無垢なる者は…



<前書>
 この文章は二〇〇七年後半に時間をかけて少しずつ書いたものですが、主にその長さが理由でどこにも発表せずに放っておいたものです。今回こうしてアップしたのは年数が経ったために自分でもこの文章の内容が多少古臭く感じられてきたのと、ここで扱っている問題も包摂したもっと広範囲のマイノリティ問題について新たに文章を書きたくなってきたためであります。マイノリティ問題に関してはいつかきちんと書かなければならないだろうと思っていたのですが、その問題の大きさからするとこの文章で扱っているのはやや限定的であり、広義の意味でのマイノリティ問題を含んではいますが、もっと射程範囲を広げた議論でも通用するような感じがします。そうすると、この文章は自分が抱えるマイノリティ問題のとりあえずの中間報告に過ぎないのではないかという思いに至り、思い切って恥を忍んでネット上にさらすのも悪いことではないと思って発表にいたった次第です。



   ――この星では、無垢なる者は受け入れられないのか。
     (『ウルトラセブン』EVOLUTION5部作
      エピソード4「イノセント」二〇〇二年)

T 社会

 この小文では、無垢(イノセンス)ということについての日本的社会での扱われ方と、そこから派生する問題について扱ってみたいと思う。文章を三つのパートに分け、それぞれ社会、文学、個人について焦点を当てながら少しずつ考えてみたい。
 まず、無垢(イノセンス)とは何か? 手始めにいま手元にある『広辞苑』(第二版補訂版・新村出編・岩波書店・昭和五一年)から「無垢」の項を引くと、こう書いてある。

@{仏}煩悩(ぼんのう)を離れて清浄なこと。無漏(むろ)。Aまじりけのないこと。純粋。B心または肉体の汚れていないこと。うぶなこと。C衣服の表着から下着まで表裏全部、無地の同じ色で仕立てたもの。おもに白無垢(しろむく)をいう。

 ここで私が取り扱おうとしている問題からすると、これらの意味のうちAとBがもっとも思い描いている意味に近いものだ。「まじりけのない」「純粋」であること、「心または肉体の汚れていない」「うぶ」であること、それがつまり無垢(イノセンス)ということであろう。こうして言葉の意味を定義したところで、それでは無垢な者とはいったいどういう存在であるかということを考えてみる。それは生まれて間もない赤子や子供、または(少なくとも外見上は)無垢であるように見える少年少女たちということになるであろう。そこからさらに考えを敷衍させていくと、大人のくせに子供っぽいふるまいをする者、子供っぽいと周囲から思われている者も含まれるかもしれないし、人間だけに限定しないならば動物(特に猫や犬などの愛玩動物)などもそうであるだろう。
 では、無垢であるということは、どういうことなのか。無垢な者は社会ではどのように扱われるのであろうか。もちろん「絶対無垢」とでも呼ぶべき赤子などの場合は、周囲の大人たちによって守られるべき者、可愛がり慈しむ者として扱われる。当然のことである。赤子は外から襲い来るかもしれない困難に対する備えというものがまったくといっていいほどない。周囲の大人たちが盾となって守るのは当たり前のことだ。だが、「絶対無垢」とは言えない存在、年齢は大人であるにもかかわらず子供のようなふるまいをする(子供みたいに見える)存在に対してはどうだろうか。おそらくそのような者に対して、周囲の反応は辛辣かつ厳しいものにならざるをえないだろう。彼等は「いい年をした大人が何をやってるんだ」というふうに彼を蔑み、自らからなるべく遠ざけようと、あまり関わらずにやり過ごそうとするに違いない。このような「年齢は大人であるにもかかわらず子供のようなふるまいをする(子供みたいに見える)存在」を仮に「相対無垢」と呼ぶことにする。こうした「相対無垢」が社会の中で嫌われるのは何故か? 無垢(イノセンス)という根っこの部分は同じであるにも関わらず、「絶対無垢」的存在との扱われ方の違いは見事なコントラストをなしている。これはどういうことか?
