迷子論序説



 言うまでもないことだが、道に迷うことは人の心に不安をもたらす。すべて不安というものは未知のものへの恐怖から来るものだが、道に迷うのはこの一点からあの一点へとある目的を持って移動するその途中で生じるものだ。その道が既知のものであれば、迷うことはほとんどないから大丈夫だ。しかし、それが知らない道であるならば、地図を頼りに、目標物を頼りに、おそるおそる移動していかなければならない。その道のほとんどが不安の種を内包しているのであって、いつもの慣れた道よりもさらに慎重を要する。首尾よくゴールにたどりつければその不安の種は消え去るが、途中で道がわからなくなってしまえば、それらの不安の種はいっきに芽吹き出す。移動するという目的が雲散霧消してしまって、人は混沌の中に投げこまれてしまうのだ。それが不安をもたらし、不安は恐怖へと直結する。
 さらに言えば、目的の場所にたどりつけずにいることは疲労をもたらす。道に迷ってどこがどこだかわからない状態というのは、言い換えればその道のりを消化する、道を進むという作業が頓挫し、暗礁に乗り上げてしまったということである。確実に進んでいる、近づいているという実感が得られないことが疲労につながるわけで、足が道に迷うと同時に、その事実から精神もまた迷いの中に落とされる。普通、どんなにつらい道のりであっても、確実に進んでいる、この道の先にはたどりつくべき場所が明らかにあるのだという思いがあれば、疲労も軽減されるものだが、迷うことによって目的意識が剥ぎ取られ、心身ともに疲労に落とされてしまう。そして、人は自問する。この道のりは何であろうか。こんなふうに迷ってしまわざるをえなくなったこの道は、果たして正しい道であったのだろうかと。
 しかし、厄介なのはそれだけではない。道に迷うということは言ってみれば宙吊りの状態であり、後にも先にもいけない中途半端な状態だ。始まりから終りまで確実に進んでいる限り、人の精神は秩序とともにある。いまはまだ道の途中であっても、その道のりを正確に進んでいるのであれば、秩序によって保護され秩序と同行しているのだという安心感を持つことが出来る。だが、いったん道に迷ってしまうと、秩序はいっきに崩壊して、主体が混沌の中に投げ出されてしまうのだ。それが先ほども触れた心身両面での疲労と、主体が自らに向かって正否を問う事態を惹き起こす。道に迷うことには明確な終りがない。迷いは突如として始まり、いつかは終るだろうという実感を持てないままずるずるとつづいてゆく。一本の道がその上に人を乗せたまま前後をぷつんと切り離されているようなもので、どこか異次元の世界に取り残されてしまったような頼りなさを感じさせてしまう。そこから脱出するには正確な道を見つけるしかないのだが、迷いの始まりも終りも(つまりは、前も後ろも)ぼんやりとかすんで見えなくなっているのだ。そして、他の道はすべて秩序とともにあるのに、自分のいるこの場所だけが混沌の中にあり、自らとともに混沌も随伴して回るような頼りない気持ちになってしまう。
 もともと道というものは、ここからあそこへと移動するためにあるはずだ。原野や森を切り開いて道を作るということ自体、秩序を生成することとほとんど同じことであるにもかかわらず、それなのになぜ人は時おり道に迷ってしまうのか。迷子になる、道に迷うことを英語で「lost」というが、それは文字通り道を「失った」状態だ。道はあるはずなのに、その人にとってだけ道は失われている。だから、進むことも退くことも出来ない。
 ごく単純に言ってしまえば、道は多すぎてあまりにも複雑すぎる。だが、それだけでは人が道に迷う心身両面からの理由を説明出来ないだろう。道が多すぎて複雑すぎるのは、人に対する一種の罠のようなものだと考えてみよう。道はたしかに秩序とともにあり、秩序を代弁するものであるかに見えるが、秩序とはもともと混沌を内包するものではなかったか。秩序はその中に混沌を胚胎し、ふとした時にそれが隙間から滲み出してしまうのだ。たとえば夜に幽霊が現れるように、条件さえ整えば秩序は混沌を吐き出してしまう。道は人や物を目的地まで導くものとして作られ整備され、人もそう思っている。だが、道の秩序の中に隠れた混沌がそっと息を潜めて道の上を行く者をうかがっていて、その者の気が緩んだ時に静かに溢れ出す。秩序だと思っていたものが、突如として正反対のものに姿を変えてしまう。それに精神が取りこまれることによって、人は道に迷うのではないだろうか。昔話や伝説に旅人をあざむく妖怪などの異世界の住人が登場するものがあるが、それらの混沌とともにある者は、人が道に迷うことの象徴として使われてきた。そうした物語を語り継いできた人々は、人間が整理してきた秩序も一歩足を踏み外せば混沌の闇の中に落ちこんでしまうことを十二分にわかっていたのだろう。そのような象徴的な物語を継いでゆくことで、秩序の側にあるべき人間存在に一種の警告を与えてきたのではないだろうか。
