詩をたたきのめす


 ここのところ、詩をやることに少し疲れている。詩を書くことに、ではない。詩をやることにだ。詩を書くだけなら、いつでもそういう気持ちになることは出来る(もっとも、僕の場合は気分屋で、おまけに面倒臭がりの怠け者なので、滅多にそういう気分にはならないのだが)。長くひとりきりで書いてきて、他人に自分の詩を見てもらう経験をしてこなかったので、書くことは自分の気分次第でどうにでもなるという思いがある。問題はそういうことではなく、詩の状況の中に投げこまれた自分の気持ちが疲労しているということの方にある。ひとりで書くのではなく、他の書き手たちを筆頭とした様々な他者との関わりの中で、自分もまた詩を書く者として存在している。その関係性に疲れているのだと言えば、より正解に近い。つまりは、自分が否応なく取りこまれている詩の状況の中で、ふとひとりの書き手としての自分自身を振り返ってしまい、そのことによって周囲の書き手たちが自分から遠いところに存在しているように思えてしまう。その差異に改めて気づかされたことによる疲労であり、やるせなさであるのだ。それは傲慢な言い方になるのを承知で言うならば、気づかされてしまったからこそ見えてしまうということで、周囲の書き手たちが結局は小さな場所で大騒ぎをしているだけのように思えてしまうという、ある種のしらけた気分を自分の中に発生させてしまうということにつながってくる。
 現在の詩の状況が手詰まりであることはこれまでにも様々な人によって指摘されてきたことだろうが、その手詰まりの状況の中で、詩をやっていこう、あるいは、詩を何とかしていこうという情熱や試みがあるだろうことは、おそらく事実だ。それはそれぞれに詩を愛するがゆえのことであろうし、僕もまた詩を愛することにかけては引けを取らないつもりでいるから、その気持ち自体にとやかく言うことはない。しかし、それにも関わらず、しらけた気分が起こってしまうのはいったいどうしたことか。現在の詩の状況、商業詩誌があり、同人誌があり、朗読があり、ネット詩がありという、いっけんすると百花繚乱のように見えなくもない詩の状況が、時にどうしようもなく停滞しているように感じられてしまう。現在の日本において詩に関わるすべての人々(それには、いまこんなことを書いている僕自身も含む)は、いっぺん完膚なきまでにたたきのめされるべきではないのか。詩の書き手ではない、編集者でも、商業詩誌の投稿欄の選者でも、賞の選考委員でも、詩壇の長老でも、あるいは詩から遠く離れたところにいる一般人でもない、何か大きなもの、頭上から振り下ろされるハンマーや稲妻のように現場を超越した何かによって、徹底的に否定され、おまえたちのやっていることなど全部くだらないことに過ぎないのだと、一度たたきのめされるべきではないのか。そんなことを思ってしまう。そして、そのたたきのめされるべき者たちは、いまこの日本において詩に関わるすべての者に当てはまる。ネット詩人も、朗読詩人も、地方の同人誌で細々と活動している詩人も、『現代詩手帖』などの商業詩誌に執筆している詩人も、詩の賞の選考委員たちも、すべてがたたきのめされるべきだ。そんな乱暴なことを思ってしまう。
 要するに、いまの日本に存在する詩の状況は、すべていったん見直して、一からやり直すべきではないか。そんなことをぼんやりと思っているのだが、それが無理な相談だということは重々承知している。にも関わらずこんな馬鹿げたことを考えてしまうのは、それだけいまの僕が詩をやることに疲れており、いまの日本の詩の状況に苛立っているということなのだ。詩の状況に苛立っているから詩に疲れるのか、それともその逆か。どちらが先でどちらが後かははっきりしないものの、僕が抱えているこの二つの思いは切り離しえないものとして堅く結びついて、僕の中に定着しようとしている。そして、そんな思いを抱えてしまったからこそ、周囲の詩の状況が、そこで活躍している詩人たちが、自分からとてつもなく遠く離れたところにいるように思えてしまうのだ。
 僕にはいまの詩の状況が何とも生ぬるいものに感じられる。それぞれが詩を愛し、それゆえに懸命になって詩に取り組んでいるのだろうということはわかるものの、何か決定的に物足りないものを感じてしまう。詩のそれぞれの現場で、みんな楽しくやっている。詩を楽しみ、詩とともにあることを喜んでいる。しかし、ただ詩を楽しんでいるだけでいいのだろうかという、奇妙な問いが頭をもたげてきてしまう。詩を愛していれば詩を楽しめるのは事実だろう。そして、詩を楽しむことがいいことであるだろうことも、恐らく事実だ。だが、そうしてただ詩を楽しんで、気の利いたことを言っているだけのように見えてしまう状況が、時に歯がゆく、嘘くさく、気持ちの悪いものに感じられてしまう。本当にそれでいいのだろうか。詩を楽しみ、気楽に気の利いたことを言ってみんなで笑い合っている、それだけで、本当にいいのだろうか。