 これはおそらく社会と人間の関わりを考えてみることなしには解けない問題だと思われる。では、社会とは何か? それは大ざっぱに言えば不特定多数の人間たちが居住し、彼等の生命活動によって日々作られ作り変えられ運営される、ひとつの共同体のことであろう。それは小は家庭や友人たちのつながりから、大は国家や地球規模での諒解事項に至るまで、その大きさは様々であり、人間のいるところには必ず社会が存在し、その数は無限に近く存在すると言うことが出来る。そして、人間とは文字通り人と人の間にある存在であり、(無人島に漂着したなどの極端な場合を想定しない限り)人間であるからには必然的に社会の一部とならざるをえない。つまり、人間と社会は切っても切れない関係にあるのであり、人間であることはすなわち社会の一部であるということなのだ。そして、人間は生まれた瞬間から社会の中で生きるように、社会の中のひとつの構成員としてうまくやっていけるように、周囲の大人たちから教育を施される。幼児に玩具を与えて情操教育をし、幼稚園や保育園に通わせることで自分以外にも人間が存在し、それらの人間たちと仲良くやっていけるように仕向ける。小学校に上がれば文部科学省などの管理する「勉強」が始まり、知識を蓄え知力を磨く訓練が施されるようになる。それらはすべて彼が人間として社会に溶けこめるように、社会の一員として独り立ちできるように、周囲によって整えられた道なのであり、その道を歩むことで立派な社会人として成長することが期待されている。
 ここまで来れば、「相対無垢」的存在が嫌われる理由もわかってくる。学齢を終えた一般に大人として扱われる年齢になってもいまだに子供のようなふるまいをすることは社会人失格の烙印を押されることであり、そのような存在がのさばっているのは社会にとって不都合で邪魔でしかないのだ。また、そのような存在が出現するということは、彼に対してだけは社会によって施された教育が失敗してしまったことをも意味するのであり、だからこそ社会は彼を嫌悪するのだとも言える。「相対無垢」的存在を嫌悪する側は、たとえ個人の意見として言っているつもりではあっても、無意識のうちに社会の構成員のひとりとして社会を代表して彼を嫌悪する。だから、その意見は社会の意見ということになり、「相対無垢」を抱えた者は誰かに何かを言われるたびに社会から抑圧されているような気分を味わうということになる。
 たとえば異性との性的接触の経験を持たないいわゆる「童貞」や「処女」といった存在が問題になるのもここに端を発している。たとえば、六歳の男の子に対して彼が童貞であることを問題にする者など皆無だ。それは彼が問題にするような年齢にまだ達していないからである。異性との性的接触があるかないかというのは、もっともわかりやすい大人への通過儀礼であり、それゆえに社会に参加するための経験の中でも人々が(個人レベルで)もっとも気にする問題でもある。たとえば男子高校生などが自分が経験済みであるか否かを気にするのは、彼等が本能的に社会に参入するにあたっての重要な通過儀礼のひとつとしてこの問題をとらえているからだと思われる。そして、日本国内で法的に成人であるとされる二十歳を越えてもその経験がないと、それは気にするという段階を越えて鬱々とした悩みへと変貌する。それは彼が既に法的には大人であるにもかかわらず、性的には大人ではないという思いにとらわれているからである。学生であるならばまだ許されるが、二十歳を越えればもう許されないというわけで、だからこそ、自らに性的経験がないことは周囲に隠しておきたくなるものなのだ。もしばれてしまえば、社会人失格とされてしまいかねない。そうなれば、この社会で生きていくことが困難になってしまうのだ。
 社会へ参入するための道を歩むということは、絶えざる経験の道を歩むことと同義である。経験値の高い、経験数の多い方がより社会に参入しやすい、社会に適応しやすいと考えるのはもっともなことである。それは先ほど挙げた性的問題だけにとどまらず、様々な経験を挙げることができる。殴り合いの喧嘩をしたことがあるか。飲酒の経験はあるか。運動系の部活に入って汗を流したことがあるか。海外に旅行に行ったことはあるか。ひとり暮らしをしたことがあるか。それはもう実に様々な経験を思い描くことが出来る。ごく卑近なところで言えば、クレジットカードを作るとか、ひとりで店に入って何かを買う、あるいは飲食をするとか、そういう些細な経験の積み重ねによって社会への参入を果たしていくのが人間というものであり、そうした経験の多寡が社会に溶けこみやすくさせるかどうかの鍵であることは間違いないだろう。
