恋愛詩の可能性


 以前から思っていたのだが、恋愛というものは詩のテーマにするにはあまりにも難しいものではないだろうか。それなのに、やすやすと恋愛をテーマに詩を書く人が多いのは、僕にとっては疑問である。恋愛詩を書くのは十代の人が多いようだが、そのような人生における「感受性の祝祭」の時期に、恋愛というものを詩の形で定着させたいという気持ちはわからなくもない。だが、詩のクオリティということを第一に考えれば、恋愛は周到に避けるべきテーマではないかと思う。何故かというと、詩が自分の感情に負けてしまうからである。彼女(または彼)が好きであるという思いが、詩を書く際に邪魔になってしまう。気持ちが大きければ大きいほど、気持ちを制御して書くには技術が必要になってくる。だから、下手に恋愛詩などに手を出さない方が身のためだ、というのが僕の考えだ。

 しかし、一方では、詩というものはどんなものをテーマにしても良いとも思う。孤独、絶望、恐怖、ある情景、物語、文明批評、言葉遊び。どんなものでも詩にして構わないのだ。それならば、恋愛をテーマに詩を書いてもいっこうに差し支えないということになる。小説においては恋愛小説というものが一ジャンルを形成しているのだが、詩(特に日本の現代詩)では恋愛詩は何だか肩身が狭そうだ。前記のような技術上の難しさがあることはもちろんだが、詩人たちが恋愛をテーマにすることに及び腰になっているような雰囲気も感じる。

 ここでは戦後日本の現代詩の中から、いくつかの恋愛詩をとり上げて、それらの詩にのびのびと恋愛を楽しんでもらおうと思う。ただし、とり上げるのは男性詩人の作品のみである。別に差別的な意図があるわけではない。この小文を書いている僕自身が男性であるから、男性の気持ちからしか恋愛詩に踏みこめないというだけの話だ。



僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じネクタイをして
昨日と同じように貧乏で
昨日と同じように何にも取柄がない
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じ服を着て
昨日と同じように飲んだくれで
昨日と同じように不器用にこの世に生きている
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
ああ
薄笑いやニヤニヤ笑い
口をゆがめた笑いや馬鹿笑いのなかで
僕はじっと眼をつぶる
すると
僕の中を明日の方へとぶ
白い美しい蝶がいるのだ

(黒田三郎「僕はまるでちがって」全行)

 戦後日本の恋愛詩集の名作として名高い『ひとりの女に』に収められた詩である。非常にわかりやすく、この詩のどこに技術があるのだと言われそうだが、実はあるのだ。それは、話者である「僕」の恋愛対象の女性を最終行の直前までまったく出さないというところにある。最終行にある「白い美しい蝶」というのがその女性なのだが、取りようによってはこれは未来への希望だとか、そうした観念的なものを指しているとも読める。だが、この「蝶」を恋愛対象となった女性であると解釈することによって(あるいはそうすることによってのみ)、この詩は読む者に深い感銘をもたらすのである。

 話が前後するが、恋愛対象の女性を最後の方までまったく出さないというのは、非常に禁欲的な書き方である。恋愛という事件に巻きこまれている当人にとってみれば、こんな書き方をするよりも、その女性との恋愛の素晴らしさで全行を通したいだろう(その方が自分の気持ちに忠実である)。だが、詩としての強度を構築するためには、最低でもこのぐらいの仕掛けが必要になってくる。恋愛感情に溺れた自分をそのまま描写するのではなく、一歩引いた場所から自らの恋愛を書く。そうすることによって醸し出される情趣というものがある。

 黒田三郎は詩集『ひとりの女に』の前半に収録した詩篇の多くで、これと同じ手法を使っている。「それは」「もはやそれ以上」「そのとき」などがそうだが、ある種ワンパターンと言えなくもない手法をこうまで多用したのは、それが恋愛詩を「詩」として成立させるために便利な手法だったからだろう。



ぼくとあなたは
大草原のすみっこにもぐりこんで
破れギターをかき鳴らしていたっけ
捨てられたシジミの目つきで
もののかたちが大喧嘩するざまを
じっと
ながめていたっけ
ひかりが座席を必死になってうばいあい
くらやみが押しあいながら先を急いで地獄へ落ちるのを
ぼくとあなたは
都会のまんなかで
どこかで汚れた猫がにゃあと鳴くのを聞きながら
じっと
ながめていたっけ

