個人の顔と組織の顔、そして社会の顔へ


 よく人の性格は裏表のないのが良いとされているが、人間は人間である限りはどうしても裏表が出来てしまうことを避けられない。簡単に言うと、社会の中の一構成員としての顔と、私生活での顔ということで、そうしたパブリックとプライベートの二つの顔を誰もがみな併せ持っている。だから、そのことに関してはどうしようもないし、いまさらとやかく言うことはない。しかし、パブリックでの顔があまりにも幅を利かせてしまうというか、パブリックの顔でいる時にあまりにもパブリックに徹しすぎてしまうのは考えものだ。というのも、求職中でなかなか職が決まらない人に残念な結果を知らせなければならない時に冷たい対応になるとか、面接の時に本人を目の前にして横柄な態度を取ったり(いわゆる圧迫面接というやつだ)、あるいは会社で働いている時に効率化を目指して事務的な対応になりすぎてしまったりとか、リストラを告げる、リストラするために社内いじめをする、または学校でのいじめなど、あらゆる場所でその例が見られるが、パブリックな空間にいる時にあまりにもパブリックが要求する価値観に沿いすぎて、個人ではなく歯車の一部になりすぎてしまうことがある。もちろん社会生活をするということはある程度そういうことは避けられないのだが、程度というものがあるだろう。あまり歯車になりすぎると、逆にそのパブリックの空間が社会全体の価値観から浮き上がってしまったような時には(会社ぐるみの不正など)その人自身もまた社会全体から離反してしまいかねない。昔からよくある、たぶんいまでも多い、自分が身を置いている組織の価値観がそのまま社会全体の価値観であるかのように錯誤してしまうということで、それでは会社人ではあっても社会人ではないだろう。会社などの組織の中の人間というよりも前に、まず社会全体の中の人間であるということがあるわけだから、社会という大きな場所よりも組織という小さな場所に自分を合わせすぎてしまうのはよくない。会社の常識よりも社会の常識の方が優先されるのは当然なのだが、みなしばしばそれを忘れてしまいそうになることがある。たとえば、卑近な例で言えば、サラリーマンが電車の中でマナーもへったくれもなく大声で携帯電話で話していたりすることがある。あれなどは非常に典型的で、電車の中での通話はご遠慮くださいという社会常識よりも、そこがどこであろうといまこの電話をしておかなければ仕事に差しさわりがあるという、会社の人間としての常識の方が優先されているのだ(それと同時に、自分はこんな重要な仕事をしているんだぞという、周囲に対するひけらかしのような心理も働いていると思われるが)。実際、マナーのなっていないサラリーマンは掃いて捨てるほどいるわけだが、どうしてそういうことになってしまうのかというと、実際に自分が身を置いているという実感が得られるのが、社会という巨大でわけのわからないものではなく実体がきちんと見渡せる組織の方であるからだ。人は社会と組織の両方に同時に存在しているのだが、社会の方はあまりにも大きすぎて実体をつかめない。ところが、組織の方は自分の身近なところにあるので実体をつかめるし、自分が身を置いているという実感が得られやすいのだ。だから、どうしても社会常識よりも会社の常識の方に沿って生きてゆくということになるし、それに沿ったまま生きてゆくことで、たとえその組織が社会から離反してしまったとしても、なかなかそれに気づくことが出来ないということになってくる。だから、あまりにも組織の人間としてのパブリックな側面一辺倒になってしまうのは考えものなのだ。
 パブリックとプライベートというふうに単純に二つに分けてしまったが、ここまで述べてきたように、人がプライベートに対するもうひとつの顔として持っているパブリックな顔は、実は完全なものではない。それは組織の持つパブリックであって、社会全体を意味するパブリックではない。そして、おそらく国全体とか世界全体とかの公共性が整理されてきたのは近代以降であって、それ以前は狭い範囲内のコミュニティの公共性がそれぞれに独立してあったのみだろう。山と山に挟まれた小さな村がそこらじゅうに点在してあり、それゆえにその村独自の価値観が醸成され、近代以降にそれよりももっと範囲の広い国や世界といったものの公共性が整備されても、人はそれになかなか追いつくことが出来ないままで現在まで来てしまったのではないか。何しろ何百年も、へたをすると何千年もの長い間、狭い範囲の共同体の伝統が培われ、人の精神もそれに沿うようにしてきたのだから無理もない。おそらく現代とは、人が社会全体の公共性を養うという意味では、人々が思っている以上に過渡期にあるのではないか。いまやっと、組織や狭い範囲のコミュニティよりも社会全体の方が優先されるということが了解されたばかりのところで、頭ではそれをわかっていても、長年慣れ親しんできた狭い範囲内での常識が心身ともにこびりついてしまって、振り落とすことが出来ない状態にある。それを完全に社会全体を優先させる方向に変えてゆくには、まだまだ長い年月がかかるのかもしれない。