 だが、経験というものは少なすぎても困るが、多ければ多いほどいいというものではないのかもしれない。自らの経験の多さを誇ることは時に愚かしく映ることがある。自分はこんなことをしてきた、こんな修羅場をくぐりぬけてきた、そういうふうに経験を誇らしく語ることには嫌味っぽさがつきまとい、ともすれば他人を見下してしまいかねない危険性がある。そのような人間は社会に自分を上手く適応させているかもしれないが、人から反感を持たれる危険性があるという点で社会人としては未熟だと言わざるをえない。経験の有無や大小によって、人を分類するようなことがあってはならない。なぜなら、それはすぐさま差別につながるからだ。経験というものは必然的にある種の特権性を帯びてしまうところがある。自分はこれこれこれだけのひどい目に遭ってきた。その気持ちがおまえにわかるか。あるいは自分はこれだけ多くの世界を見てきた、そんな自分が間違っているはずがない。そんなふうに人を思い上がらせる力を持っている。だが、そうした特権性の上に胡坐をかき、それを人にひけらかすようなことがあってはならない。
 思うに、現代の社会は無垢(イノセンス)ということに敏感になっている。図らずも「相対無垢」を抱えてしまっている者もそうでない者も、無垢(イノセンス)に対して無意識のうちに引き寄せられるようなところがあるのではないだろうか。それはおそらく、現代が経験が飽和した社会であるゆえに生じることなのだろう。高度な情報社会の中で人はここから別の場所へと瞬時に飛び移り、多数の情報を吸収して生きている。それらの情報は決して望んで手に入れるものばかりではないだろうが、現代社会に生きている限り情報をシャットアウトして暮らすのは難しい。様々な情報の洪水の中でそれぞれの経験が育てられていく。それは幸福なことではないのかもしれない。そして、その複雑化した情報と経験と社会システムの中で、人々の感性や心情が育まれていく。それはいかにも現代的な様相をして現れるだろう。無垢(イノセンス)への嫌悪と憧れという相反した心情。それはオタク的な性格を持った者が「相対無垢」的存在に似た者として嫌われるいっぽう、社会全体にそうしたオタク的価値観が浸透している(アニメの市民権獲得などに代表される)あたりに見て取れる。一般人には知りえない狭い範囲内での情報を得意気にひけらかす彼等を気味悪がると同時に、彼等の狭く深い知識にどこか憧れるような部分を社会全体が持っている。オタク的価値観を持つ者は一般の常識的な価値観からそれて自分の好きなものへの探求に血眼になっていて、その姿勢は社会常識上での経験を迂回して独自の経験を果たそうとしているように見える。だから彼等は「相対無垢」的存在として見られやすいのであるが、そんな「相対無垢」と隣接した心情を持つ者たちに社会が嫌悪と憧れの二つの感情を持つことは一種のねじれであり、それだけで現代社会のシステムとそこに住む人々の精神性がいかに複雑になっているかの証明であるとも言える。
 また、社会の一員としてそれなりの経験の道を進みながらも、われわれ現代人には無垢(イノセンス)に完全には背を向けられないようなところがある。たとえば(世界に名だたる性産業大国とも言える日本ならではのことかもしれないが)女子高生などの成年に達していない女性たちの特権的ともいえる地位、それにともなう少女性愛問題(具体的に言えば、日々ニュースで報道される大人が少女に猥褻な行為を行なうといった事象)などは、現代人の無垢への憧れを端的に示すものであると思われる。それと並行して、若さに対して過剰なまでに価値を付与するといった精神傾向も現代人は持っているし、特に若い人などが夭折に憧れ、社会全体でも夭折の芸術家を持ち上げるなどしている。それらの事象のすべては、経験と無垢との間で揺れる現代人の複雑な精神を表しているようでもあり、ただ現代人は疲れているとひと口に言ってしまうだけでは足りない根深さを持っているように思われる。
 また、「絶対無垢」である赤子や幼児に対して時に人がとまどいを見せるようなことがある(ように思われる)のも、対象が「絶対無垢」であるがゆえの壊れやすさへの恐れといったものがあるのだろう。経験に慣れた人間は、自らと異質なものであるがゆえに時に無垢を恐れる。幼児への家庭内暴力や殺害事件なども、元を正せばそういった社会といまだ社会ならざる者との齟齬にあるのかもしれないと言ってしまったら乱暴すぎるであろうか。壊れやすい、取り扱い注意の無垢なるもの。それは社会にとってはある種の異物であり、そのために時に排除されるような憂き目に会うこともある。そして、壊れやすいからこそ逆に壊したくなるということもあるだろうが、壊れやすいものを壊してしまいたくなる衝動とそれを壊れないように注意深く扱うこと、その二つの精神的指向性はコインの裏表のような関係にあるのではないだろうか。