あなたとぼくは
首の骨を電柱にひっかけて
口をとがらせて歌った
だれの精子があたたかくってもいい気持なの
だれの子宮がまあるくてのめっこいの
銀色の風が
あなたのどす黒い頬骨のはじっこにさーと吹いて
おたまじゃくしがキーキー鳴いて
おたまじゃくしがキーキー鳴いて
街路をとことこ歩いている人たちが
ぽちゃん、ぽちゃんと
水たまりに身投げした
赤いガーターをぼくはぎゅうっと握って
胸毛を三本あなたはひっつかんで
ぼくとあなたは
手に手をとって逃げ出した

あなたとぼくは
大草原のすみっこにもぐりこんで
着ているものをみな脱いで
ていねいにおじぎして
一つ一つ差し上げた
むかしは尼僧のようだったあなた
あなたもくれた
激しくたたきつけて来る太陽の中で
めらめらと焔が燃えた
光が光にかさなった
けれども二つの火が燃えていた

(吉増剛造「プレゼント」全行)

 ここまで来ると、もう完全に「現代詩」の世界である。「捨てられたシジミの目つきで/もののかたちが大喧嘩するざまを」などという言い回しはいかにも現代詩的である。この詩ですぐに目につくのは対位法を多用していることだろう。二つの正反対の事項から導き出された行を並べてゆくやり方である。「ひかりが座席を必死になってうばいあい/くらやみが押しあいながら先を急いで地獄へ落ちるのを」「だれの精子があたたかくってもいい気持なの/だれの子宮がまあるくてのめっこいの」「赤いガーターをぼくはぎゅうっと握って/胸毛を三本あなたはひっつかんで」などの表現がそうだ。二人、男と女、であるがゆえの対位法なのだろうか。

 他にも第一連での「じっと/ながめていたっけ」という詩行を繰り返す部分に、詩として成立させようという努力のあとが見られるし、第二連の「おたまじゃくしがキーキー鳴いて」という部分は、男性側の性欲の発露のようにも受け取れる。そして、第三連で言っていることは明らかに性行為のことであろう(別にそうでなくても構わないのだろうが)。「むかしは尼僧のようだったあなた/あなたもくれた」などという部分は、女性が性行為によって純潔を失ってゆくさまを描いているようにも思える。

 ストレートな表現に頼ることなく(感情の抑制という部分はしっかり堅持しつつ)、現代詩的な喩と技法を駆使して、甘ったるい恋愛詩になることを免れている。ところどころに一見汚いと思われるような言葉や表現を挟んでいるのも、この詩を「詩」として仕上げるのに一役買っている。こうした現代詩的な手法で恋愛詩を書こうとする、その究極の形を、僕は岡田隆彦の「史乃命」という作品に見る。



喚びかける よびいれる 入りこむ。
しの。
吃るおれ 人間がひとりの女に
こころの地平線を旋回して迫っていくとき、
ふくよかな、まとまらぬももいろの運動は
祖霊となって とうに
おれの囲繞からとほくにはみでていた。
あの集中した、いのちがあふれるとき、
官能の歪みをこえて、
おまえの血をおれは視た。世界をみた。しびれて
すこしくふるえる右、左の掌は、
おれの天霧るうちでひらかれてある。
おれは今おそろしい と思う。
飛びちらん この集中した弾みのちから!
愛を痛めるものを峻別するだろう。

(中略)

フッフッと いわし雲からまた反り、おまえのオッパイの
鼓動が素朴にころがっているよ。
出きあいのブラウスがおれの街まちに素朴に
ヒラヒラしていて、流行り歌や
足はこびをつかまえて、
律動しているよ。
実りあるべき目ざめはひる日中進んでいく。
史乃とおれとの遠感が
意識をはぐくみ、目的と等閑とに意識を頑なに
そして敏捷に応えさせているのだ。
ひとつ温い声 官能の歪みにゆがんで、
三千世界におちこむ心あり、ふたつ
流砂をたえて舟に帆をあげる、また心あり。
おそろしい峻別が、
人間群落をかこむ侮蔑的な千重のわくが
むなしい音をたてて迫ってくるのを フッフッ
切るだろう。

(中略)

おれが持続する証しは こんなにも美しい実
体だ。しの。この東京の橋桁の下もインシュ
―ジアズムのまためくるめき 唯一ひとの女
はますます黙りこくって巨きな星になり得る。
おれの日常は 食事をとることも 真赤にな
ること、窓から顔をのぞかせるのも あふれ
るもののために 聖なる鼠が狂的に織りなす
形式か。おまえの好きなおれの熟した丸いし
るしも しの 即時の磁場に乱れはねちって
見よ! いちぢくのように開いている。(そ
んなに吸いこむなよ)おまえの脚腰 平たい
おなかは どこかの始原がのこした壁の羅列
して敷きつめぬかれた青いトビ魚や鳳の絵の
なかに 活きているのだよ。