 だが、どんなに注意して、地図と目の前の風景を比較して見ても、迷う時は迷うものだ。目的地へと安全に導いてくれるはずの道は、一瞬にして迷路へと変る。その迷路の中心に、人を喰らう魔物のような存在が舌なめずりして待っている。そんなふうに思えてしまうことがある。そんな時に人が不安を感じるのは、おそらく主体が丸ごと混沌の中に落ちこんでいるというより、周縁の、境界線上の感覚であるのだろう。周縁とは秩序の周縁、秩序が外側に行くに従って次第に薄くなり、密度が薄くなっているような場所であり、境界線上とは秩序と混沌がわずかに袂を接し、その両者の性質が互いに滲み合っているような場所のことだ。だから、秩序は薄まりながらもまだそこにあるのだが、それをあたかも混沌の中にすべて投げこまれてしまったように感じるのは、人がいかに日頃秩序とともに生き秩序に守られて暮らしているかということを示している。秩序に少しではあるが混沌が侵入することで、まだ秩序は大筋で保たれているのにもかかわらず、それが完全に破壊されてしまったかのように思えるのだ。これは見方を変えれば、混沌の方で人を騙しているとも言える。混沌の力はまだ完全に発揮されていないのであるが、秩序に慣れた人間はわずかの混沌の侵入でも敏感に感じ取って、混沌の力に完全に捉えられてしまうかのように錯覚する。そうした混沌に慣れていない人間の混沌を恐れる性質を利用して、「あちら側」の世界に引きずりこもうと画策しているのかもしれない。



 ここまで見てきたように、道に迷うことは宙吊りになって前にも後にも行けない状態のことだ。そして多くの場合、人は目的を持って道を歩くだろうということも確かなことだ。それならば、そのように宙吊りになって方向がわからなくなって止まってしまうのを誰もが避けたいと思うはずだ。だがここに、奇妙なことにと言うべきか、目的を持たずに歩く人がいる。それもほんの時々ではなく、頻繁にそのような者が出現する。たとえば散歩であるとか、あるいは目的地を持たない風まかせの旅であるとかがそうだ。なぜ人はこのような歩行の跡を道の上に記してしまうのか。それはまるで、積極的に迷おうとしているように見えるほどだ。
 おそらくここには、知性を持つ者としての人間の特性が反映されている。歩行とは、自らの脚を使って身体を前へ進ませることだ。その動作自体が、きわめて実用的なのだということが言える。しかし、実用だけで済まないのが知性というものの始末の悪さなのだ。どこかに無駄なものを求めてしまうのが人間の常であり、無駄の探求によって生活を潤してきたのが人間の歴史なのだと言える。
 明確な目的地を持って始まる歩行へのある種のカウンターとして、目的を持たない歩行というものはある。一九六〇年代に世界中の若者たちの間でヒッチハイクによる貧乏旅行が盛んに行われたことがあったが、あれなどは非常にわかりやすい実用的人生へのカウンターだった。「自分探し」などと言うと何やら嘘くさく響いてしまうが、要するに日常を覆っている実用性や散文性だけではない別の可能性を探っての試みであり、そういう方面から見るならば、人としてきわめてまっとうな行為だったのだと言える。そのような大がかりなものでなくても、たとえば通勤の道のりをいつもと変えてみるとか、一番近く一番安く行ける道のりをあえて選ばずに遠回りしてみるとか、休み時間に散歩をしてみるとか、実用的で散文的な歩行から離れた韻文的歩行が日常のあらゆる場面で試みられている。そのような非実用的で非生産的でいっけん何の役にも立たない行為こそが、実は人の精神の健康を計る目安になっている。人は精神や生活に余裕がなくなると、よりいっそう実用的なものに重きを置きたがるものだが、あまりに実用性に傾きすぎることで、自らの余裕のなさの中に他者を巻きこんでしまってそれに気づかないという愚を犯すことがままある。どこかで実用性に傾きすぎることに歯止めをかけなければならないのだが、そのためには実用性の正反対にあるものを持ち出すのが手っ取り早い。実用的でない無駄なものへの親和を示すことは、そのようにして思わぬところで役に立つことがあるのだ。