 無垢(イノセンス)というものは人間の根源にあるものであり、誰もがみなそこから生を始めている。経験を重ねた上で立派な社会人として認めてもらえると同時に、複雑な社会の中で初源の無垢の状態への憧れが生じたとしても無理からぬことであろう。無垢(イノセンス)は、「絶対無垢」であろうと「相対無垢」であろうと社会に対する猛毒として作用することもある、少なくとも無垢そのものがそういった可能性を秘めたものであることは間違いない。無垢から経験へと至る道にはいくつもの里程標が立っていて、人はそれをひとつずつ乗り越えることで社会への参入を果たしていく。そしてその間にも新しい無垢は次から次へと生まれ出てくる。人が人として生きるために、初源の無垢を時に振り返ることも必要であろう。だが、無垢と経験の双方を過信することなく、その両者の間で上手くバランスを取りながら日々を送るのが成長した大人の成すべきことであるのかもしれない。

U 文学

 前章では無垢(イノセンス)の社会的な側面について考察してみた。この章ではその射程範囲を文学の方にまで伸ばして書いてみたい。無垢(イノセンス)の文学(特に詩)における表われ方と扱われ方についてだ。
 詩における無垢ということを考える時に、まず詩というものの世間での扱われ方について整理してみたい。試みに詩とほとんど関わりのない人々に、詩についてのイメージを訊いてみると良い。おそらく「女々しい」「なよなよしている」「浮世離れしている」といった答が返ってくる可能性が高いのではないだろうか。そうした「女々し」くて「なよなよしてい」て「浮世離れしている」といったイメージは、ほぼそのまま無垢(イノセンス)というものへのイメージにつながるのではないかと思われる。特に前章で便宜上分類した「相対無垢」とでも呼ぶべき存在へのイメージとつながるものがある。詩というものが実際に人々が抱くそういったイメージと合致するものであるかどうかということはひとまず措くが、何故そのようなイメージが流布されているのだろうか。それを考えると、特にそういったイメージが日本社会において根強いものであるという推定から、日本における詩の受容の歴史をたどり直してみる必要性があるような気がする。このへんは各人によっていろいろ意見が分かれるところではあるだろうが、とりあえずそうしたイメージが(特に日本社会において)確立されているらしいということが重要であるように思われる。イメージが定着するということは、どれだけイメージと本質がかけ離れていようと、社会の中でそのイメージを元にして規定されてしまっているということでもある。ここは非常に重要なところだ。いくら詩に詳しい者が詩の本質はそんなところにはないと力説しても、既に社会の中でイメージが確立しているのだからそう簡単に覆すことは出来ない。覆そうとすることは詩の未来のために必要なことであるのかもしれないが、それには相当な時間と生半可ではない努力が必要なのだということは心得ておいた方が良いだろう。
 また、詩はひとつの芸術形式であり、芸術というものはどこか社会から超越したものであるというイメージもある。社会から超越または隔絶して、ひとり黙々と創作活動に打ちこむ。そういった古典的な「芸術家」のイメージが思い浮かぶ。現在の日本の社会状況などの影響もあるだろうが、そうしたイメージのネガティヴな効果のせいで、詩はますます社会から遠ざけられているという感じがある。
 だが、人々が詩に対して抱くイメージは、徹頭徹尾否定的なものばかりではないだろう。多くの芸術の中で特に詩が無垢(イノセンス)と結びつけられやすいということは、それに対する人々の否定的な反応と同時にそれにひそかに憧れるようなところもあるのではないだろうか。前章で「図らずも『相対無垢』を抱えてしまっている者もそうでない者も、無垢(イノセンス)に対して無意識のうちに引き寄せられるようなところがあるのではないだろうか。それはおそらく、現代が経験が飽和した社会であるゆえに生じることなのだろう」と書いたが、それと同じようなことが詩に対しても言いうるような気がする。現に詩の歴史も知らず、商業詩誌に載っているような現代詩人の名前もろくに知らないような若者たちが、「詩」の世界に日々参入を果たしている(それは「ポエム」と名づけられた「詩」とはまた違ったものであるかもしれないのだが)。もしも詩にまったく価値がなく社会から完全なる邪魔者として扱われているのだとしたら、こうした事象は説明がつかない。詩は社会からはじかれていると同時にひそかに憧れられている。そうした相反するねじれの中に、詩の社会的立場というものがある。それは無垢(イノセンス)に対する社会の態度と軌を一にしており、だからこそ無垢と詩の結びつきが確認されもするのである。
