世間の捉え方


(前書)
 この文章は二〇〇八年に『現代詩フォーラム』で起きた論争に端を発したもので、その論争で意見を戦わせていたある種の人々にはわからないように全篇隠喩で書いたものです。 そのため、ここに書いてあることは作者の動機としてはまったく別のものを念頭に置いており、文章の表面からはそれを窺い知るのは難しくなっています。 しかしながら、この文章は全体として社会や世間というものに対する批評にもなっており、『現代詩フォーラム』での当時の論争のことを抜きにしても独立したものとして読めるので、 あえてこちらにも掲載することにしました。

 世間というのは恐ろしいものです。ある意味、世界よりも恐ろしいかもしれません。世界は大きすぎて目に入りにくいのですが、世間はいつでもそこにあります。そのために、恐ろしさを肌で実感することが出来るのです。世間は恐ろしい。とりわけたったひとりの個人にとっては、ということが出来るかと思います。  個人と世間という単純な二項対立の図式ですが、そのように感じてしまうのは、個人が世間をいつも気にしていて、世間の価値観から微妙にずれてしまう自分を常に感じているからなのです。その世間を社会と言い換えても言いように思えるかもしれませんが、少し違います。社会は必ずと言っていいほど参入の儀式が必要になってきますが、世間はそのような面倒な手続きなど必要としません。世間はいつも人の傍に、いつの間にか存在してしまうものなのです。その意味で、世間は社会よりも以前に存在するものだと言うことが出来るかもしれません。さらに言えば、社会は世界よりも以前に存在するものであるかもしれません。人間たちの作り出す共同体は世間から順に社会、そして世界と、大きくなっていきます。世間はもっとも身近にある共同体であり、それゆえにどんな人にも、それこそ社会へ参入する資格を満たしていないような人にとっても近いものであるのです。社会への参入というのは、社会的な義務を果たすとか言うようなもので、卑近な例を挙げれば仕事をして社会に貢献するとか税金を納めるとか、そういったことです。そのようなことをきちんとやっていなければ、社会に参入したとは言えないのであって、それが出来ない人は真の意味で社会人であるとは言えないのです。社会というものはそうした義務を果たさない者を弾き出してしまう性質を持っていますが、世間にはそのような性質は存在しません。世間とは言ってみれば人々の集る場が作り出す空気のようなものであり、うっかりすると個人がそこに飲みこまれてしまいそうな浸透力を持っています。それゆえに世間は個人にとっては少しばかりタチの悪いものであるのです。  人が個人として何かを成そうとする時に、まず立ちはだかるのが世間です。世間は人々の間の暗黙の諒解のような、物言わぬ空気を主成分として成り立っています。最近ネット上を中心に幅を利かせてきた感のある「空気が読めない」という言葉などは、世間のこうした特質を実にうまく表現しています。この言葉を投げつける者は世間の側に立っています。もっと言えば、自らが世間の中に飲みこまれてそれに疑問を感じていない状態にあります。そしてこの言葉を投げつけられる者は、世間から離れた位置に立ってあくまでも個人として存在しています(存在しようとしています、と言い換えた方がいいかもしれませんが)。この両者の間の溝はなかなか埋まりません。なぜなら、それぞれに抱える価値観が異なっているからです。世間の方では世間の空気の中に染まって自分をなくしていた方が気楽であり、それこそがうまく世の中を渡っていくための処世術だと思っているような節があります。そして、そうした世間の価値観に同調しない者を場の空気を乱す者として嫌います。いっぽうの個人の方は、世間の価値をある程度認めつつもそれだけでは足りないものを感じています。それが何であるのか考えるためには、世間の暗黙の諒解の空気の中にいては駄目であるということをよくわかっています。だからこそ、個人はあえて世間から距離を置こうとします。その距離がそのまま世間と個人との間の溝になっているのです。  さて、個人は世間から離れて何かを考えます。世間から離れるということは、考えるという行為の土壌を作り出していると言えます。世間というものは、その中に収まっているそれぞれの人に考えるということを要求しません。世間の価値観というものが既にあるので、それに沿った言動をすることこそが求められているのであって、世間とは違う考えを披瀝するということはすなわち世間から離れることになります。だから、世間の中に収まっているということは、独自の考えを持てないということにもなるのです。いっぽうの個人は最初から世間と距離を置いているので、独自の考えを持ちやすいということが言えると思います。そうして作り出された考えを個人が発表するというのは、実はけっこう勇気が要ることです。ましてやそれがある程度以上の数の人々が集った場であるならばなおさらで、個人にとっては自分以外はすべて世間の回し者であるかもしれないのです。これは実社会だろうとネットだろうと同じことで、たとえば有名人がネット上でよってたかってバッシングされるということが、掲示板やソーシャル・ネットワーキング・サイトなどでよく見られます。そこではその有名人をバッシングすることが、世間での価値観になってしまっているのです。そういうところへそれはちょっとおかしいんじゃないかと、周囲と違う意見を持って割って入ると、それが世間が持つ価値観と違っているために浮いてしまう、言わば「空気を読めない」発言になってしまうのです。ネットと言えども世間であることに変りはありません。ネットはそこに集る人々の顔が見えませんが、むしろだからこそ逆に個性が消えてしまいやすく、リアルな社会よりもいっそう世間の空気が醸成されやすい場であると言えます。それに加えて、以前に比べてネットの地位が向上しているということを考え合わせますと、ネットこそが現代で最強の世間になりつつあるのではないかと思います。  ここで少し後戻りして、世間と社会の違いについて述べてみたいと思います。先ほど、社会は参入しなければ弾き出されるが、世間にそのような側面はないと述べました。