 これは推測だが、人々が完全に社会全体の常識に沿う生き方を選ぶようになれば、社会はいまよりももっと優しい場所になるのではないか。よく社会は冷たいと言われることがあるが、それは自分では完全な社会人だと思いこんでいる人々が、実は無意識のうちにも自分がそれまで所属してきた組織の常識を社会全体の常識に置き換えてしまっているからではないだろうか。この大不況の中、仕事が見つからずにいる人々に対して「自己責任」などという冷たい言葉が投げかけられることがある。だが、それはその人がたまたま自己責任論を是とする組織に所属してきたからに過ぎないように思う。逆にそのような考えを是としない組織で育ってきた者ならば、このようなことを口にしないのではないだろうか。それと同時に、社会全体もまだまだ発展途上の段階にあり、四方八方からその中に沁みこんでくるそれぞれの狭い範囲内での常識が社会全体の常識を不安定にさせている。組織や村などの狭い範囲の共同体はいくつも、それこそ無数に存在する。だが、それらの全体を覆う社会、世界を統合する社会はひとつだけだ。人間でいる限り社会の中で生活していかなければならないのだから、社会は誰に対してでも分け隔てなく接する場所であるべきだ。それに対して組織や村は無数に存在するから、たとえある特定の組織や村から弾き出されてしまったとしても、他の組織や村に移動してその中で生きてゆくことも可能だ。しかし、現状は他の組織もみな一様に似たような価値観で塗りつぶされており、それは社会全体が提示する価値観に沿ってのもののように見える。だが、おそらくそうではなく、現在のような大不況の只中では、効率化を推し進め、個人の事情や精神を顧みない姿勢を是とする狭い共同体の価値観が社会全体の中に滲み出しており、それを他の共同体が自らの内に取り入れるからそうなっているに過ぎないのではないか。つまり、ある組織の価値観→社会全体→別の組織というふうに、価値観や常識といったものが社会全体をいったん通り抜けた上で他の小さな共同体へと伝播しているのだ。ここでもし、社会全体があらゆる小さな共同体や組織に自らの価値観をまとわせることに成功すれば、そのようなことにはならないはずだ。これはいっけんするとジョージ・オーウェルの『一九八四年』のような忌むべき全体主義のように見えるが、そうではなく、社会全体が自らの内部にある共同体を健全に導くことを期待しているのだ。もちろんそういうふうになるためには社会の中にいる人々ひとりひとりの意識が健全であることが求められ、中途半端な社会人ではなく、組織の人間でもなく、完全な社会の人間であることが求められる。だが、現状では人々はまだそこまで行っていない。実は完全な社会人というものは少なくて、多くの人が社会人である前に組織人であり、自らの所属してきた組織や共同体といった環境に価値観が左右されているのだ。
 組織などの小さな共同体は冷たくなりうるし、また、そうであっても構わないのかもしれないが、社会全体は優しくあるべきだ。そう考えると、組織の常識に沿って生きるのは個人の顔を見えにくくさせると同時に、社会全体の発展を阻害していることにもなって、実は社会全体から見ると迷惑なことこの上ない。人は個人の顔と組織の顔ではなく、個人の顔と社会の顔の両方を持つべきだが、多くの人は社会の顔ではなく組織の顔を優先させ、それを社会の顔であると思いこんでしまっている。また、完全に社会の顔を持つことが出来るならば、人は人に対してもっと優しくなれるはずであるし、その優しさを社会全体に還元することも出来るはずなのだ。それが人と人との間のつながりということであり、相互扶助ということでもあるはずだ。社会がそれ自体として自立するためには、ひとりひとりの人間の意識の変革が必要になってくるはずなのだ。
 しかしながら、まだ問題は残る。先ほども少し触れた、全体主義的社会への懸念だ。これは今後の課題として考えてゆくべきことなのだろうが、何故か私はこう書きながらもどこかで楽観している。もしも個人が組織の人間ではなく社会の人間として、同時に個人として、その二つの顔を十全に使いこなせるようになれば、社会は全体主義とはほど遠い場所となるかもしれない。社会の顔だけではなく個人の顔も持つことが肝要で、それを前提として他者を見るならば、他者に降りかかるかもしれない不幸を自らのこととして受け止めうるだろうからだ。そして、社会は本当の社会として成立する。いまここにある社会からはるかに成長した、すべての者を慈しむ慈母のような社会の姿を、私は夢想するのだ。



(二〇一〇年二月)



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