 詩を「相対無垢」と結びつけるには、人々の間で詩に対するそれなりのイメージの集積が必要である。それには現代詩よりも近代詩の力が大きく作用していたものと思われる。たとえば島崎藤村や高村光太郎らの恋愛詩や、夭折した中原中也や立原道造などの存在が、人々の心中にそうしたイメージを作り出すのに一役買っていたであろうことは想像に難くない。また、若年に詩を書いていたものの年を経るにしたがって詩から小説の方に活動の比重を移していった中村真一郎や福永武彦らの存在も見逃せない(詩から小説に活動の場を移したという意味では、島崎藤村もこれに該当する)。そうした近代詩寄りの知識の積み重ねが、社会と社会ならざるものとの間で揺れる芸術形式であるという、「相対無垢」的なイメージを形作っていったのだろう。もしも人々の間で人口に膾炙している詩が「荒地」以降の現代詩であったとしたら、このようなイメージを抱く可能性も減少するはずだが、現実はそうならなかった。おそらくここには詩というものに対して日本人がもともと持っていた欲望が存在する。日本の詩は明治期の新体詩の成立と太平洋戦争終結後の現代詩の成立という、二つの大きな転換点を持っている。江戸時代の鎖国状態から明治の文明開化によって西洋に門戸を開いたが、急激な西洋化によって日本そのもののアイデンティティが揺らぐことにもなった。そして敗戦によるさらなる西洋化という事態に直面して、そのアイデンティティは崩壊の危機を迎えた。その影響は日本の文化や風俗のあらゆる面に及んでいるが、こと詩に関しては、詩の現場にいる者たちを無視して蚊帳の外に置くような形で、「日本の初源の詩的なもの」へと回帰したいという欲望が働いたのではないだろうか。それが「相対無垢」的な容貌をしてイメージされたのは、そうした側面こそが詩の本質であると人々が無意識のうちにも規定したからであり、いくら詩の現場の者たちが異議を唱えても動かしようのないものとして人々の心の中に居ついてしまったものと思われる。だからこそ、現代詩ではなくあえて近代詩なのであり、どこかノスタルジーをかき立てる甘い若年の夢としてイメージするには好都合だったのだ(余談だが、敗戦直後の時期に折り目正しいいかにも日本的な詩を書いていた三好達治が「国民詩人」として称揚されたのは、この時期の人々の詩への欲望を如実に表しているようでもあり興味深い)。詩のイメージが近代詩に固定されてしまえば、いくらでも勝手にその甘い世界に浸りきることが出来る。現代詩であったならば当の存命中の現代詩人からの反撃(実際の詩はそんなものではないということを証明せんがために、甘さから逃れた「難解な」新作の詩を提示される)に遭う可能性もあるが、近代詩人たちの多くは既にこの世にない。詩とは「相対無垢」的な甘い若年の夢であるという規定を脅かされる恐れもないというわけだ。
 だから、時に人々が言う「現代詩の難解さ」というものはないものねだりのような面が強く、現代詩の現場の者からすれば、そんな抗議をするならば近代詩の夢の中へとっとと逃げこんでくれた方がお互いのためではないかと言いたくもなるというものだ。また、人々が現代詩を忌避して近代詩の方に愛着を覚えるのは、近代詩の方がまだ世界や時代が詩に与えた傷が少ないからでもあろう。新体詩の文語調を見れば、それは日本古来の和歌の形式をなぞって詩の形になるように増殖させたものに過ぎないということが見て取れると思うが、開国という最初の傷を負っただけの近代詩にはそうした古来の「うた」と精神的につながっているような雰囲気がある。だが、敗戦という第二の傷を負ってしまった現代詩にはそれがない。「相対無垢」的な甘い夢を求める人々が近代詩に愛着を覚えるのも無理からぬことである。人々の「詩に甘い夢を託す」という心情は一貫していて揺らぐことがない。その証拠に、近代詩の範疇に含まれる詩人であってもモダニズム系の詩人たちや近代詩から現代詩へとつながるような長命の詩人たち(西脇順三郎や村野四郎など)に対しては、人々が愛着を示すことは稀である。やはり人々が詩に求めるのは甘い夢であり、その固定化されたイメージに従えば詩人は短命でなければならず、現代的であってはならないということになるのだ。もっともごく最近では相田みつをに代表されるような人生訓を詩に求めるようなところもあるが、それでもやはり現代詩人たちは徹底して人々の抱く詩のイメージの外部に置かれたままなのだ。
 以上のように、日本的精神風土の中で詩が「相対無垢」的なものとして扱われざるをえないということを見てきたが、ここからは無垢とは正反対の経験について、それが詩(および文学)においてどう扱われているかを考えてみたいと思う。