それをもう少し違った言い方で表現するならば、社会は開かれながら閉じていて、世間はずっと開きっぱなしであるのだということが言えると思います。社会が開かれながら閉じているというのは、参入のための義務を果たさなければならないからに他なりません。人間であればいつかは必ず社会に参入しなければなりませんが、そのためのハードルがいくつか用意されていて、人はそれらをひとつひとつクリアした上でなければ社会に参入出来ず、それらに失敗したならば社会はその人の目の前で閉じてしまうのです。社会に参入するのは人間にとって一種の義務ではありますが、その義務を果たすためにいくつもの困難が待ち受けているのです。大人または社会人になるというのはそういうことであり、いくつものハードルを越えて社会に参入し、つづけてそれを日々成し遂げつつあるからこそ大人は尊敬されるのです。それに対して、世間はいつも無節操に開きっぱなしでいます。この開きっぱなしというのは、誰でも入りこんでしまえるし、誰でも飲みこまれてしまえるということであります。それこそ原理的には大人も子供も、勉強家も怠け者も、誰でも世間の中に入りこんでしまうことが出来るのです。  これが世間の恐いところです。社会はいちおう社会人としての資格を満たした者だけが入れる場所ですから、わりと全体の統御が成されやすく整然としています。ところが、世間は誰でも入れる無節操なほどに開かれた場所であります。それだけに水が低いところへ流れるように、世間の価値観は俗なものになりやすいのです。私の勝手な見立てによれば、社会人とはちゃんと話が出来ますが、世間人とはまともな話が出来ません。これは世間が俗な価値観に支配されやすく、そこに入り浸っている世間人がそれに疑問を抱いていない、自らが世間の俗な価値観に支配されていることに気づいていないからだと思います。俗というものは、周囲を引きこもうとします。ある個人が俗に背を向けていても、自分たちの勝手な論理で俗でない者に俗な形容を与えようとします。これはひとりで考え自分の足で立とうとしている個人にとって、もっとも警戒するべきことなのですが、俗にまみれた世間はそのような態度を排他的な態度だと思いがちです。けれど、よく考えてみれば個人は頼るものが自分自身しかいないのに対して、世間の方は自分たちと同じ世間に飲みこまれた人々や世間が作り出す空気を背後に従えています。もともとが多勢に無勢であり、きわめてアンフェアなのです。世間の代表者はたとえ見かけ上は個人と一対一で話していても、常に自らと同じ世間に所属する人々と世間そのものを後ろ盾にしているのです。そんな世間の代表者が個人を糾弾するとしたら、その方がよほど排他的であり閉鎖的であるでしょう。だから、個人は世間の代表者の言うことにはよくよく警戒してかからねばなりません。その世間人は、彼を自らと同じ俗世間に落としこもうと、虎視眈々と狙っている刺客であるかもしれないのです。  それにしても、俗世間とはよく言ったもので、世間の本質を見事に捉えた言葉だと思います。俗社会とか俗世界などといった言葉は存在しないでしょうし、もし存在したとしても、非常にこなれていない珍妙な表現に聞こえてしまうでしょう。いつの世も世間は存在し、それと離れたところに自らを鍛えようとするそれぞれの個人も存在しています。個人にとって目の上のたんこぶのような世間を捉えることは、最初に成すべき重要課題であるのかもしれません。世間を的確に捉えなければ、個人として立つこともままならないのではないでしょうか? そのための世間の捉え方というのは、個人として徹底して考えつづけることにつきます。考えすぎて頭が痛くなってくる可能性もなきにしもあらずですが、考えないで世間の空気の中に呑まれてふわふわと生きるよりも、よっぽど人間らしい生き方ではないでしょうか? また、個人が何か言って、それに対して世間が反論することも考えられます。いえ、世間の性質からして、世間の空気に合わない意見に対して反撃が成されるのは至極当たり前のことだと言えるでしょう。もしそのような事態になったとすれば、個人は世間に同調してはなりません。たとえそれが間違った考えであったとしても、個人の意見であるというだけでそれは世間の空気をかき乱し、それよりも大きな社会だとか世界だとか(あるいは人間そのもの)を前進させる起爆剤になりうるかもしれないからです。個人の意見に世間が反発したとしても、それは反論などという大それたものではありえません。なぜなら、世間はすべてを平均化する同調の空気によって成り立っていて、世間が反発するものはすなわちその空気を乱すものなのです。ということは、それは反論ではなく単なる反応に近いと言った方が正しいのです。ちゃんとした反論というものは能力がなければ出来ませんし、また、覚悟がなければ出来ないものです。それらがなければ、それは単なる反応に過ぎず、論としての力を持たないのです。能力を伸ばすことはある程度世間から離れなければ出来るものではないですし、世間の中に染まり切っていては覚悟など育ちようもありません。だから、世間の側からの反発は反応に過ぎないので、自らの脚で立っている個人にとっては取るに足りないものなのです。また、世間の中に浸かりきっているとすべてを世間の価値観に沿わせて考えるので、見えるものも見えなくなってきます。頭を冷やしてよく考えれば正しいと思えるようなことでも、世間の中にいては間違ったことのように思えてしまいます。そのようにして人の判断を狂わせる力を世間は持っており、だからこそ気をつけて、世間の本質をしっかりと捉えることが必要になってくるのです。  世間を捉えるというのは、世間を理解し、また自分自身を理解することでもあります。その捉え方いかんによって、個人の成長は決まってきます。自らを鍛え成長させようとする者にとって、世間は害悪しかもたらしません。人は世間よりも社会に、あるいはもっと大きな世界に奉仕すべきでしょう。せせこましい世間はもっとも近い場所にあるがゆえに目障りなものですが、そこを越えてからでないと、人としての本当の成長は望めないのではないでしょうか?



(二〇〇八年九〜十月)



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