 さて、ここまで述べてきたような「意志的な迷子」とも呼びうるような指向は、目的に向かって邁進して一所懸命頑張ることを最上の美徳とする価値観へのカウンターにもなることは見えやすいだろう。また、それがある種の人々から煙たがられると同時に、別の人々からはある憧れを持って見つめられるだろうというのも見えやすい。問題は、そうした既成の価値観(散文的歩行・実用性重視)とその正反対の価値観(韻文的歩行・非実用的なものへの傾き)の二項対立が何をもたらしうるかということだ。目的に向かって一直線に進もうとする「歩行の意志」と、それに対する「意志的な迷子」。それは言ってみれば、社会と社会ならざるものとの、また、生活と生活ならざるものとの対立だが、対立は常に後者の方からしかけられている。何故なら、「歩行の意志」・社会・生活・実用といったものは常に陽であり、「意志的な迷子」・社会ならざるもの・生活ならざるもの・非実用といったものは常に陰であるからだ。そして、陰の側にあるものは陽の側にあるものの鏡として作用しておリ、陽の側が大きければ大きいほど、その反作用として陰の側も大きくなるのだ。こう考えると二項対立というものがすべてそうであるように、陽の側だけ、あるいは陰の側だけで独立して存在しうるのではなく、陰陽合わせて初めてひとつとなるのであり、「歩行の意志」も「意志的な迷子」も、どちらか一方が特権的な力を持ちうるわけではないのがわかる。それは歩行というものの違った形態であるというに過ぎず、時によってどちらの形態を選ぶかはそれを行う者に任されているのだ。
 しかしながら、「歩行の意志」が陽であり、逆に「意志的な迷子」が陰である以上、前者に多くの光が当てられ、人の生活が前者のルールによって進められるであろうことも確かなことである。たとえ意志的なものでも、迷子はいずれ迷っていることから解放されねばならない。目的のない旅を終らせ、無理矢理にでも目的を設定しなければ生きてゆくことも覚束なくなってくるのだ。そのようにして、「意志的な迷子」である韻文的歩行は、「歩行の意志」である散文的歩行の中へと吸収されてしまうかに見える。だが、また別の新しい歩行者が現れ、同じように「意志的な迷子」たらんとこころざす。そのたびに、目的地に向かってまっしぐらに突き進むだけしか取り得のない「歩行の意志」は、その価値観を自らの裏側から問い直されているのであり、それを繰り返すことによって、陰陽合わせてひとつとなった歩行の足音は大きくなってゆくのだ。



 ここで少し個人的な話をする。幼い頃、私はよく道に迷った。正月に親戚の家に行った折、お年玉をもらってうきうきした気分で街中を歩き回っては迷ったり、保育園を脱け出してひとりでさまよっては大人たちを心配させたりしていた。そうして迷いながらも、なぜか迷っていることそのものに陶酔していたような気がする。私の中に残っている迷子の原風景とはこのようなものであり、不安でありながらもどこか未知の世界に踏みこんでしまったようなわくわくするような感じを伴ってもいたのだ。あの陶酔するような感じはいったい何だったのか? こうして昔のことを思い出しながら、それが気になり始めている。
 迷子とは常に、それを体験する個人の精神的葛藤とともにある。それは客観的なものではなくどこまでも主観的であり、主体の脳(心と言い換えても良い)の中でしか展開されない。言ってみれば、幻影と同じ構造を持っているのだ。迷うことは基本的に人を不安にさせることはここまで何度も繰り返し書いてきたが、それでいながら時に人を陶酔させる要素を持っているのは、それが徹底して自らの脳内に展開されるものであるからだ。自らの脳内だけで展開されるということは、それは他者が介在しないどこまでもひとりきりの体験であり、一時的にであれ主体が世界そのものとなる(少なくとも、そのような錯覚を惹き起こす)状況をつくり出す。だからこそ、それは主体の精神を陶酔させるのだ。つけ加えるならば、迷子の状態に陥ることは制度からの一時的な離脱である。計画通りに目的地まで進んでたどりつくのは秩序に沿った行為であり、制度の枠内だけで完遂されるものだ。だが、道に迷うのは秩序から混沌へと陥ってしまうことであり、人がそのような状態になることを制度は望んでいない。つまり、迷子になること自体が制度への反旗という側面を含んでいるのであり、人は徹頭徹尾制度の中だけでは生きられず、時には無秩序な混乱に身を投じてしまいたくなることがある。