 詩が人々によって「相対無垢」的なものとしてイメージされていることは既に見てきた通りだが、何も経験のない本当の「絶対無垢」的な状態で詩を書けるわけでもない。それならば、極端な話、小学生の子供にでも詩を書かせておけばいいということにもなりかねない。やはり詩に限らず何かを書くには、それなりの経験の積み重ねが必要である。文学と経験ということで真っ先に思い浮かぶのは、自然主義小説の類であろう。一時期などは小説といえば自然主義小説のことであるなどという見方もあったように思うが、それらの実際の経験を題材にした夥しい数の小説作品を見ていると、経験さえあれば何だって書けるのだと読者に思いこませるような力が、それらの小説作品には備わっていたように思う。結局時代の推移によって自然主義文学は縮小し、様々な形の小説作品のうちのひとつというところに落ち着いたように思えるが、何故あれほどまでに実体験が重要視され「作家の出るところには死屍累々」(身内の醜聞をネタに小説を書くためにこう呼ばれた)とまで言われるほどの盛況になっていたのだろうか。そこには一般の人々とは違う「文学」というわけのわからないものに取り憑かれていたがゆえに必然的に周囲から「相対無垢」的な存在として見られがちであった小説家たちの、経験というものへの度を越した渇望があったのではないだろうか。周囲から「相対無垢」的な存在として見られてしまうがために、それが劣等感として働き、逆に普通の人々では成しえないような経験へと突進してしまう。「文学」に憑かれた者ゆえのエキセントリックな精神性もあっただろうが、そうして経験を求めることで無垢の状態からの脱却を試みていたと見ることも可能かもしれない。
 だが、いっぽうで詩に携わってきた者たちの経験はどうなっていたのだろう。詩は小説と違って形式的な短さという特徴があり、そのために経験が反映されにくいところがある。もちろん現代詩のように長さの規範というものから解き放たれた詩であるならばそこに容易に経験が反映されうるだろうが、近代詩の時代には概して詩はもっと短かった。立原道造のソネットや八木重吉の一連の詩のような極端に短いものであれば、作者がいかに特定の貴重な経験に即して書いたとしても読者は完成した作品から経験の残り香を嗅ぐことぐらいしか出来ないであろう。
 このように、短い詩の中では詩人は経験を作品の中で十全に言い表すことが出来ない。だが逆に経験をうまい具合に作品の中に隠しておくのだという考えも出来る。そうして表面上は甘美な詩としての外貌を保ちながら、無垢でありながら経験を果たすという離れ業を作品の中で演じることが出来る。だからどうしたと言われても困るのだが、詩が詩であるために起こる特異な現象であるとでも言えばいいだろうか。そして、これは長さの規範から解き放たれた現代詩においてもわずかながら残っているように思える。詩であるためには喩を使用したりリズムを整えたりといった、詩にするための作業がどこかで必要であり、それらの詩的な要素が詩を飾り立てる。たとえそこに実体験に基づいた事柄が書かれていようと、読者の目には経験と同時に詩的な甘美さが映り、そのために詩は相変らず「相対無垢」的な文学形式であると見られてしまうようなところがある。
 以前、十年ほど前だったか、大学在学中に芥川賞を受賞した小説家が「これで働かなくて済む」というようなことを言っていたことがある。芥川賞という注目される賞が与えられることによって普通の仕事をせずに思い切り創作活動に専念できるというほどの意味だろうが、この発言を目にした時、そうして一般社会での労働という経験を回避して文学という特異な場にこもりきってしまうのは、果たして良い作品を生み出すために効果があることなのだろうかという疑問を禁じえなかった。単純に考えて、小説を書くならば社会の現場で働くということは見聞を広めるという意味で役に立つことである。だが、それ以上に、ただでさえ「相対無垢」的な存在として見られがちな創作活動をする者にとっては、無垢とは正反対の経験で満たされた社会の中で絶えざる経験の攻撃に身をさらすことは有用なことであると思われるのだ。そして、それは小説以上に無垢なるものとして見られやすい詩を書く者にとっても同じことだ。

V 個人

 ここまで無垢(イノセンス)の社会と文学における扱われ方を見てきたが、残った問題はただひとつ。無垢を抱えた者がそれを自らの中でどう消化していくかだ。
 ただし、無垢を抱えた者とはいっても、ここで取り上げるのは「相対無垢」を抱えた者に限られる。赤子などの「絶対無垢」的な存在に対してそんなことを問題にしても意味がないだろう。彼等はただ守られるべき者として存在し、周囲の経験に疲れた大人たちを癒す力を発揮する。ただそれだけで、彼等の存在は社会から認められている。だが、「相対無垢」的な存在は、常に社会から冷笑され蔑視される可能性がある。そうした社会に容れられないという疎外感を彼等が克服するためには、いったい何が必要なのだろうか。