抱きあって形ないしぐさをくりこむあとに
そっと息を吹きかけあう疲れの汗は、
数分、たれのものでもないお祈りで、
とてもたまらないほど排卵している。
いのちの紀念や時の跡ではなく、
エナージーそのものでしかなく 史乃 おれ
の光をもらう喜びは倖せをひとっ跳び。
形にかたまらず 翔んでいるよ。
さあ どんな方向へも動いていける。
欣喜雀躍の羽羽はまこと麗しくヒラヒラヒラ、
涙も溜いきもついていけない。だからこそ
女ひとはまたいつか死ぬるだろう。
その死は史乃の死か おれの死か
一体たれが区分けしてみせる?
あふれるおまえの赤い夜の川のなかで唯今、
唇たちに吸われて唯今 おれが 唯今
たしかに放らつだからこそ、ここに
おまえが唯今いるからこそ、
オッパイなんかあてどなく、
彫りおこそう クソッタレ
史乃命。しのいのち。
おれは豊穣な畏怖に祭られている おまえの
流れとその淵を体現せしめるおれのちからの
息吹腔からフッフッと 青そらを転がして還
魂し そのうえ 飛天をくるしげに生み散ら
す。これはとほい秘めごとだ。

(岡田隆彦「史乃命」より)

 長い詩なので抜粋だが(それでもまだ充分長い。だが、この詩の場合、これくらいの引用は必要だろう)、雰囲気は伝わるのではないだろうか。

 この詩の面白いところは、単なる恋愛詩に終っていないところだろう。冒頭で「喚びかける よびいれる」と書いていて、さらにその後の展開を読んでいくと、この詩は恋愛詩でありながら一種の宗教的なムードも漂わせている。時折出て来る「フッフッと」という表現は、恋人に対する囁きや睦言であると同時に、宗教的なものへの参入の儀式のようにも読める。また、吉増剛造の詩に見られたのと同じく、わざと汚い言葉を使って現代詩的な雰囲気を構築している。「オッパイなんかあてどなく、/彫りおこそう クソッタレ」などという詩行は、恋愛詩を単なるラヴ・ソングの延長線上で捉えていたら絶対に出て来ない表現だろう。冒頭近くで「吃るおれ」とあるが、ところどころに出て来る「とほくに」「すこしく」「たれのものでもない」「エナージー」などといったややこなれていない言い回し、漢字で書いても良いところを平仮名で書いたりするのは、そうした吃音的効果を狙ってのものだろうか。恋愛を、異性を通して自分が変異していくひとつの事件であると捉えるならば、こうした吃音的表現にも納得がいく。これまでの自分が変っていくことへの畏れと異性を求める欲望との間で揺れ動き、人は吃ってしまうのだろう。また、恋愛を宗教的なものと感じる感性も、多くの人が体験しているだろう。自分とは違う他人。それも、性の異なる他人。その他人と深く結びつき合おうとする時、人は宗教的ともいえる感覚を覚える。この詩では、特に後半の性行為を思わせるエロティックさ(「そんなに吸いこむなよ」は、ちょっと凄い表現だ)を湛えた散文詩パートに、そうした感覚が濃厚である。

 さて、ここまでとり上げた三篇を通じて、僕なりの整理をしてみたい。恋愛をテーマにした詩が「詩」としての強度を保つために必要なこと。まず、自らの恋愛感情を抑えて書くこと。それから、黒田三郎の詩に見られたように、恋愛対象となる相手を途中まで詩行に登場させないなど、遠回しな表現を使うこと。それは必ずしも必須ではないが、表現の方法のひとつとして効果があること。次に、吉増剛造および岡田隆彦の詩に見られたように、喩と技法を駆使すること。時には汚い言葉を使うことを恐れないこと。おおよそ以上のようなことがある程度は必要だと思われる。特に感情の抑制という部分は大事だろう。それと、讃美のための讃美をしないこと。恋愛対象に対する安易な讃美は、詩を詩から遠ざけるばかりで、当人たち以外にはほとんど価値の感じられない、単なる私的な恋文になってしまう恐れがあるだろう。歯の浮くような台詞をいくら並べ立てられても、読む方はただしらけるばかりだ。もちろん、ここで書き連ねたような「現代詩」的な手法以外に恋愛詩を「詩」たらしめる何かがあるのかもしれないし、その可能性を捨て去る必要もないだろう。



(二〇〇六年二月)



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