれついた時から持っている本能がある。そうした特徴が人間独自の知力と合わさった時に自らを特別な存在とするのだ。そういう意味では、あらゆる人はみな特別な存在である、少なくとも自分自身にとっては、と言うことが出来る。他の誰よりもまず自分自身が特別な存在なのだ。
 だが、これだけでは「普通」の側からの反論の答にはならないだろう。「私は普通の人間である」という断言にはどこかモラルめいた響きがあり、ともすれば自らを特別な存在であると見做したがる自分自身をこういう言葉で律していこうという思いが感じ取れる。だからおそらく、「普通」の側から意見を言う人も畢竟自分自身がもっとも特別な存在であるのだということは充分わかっているのだ。だからこそ、社会の一員として過不足なく生きるためにこのような言葉を発するのだ。
 では、何故人は時に自らを特別な存在であると思いたがるのか? それを考えるには、人と社会との関係性を考慮しなければならないだろう。社会は常に「普通」の側に立っている。いや、社会が示す価値観こそが「普通」の側の価値観であり、社会が価値観を変えれば、それに伴って「普通」の側の価値観も変っていくだろう。だから、「普通」とは社会に寄り添って社会に従って生きることであり、それを日々やりつづけていなければ「私は普通の人間である」などとは到底言えないのだ。そうした「普通」の側に身を置く人からすれば、自らを「特別」な存在であると見做すことは鼻持ちならないものであるだろう。「特別」であると口にした瞬間に、俗世間から浮き上がって自らをどこか高い位置に置いてしまうようなところがあるから、それも無理からぬことではある。だが、彼をしてこのように思わしめてしまった経緯が必ずどこかにあるはずだから、そのことを考慮せずに批判するのはフェアではないような気がする。もしかしたら彼はその「普通」というものが持つ力に虐げられてきたのかもしれないのだ。
 おそらく自らを「特別」な存在であると思いこむことは、社会からの疎外なしにはありえない。いつの場合も少数派や例外というものがあるように、社会と齟齬を来たした上に社会から疎外されていると感じる者はある程度の割合で存在するものだ。そのような人はとかく自分を「特別」であると思いたがるようなところがある。そのように思いこむことで、自らを疎外した社会へのささやかな復讐を果たしているのだ。「一寸の虫にも五分の魂」というが、「普通」によって追いこまれ退路を断たれた個人は、まず自らをこの「一寸の虫」のような存在であると認識してしまう。周囲の「普通の人間」がとんでもなく高いところにいるように思えて、絶えず自らの存在の卑小さに悩まされている。ここにおいて、彼の自意識は自らを「特別な存在」であると認める。だが、それは周囲が大きく高く見えるがゆえの「特別」なのであって、自らを人ではなく「一寸の虫」として規定してしまう類のものである。だから、「特別な存在」としての自我は、精神的劣等感から出発しているのであって、決して最初から自らを周囲に比して高みに置いているわけではない。そして、その劣等感が自らを守るために働く時、周囲よりも低い位置にある「特別」は周囲を自らよりも低い位置に落として結果として自らが高みにあるような精神的詐術を用いる。そうすることによって、かろうじて自我の崩壊を食い止めているようなところがある。だから、人が自らを「特別」な存在だと思うことははじめから高い位置にあっての「特別」ではなく、社会の中で自我が危機に陥って卑小感を味わった上での「特別」なのだ。このことは留意しておいた方が良いだろう。
 ここまで考えると、人が自らを「特別」な存在であると考えるか「普通」の存在であると考えるかは、単に自我の振幅の問題でしかないようにも思えてくる。私たちはみなほとんど例外なく社会の中で生きているのだから、その社会からつらく当たられるか優しく扱われるかによって、自我は微妙に揺れ動く(余談だが、「人間」という言葉は、「人と調和して生活しましょう」という処世訓のような意味以上に、人と人の間で揺れ動く自我を表しているようで興味深い)。たとえば恋愛感情の真只中にいる時、まるで自分が恋愛ドラマの主人公であるかのように思えることがある(そのように感じてしまう人が、ある程度の割合で存在する)。あるいは失業して世をはかなんだり、そういった卑近な事例においても人の自我はたやすく揺れ動く。