 無垢(イノセンス)という特性は、そのまま弱さと直結するところがある。無垢とは経験を果たしていないということでもあるから、経験によって鍛えられた精神を持たない。だから、普通の大人から見れば何でもないようなちょっとしたことで挫折する危険性がある。それは「相対無垢」であろうと「絶対無垢」であろうと同じことで、むしろ「相対無垢」的な存在は見かけは大人であるためによりいっそうその弱さが目立つようなところがある。とおりいっぺんの言い方をするならば、「相対無垢」を抱えた個人が社会に対して持っている負の感情を克服するためには、恐れず経験への道へ積極的に突入するべしということになるのだが、それではあまりにも当たり前すぎてつまらない。また、彼等が持っている弱さへと直結する無垢は経験が飽和した現代社会にあっては実に貴重なものであり、ただ経験せよと言うだけではその貴重さを押しつぶすことにもなりかねないし、経験の側からの排除の声と同じような響きがこもってしまう。それでは経験のひとり勝ちに終ってしまって、何の解決にもならないだろう。
 これは実に難しい問題だが、ここで小休止して、「相対無垢」を抱えた個人が社会と対峙する時に彼の心の中に何が起こっているのか、それを少しばかり推測してみよう。「相対無垢」を抱えた個人は常に社会から忌避されていて、自分でもそれがわかっているから、ますます意固地になって自分の殻の中に閉じこもりやすいところがある。それはともすれば社会への反抗心を醸成することにもなるし、行き過ぎると唯我論的な心境に陥ることすらある。周囲の社会を無視し、それは彼の頭の中で存在しないものとして処理されてしまう。そして、世界のすべては自らと同じ無垢の境地にあると思いこむことになる。これは「相対無垢」を抱えた者がもっとも陥りやすい危険な陥穽であり、無垢(イノセンス)というものが社会に対する毒物として作用する例でもある(無垢が社会に対する毒物として現れるのは、何もこうした例ばかりではない。無垢が毒物になりうる他の事例については後述する)。
 これではいけない。これでは無垢(イノセンス)という範囲を逸脱して、単なる危険人物である。社会の側が「相対無垢」的な存在を嫌うのは、おそらく彼等がともすればこのような陥穽に陥りやすいということを、社会に所属する者たちが無意識のうちにも感じ取っているからでもあるのだろう。卑近な例を挙げれば、あの宮崎勤の事件以降に顕著になった「アニメオタク」への嫌悪感などがある。無垢は経験を持たない。それゆえに社会になじめない。それが社会から排除されているという心的実感をつくり出し、いったん内向した精神が外部に対して攻撃性をともなって剥き出しにされるとこのようなことになる。結局、無垢を捨て去って経験への道を歩き出す他に方法はないのだろうか。
 だが、社会の方でも無垢(イノセンス)を徹底的に排除しているわけではない。ここに至るまで何度か書いてきたが、社会は無垢を邪魔者扱いするいっぽうで無垢に憧れている。どんなに経験を積んだ者であっても最初は無垢の状態で生まれてきたのだから、そこにある種のノスタルジーのようなものを感じる。世にファンタジーというジャンルがあるが、あれなどはそうした無垢に対する精神的ねじれの典型的な表れであろう。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が読みつがれ、ディズニーランドは毎日盛況である。そうしたファンタジーに陶酔する人々の心理には、まぎれもない無垢への憧れが読み取れる。そして、「絶対無垢」である赤子への情愛は、社会への参入のための教育などということを言う以前に人がはじめから生まれ持っている本能的なものであり、それらのことを鑑みても、無垢の側にも一定の分はあると思われる。
 ここまで見てきたように、「絶対無垢」は社会から疎外される心配はない。問題は「相対無垢」の方だ。大人になっても無垢(イノセンス)を抱えた者たち。彼等に対して、社会はどう扱っていいものかとまどっているようにも見受けられる。そのとまどいの中には、排除と憧れという無垢への矛盾した指向性があることは既に述べたとおりだ(言葉の言い回しの違いによっても、排除と憧れのどちらに傾いているかを見ることが出来る。「相対無垢」的存在に対して「世間ずれしていない」と言えばやや肯定に傾いているし、「世間知らず」と言えば否定に傾いている。こんなところからも、社会の無垢に対する微妙な心情が読み取れるだろう)。また、無垢が無垢であるために必然的に抱えこんでしまった弱さへの憧れというものもあるだろう。社会は経験で満たされており、その中で過不足なく立派な社会人として生活していくためにはある程度の強さが要求される。だが、人は誰もがみな弱さを内包した存在であるから、社会の中で肩肘張って強がって生きていくのに疲れた時に、弱さを指向したいという気持ちが働くことがある。親や恋人など、信頼できる人間の前で弱さをさらけ出したくなることがあるのだ。