そうでなければ精神のバランスを保てないからだ。秩序と制度の中に生き、それらによって生かされていながら、人は時にそれらを忌避する。道に迷うことは、人の持つそうした潜在的な欲求を刺激するのだ。しかしながら、それは計画的に得られるものではない。前章で述べたような「意志的な迷子」では、それは得られない。何故なら、迷子になることによる陶酔は常に不安とセットになって顕現するものであり、そうであるからには、計画的にではなく偶然性の中で迷子にならなければならないのだ。最初は秩序の中での歩行、目的地への移動であったものが、ある偶然によって秩序から滑り落ちてしまう。意識せずにそうなるということの中に、人が潜在的に抱いていた制度への反抗が思わぬ形で成されてしまったというものがあり、それが偶然そうなったから秩序および制度への言い訳も利くだろうという、多少都合のいい便利さがある。言ってみれば、この時、人の意識は秩序と混沌の両方を同時に向いている。両方に足をかけているから、そのどちらにも完全に囚われることがない。陶酔と不安が同時に現れるということは、そういう状態から来る微妙なものであるから、意識的にそれをやってのけることなど出来ないのだ。
 単純な移動の道は、よく人生の長い道のりに比喩的にたとえられる。その中での迷いもまた同じで、移動の途中で迷うことが人生の迷いにたとえられる。これは人の生そのものが社会のつくり出した制度とともに伴走し、その中に捉えられることがほとんどであるからこそだ。その中で人は進み、迷い、そして疲労する。時には制度と秩序から離れて、混沌に身を投じたいと思うこともある。「意志的な迷子」となり、あえて生を無為に過ごしたくなることもある。それはまさに人生の迷子となっている状態だが、誰もが多かれ少なかれそのようにして迷うのだから、そのこと自体が悪いわけではない。また、人は秩序の中で生きるが、秩序の中でのみ生きるわけでもない。秩序の中でのみ生きようとする者は、結局は秩序を変えることは出来ない。秩序から思わず足を踏み外してしまって、迷子となって懊悩する者のみが秩序の変革を成しうるのだ。単純な移動の途上で迷うことも、迷うことによって道を憶えることがあるように、生の中で迷うことでより深くより大きく生を生きることが出来るのだ。迷うとは、一歩間違えれば闇の中の魑魅魍魎に捉えられて、その後の道を狂わされてしまう危険性を秘めているが、それを契機にして再び秩序の方に戻った時、秩序の中にいただけでは得られない「何か」を手土産に出来る可能性も秘めている。「失う」という意味の「lost」でいったんは迷い、秩序を失うが、それを通過して秩序の方に戻れば、何かを「見つける」ことが出来る。「lost」と「found」は表裏一体であり、それは秩序と混沌が表裏一体であることと通低している。いっけん正反対のものであるかに見えるそれらは、実は深い相関関係にあるのだ。
 かつてイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクは、詩集『無垢と経験の歌(Songs of Innocence and of Experience)』の中で、「失われた少年(The Little Boy Lost)」「見つかった少年(The Little Boy Found)」というふうに、「lost」と「found」という対になる概念を詩集の中でつづけて置くことで、それがただの相反する概念ではなく、ひとつの流れの中でつながっているものであることを示した。『無垢と経験の歌』という詩集の表題が象徴的に示すように、「失われた」と「見つかった」、「無垢」と「経験」という対立概念は、対立していながら互いに飲みこみ合っている。それらのどちらかだけで全的になることは出来ないのだ。
 人は道に迷う。単純な移動の途上でも、人生という長い道のりの途上でも、人はしばしば迷う。その時に訪れる混沌はその強大な力で人を闇の中に引きずりこもうとするかもしれないが、そのことで人は不安と恐怖を感じるであろうが、それは長くはつづかないだろう。迷子はいずれ見つかり、大人たちの元へ送り届けられる。そして、迷子であった子供は、迷っていた間に見たものを大人たちに語るのだ。その時、彼は迷子になっていたということで、ほんの少しだけ成長しているに違いない。



(二〇〇九年十二月〜二〇一〇年一月)


 

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