揺れ動くことのない確固たる自我を持つ者など、おそらくほとんど存在しないだろう。もし存在するとしたら、それはその時点で既に人生を悟ってしまっているのであり、必然的に社会から(片足ぐらいは)洗ってしまっている者でもある。だから通常言われる意味での「普通」には該当しないということにもなる。そうした常に揺れ動きつづける自我の方向が内向きになっているか外向きになっているか、その振幅の多寡の問題でしかないようにも思える。つまり、普段は他の多くの人たちと同じように「普通」の存在でいられるのだが、自我のベクトルがあまりにも内にふれすぎてしまうと「特別」な存在としての自分が現れるのだ。だから、先天的に「特別」な存在として生まれついてしまった人間などは存在しえないし、そのような人間を想定するのも馬鹿らしいくらいのものだ(家庭や病気など生まれながらにして他の一般人とは異なる特徴を持っている人は多数存在するが、それらの人はただそういう状況に生まれたというだけであって、ここで述べたような社会との齟齬の末に「特別」を感じてしまう精神傾向と基本的に変りはないと思われる)。私たちはみな「特別」であり同時に「普通」でもある。そのときの精神傾向によって、そのどちらにも変りうる。私たちは誰にも発見されていない宝石であると同時に単なる馬の骨でしかないのだ。
 さて、ここからは私が以前書いた文章に登場した「自らを特別な存在のように見做してしまう『詩人』」について、少し考えてみたいと思う。
 詩人に限らず何らかの創作活動をしている人間は、そうでない人間に比べて自らを「特別」な存在であると見做す度合いが高いと思われる。それは前述した社会と人間との関わりに答を求めることが出来るだろう。「普通」の社会生活の側から見れば、ひとりで黙々と何らかの創作活動にうちこんでいるのは「普通」に見えない。加えて、創作活動をする方もある程度の自我の強さがなければそんなことは出来ないから、自分は価値あるものを創造しているという思いにとらわれやすい。そこに社会からの無言の圧力による疎外感が合わさって、「特別」な存在が創出される。
 このように、創作者であろうとそうでなかろうと、自らを「特別」な存在であると見做す過程は同じである。だから、そこに何らかの新しい論議を持ちこむ必要はほとんどないと思われる。ただひとつだけ残る問題は、創作者の姿勢だ。創作をするに当たって、「普通」と「特別」のどちらに重きを置くべきか。おそらくその態度の違いはそのまま創作者の自己認識の違いと同じである。自らを「特別」な存在であると思えばその創作物も高踏的になる傾向にあるし、「普通」の存在であると思えばその創作物も平易なものになりやすい(もちろんこれはかなり大ざっぱで穴だらけの見方であることは承知の上であるが)。おそらく自らを「特別」な存在であると思いすぎるのも、「普通」の人間であると思いすぎるのも、創作活動をする者にとっては好ましくない。たとえば私は市井に生きる普通の人々の生活を描きたいといっても、そこにも落とし穴がある。その「普通の人々」の中には、社会から疎外された少数者は含まれていないかもしれないからだ。たしかに「普通」は尊いものであるが、その枠から外れた者を排除する暴力性を秘めてもいる。ここのところを認識せずに普通礼賛をしていたのでは片手落ちであり、あまりにも鈍感すぎる。少なくとも詩に限らず何らかの創作活動をしている者でこの程度の認識もしていないと、創作者失格であると思う。また、逆にあまりにも「特別」な自我を持ちすぎてしまっても、目指すべき普遍性にはたどりつけないであろう。あまりにも粗雑な結論で申し訳ないが、創作者は「普通」と「特別」のどちらにも強すぎる思い入れを抱かないことが肝要だと思われる。
 人が「特別」な存在になるか「普通」の存在になるか、その成り行きは自らの心の中をしっかりと点検することで確認出来る。結局問題はそれぞれの個人が自分自身をしっかりと保ちつづけることであり、そこからしか未来は開けないと思うのだ。



(註)『ウルトラセブン』1999最終章6部作第5話「模造された男」より、カネミツ・ユタカ(演・河西健司)の台詞。(脚本・右田昌方、特撮監督・満留浩昌、監督・高野敏幸、製作・円谷プロダクション・VAP)


(二〇〇七年八〜十月)



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