 こんなことを書きながら、詩の現場で活動している愛すべき人たちを傷つけているのかもしれないという自覚はあるのだが、どうにも苛立ちを抑えることが出来ない。おそらく僕は、詩に何かもっとぎらぎらとしたものをほしがっているのだ。一種の異物感と言い換えてもいい。いっけん空気の読めない馬鹿なことを、誰かがやるべきであり、みんながわきあいあいと詩を楽しんでいるところに乗りこんで、みんなを呆気に取らせる。そんなことを求めているのだろう。それは一種のパンク的なものであり、予定調和的にみんなが楽しむ大人の趣味と化している詩の現状を切り崩す、とげとげしいロック的な何かなのだ。それは具体的な詩の作風ということではなく、あくまでも態度の問題であり、詩に向かう時に異和を持って臨んでほしいということだ。だが、どうも現状ではそんな覚悟のある者は少なく、みんな妙に利口で、ただ詩を楽しんでいることに終始しているように見える。しかし、それでは一種の熱的死であり、停滞である。それでは、楽しむことは出来ても、詩の未来を切り開くことは出来ない。
 こう書きながら、いま僕の念頭にあるのは、昨年参加した地元での朗読会のことだ。おそらく戦後詩や現代詩の達成を知ることのなかった人たち(その多くはお年寄りだった)が大勢参加して、孫がどうした、飼い猫がどうした、花に水をやりましたなど、日常生活の水平的な感懐ばかりが朗読された、自分にとってはまったくもってつまらないものだった。その中で僕の読む詩は明らかに異質で、理解もされていないようだった。果たして自分はここにいていいのだろうかという、妙な居心地の悪さを感じたものだ。日常の感懐が悪いとは言わないが、それだけでは詩という表現を前に推し進めることは出来ないはずだ。フィールドが違うといえばそれまでだが、あそこで味わった停滞感がそのまま、詩全体の未来の姿を予告しているようで、何ともやりきれない気持ちにさせられた。
 まずは、停滞を停滞として認めること、そこからしか進歩はありえないだろう。いまの詩の状況はネットも朗読も同人誌も商業詩誌も、いずれも既成の枠組としてきっちり固まりすぎていて、そこから外に出て行く勢いのようなものが感じられない。誰もが詩を楽しみ、気の利いたことを言っているが、その楽しんで気の利いたことを言っているということ自体に停滞感がまとわりついてしまっている。いっけん賑やかで華やかに見えるものの中を覗きこむと、そこには底なしの空虚が広がっているように感じる。おそらく商業詩誌の投稿欄にしても朗読の現場にしてもそうだが、そこに既にある枠組に合わせようとしているだけでは、事態は前に進まない。そうではなく、新しいものを求めるというのでもなく、原点に帰ろうというのでもなく、詩の状況を打破するために、ひとりひとりの書き手が、詩に関わる者たちが、詩への異物たらんと志すべきだろう。繰り返し言うが、それは具体的な詩の作風に還元されるようなものではなく、詩に向かう時の、詩を考える時の態度のようなものだ。確かに庶民的な目線を保って書くというのもある種の価値観ではあろうが、誰もがそうなってしまえば、あるいは変にお行儀が良くなって、現状の心地良さの中に安住してしまえば、詩は死んでしまうかもしれない。現に、詩はマニアのある種の玩弄物として機能し始めてしまっている。それでは駄目なのだ。詩のエントロピーの増大を防ぐためには、ひとりひとりが意識的にならなければならない。そのためにまず、これを書いている僕自身が自らをたたきのめしてやる必要がある。自らの詩を追いこんで、詩に向かう態度を問い直して、おまえは駄目だと、自らに言ってやる必要があるのだ。
 僕は詩をたたきのめしたい。詩を愛するがゆえに、徹底的にたたきのめしてやりたい。そうすることで僕は僕の詩を再発見し、詩そのものと再び緊張感に満ちた関係性を築きたいのだ。


*二〇〇九年十二月に『mixi』に書いた日記を元に再構成。



(二〇一〇年三月)



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