そんな時に目に留まる無垢な存在は普段から無防備に弱さをさらけ出しているようで、その方が社会の中で強さを装って生きるよりも正直な生き方であるように思えてしまう。しかし、経験を経た上で社会に参入したはずの人々がみなこのように弱くなってしまったら、社会は機能しなくなってしまう。無垢、とりわけ「相対無垢」が社会に対する毒物にもなりうるもうひとつのパターンがこれである。どんなに社会が教育を施して人々に経験への道を歩むように導いても、どこかで必ずそこからこぼれ落ちて「相対無垢」を抱えたまま大人になってしまう者が出てくる。彼等は社会へのアンチテーゼたりうるから、その存在そのものが時に社会にとっては猛毒なのだ。だが、だからといって彼等を単純に排除してしまえばいいというものでもない。考えてもみてほしい。もしも社会が経験を積んだ立派な大人たちだけで満たされてしまってそこに異物の入りこむ隙間もない場所になってしまったら、そこはとてつもなく息苦しい場所となってしまうだろう。「相対無垢」的な存在は存在そのものが社会への毒であると同時に、もしかしたらその存在が社会に潤いを与えるものであるかもしれないのだ。
 言ってみれば、「相対無垢」は社会の中のアウトサイダーである。また、社会の中でアウトサイダーであるということは、必然的に「相対無垢」を抱えこんでしまうということでもあるのかもしれない。かつてコリン・ウィルソンはデビュー作『アウトサイダー』の中で社会から疎外されたアウトサイダーが救われる道として「幻視者」(アルチュール・ランボーふうに言えば「見者」ということだろう)としてのアウトサイダー像を提示し、宗教への道をそれとなくほのめかしていた。ウィルソンの論考は大量の読書と思考の賜物であり、尊敬に値するものであるが(実際、この小文の筆者である私もこの著作に多大な影響を受けた)、これでは何だかうまい具合にはぐらかされたような気がしないでもない。だが、ここにはひとつのヒントが提示されているのだと考えて先に進むことも可能であるだろう。
 ウィルソンの描き出すアウトサイダーたちはヴィジョンを見る。それは単なる夢想ではなく、強烈な体験として心中に現れる。それを契機にして、自らが単なる疎外者ではなく何かを成しうる存在であるかもしれないと思うに至る。そこから彼等アウトサイダーたちはそれぞれの向かう道へと進んでいくのだが、単なる疎外者であるという弱さの中に凝り固まっていた者たちが「ヴィジョン体験」によって自分はそれだけの者ではないと思う、それは弱さからの脱却の過程であり、「ヴィジョン」という武器を手に入れた上で新たに社会に対峙していく姿勢がそこには読み取れる。
 これと同じことを「相対無垢」的存在に当てはめて考えてみよう。ウィルソンのアウトサイダーたちのようにわざわざ玄妙な「ヴィジョン」を見ずとも、彼等にははじめから武器が備わっている。それは社会への猛毒にも妙薬にもなりうる「無垢」という武器だ。もともと社会は無垢への憧れを心のどこかに持っているのだから、その感情をつつき出してやれば良い。「相対無垢」を抱えているからには社会から白い目で見られることには慣れているはずだから、思い切って自らのうちにある無垢を解放するのだ。もはや無垢の中に閉じこもっている時ではないし、無垢を捨て去る必要もない。社会の中で、ひとつの異物として自らの存在を明らかにするのだ。無垢の力を、社会への猛毒ではなく妙薬として発揮する。そうすることで、社会も無垢もともに救われる。異物を排除しようとする社会に対して、異物であるがゆえの力を優しく見せつけること。それを成すことではじめて無垢は経験を持つことが出来る。しかも無垢を捨て去ることなく、経験への道を歩むという離れ業をやってのけることが可能なのだ。社会に対して無垢の力を示し、自らに対してもそれを示す。それが無垢(イノセンス)を抱えた個人に課せられた問題である。個人は、その長い人生を「無垢なる者」としてはじめる。そして、「社会の成功者」として終えるかもしれない。


(註1)冒頭のエピグラムは、劇中の終り近くで主人公のカザモリ・マサキ(演/山崎勝之)がひとりつぶやく台詞(脚本/神戸一彦・武上純希、監督・特技監督/高野敏幸、製作/円谷プロダクション・VAP)。

(註2)この小文の最後の言い回しは、終盤で言及したコリン・ウィルソン著『アウトサイダー』(The Outsider, 1956・中村保男訳、集英社文庫、一九八八年)の最後の文章の模倣である。もしこの著作のことを思い出さなかったら、論考の結末の道筋を永遠に見つけられずにいたであろう。ここに感謝とともにウィルソン氏の名前とその著作を記す。


(二〇〇七年七月〜十一月)



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