オルフェウス、過去を見つめて離れてゆくこと

――坂井信夫「オルフェウスの鏡」

 坂井信夫の初期の詩集『フーガの技法』に収められた長詩「オルフェウスの鏡」は全部で十章から成る物語詩になっている。この長い物語の元になっているのはギリシャ神話にあるオルフェウスの物語だ。オルフェウスはアポロンの子で、竪琴を弾いて歌う吟遊詩人であった。その美しい音色には人だけでなくあらゆる動物や神々も聴き惚れた。言ってみればすべての詩人の祖とも言えるような人物だ。オルフェウスにはエウリディーチェという妻があったが、ある時毒蛇に咬まれて死んでしまう。妻を失ったオルフェウスは生きたまま冥府に下って妻を取り戻そうとする。冥府の王ハーデスから許しをえたものの、地上に出るまでふりむいてはならないと言い渡される。冥府から地上に戻る時、その後ろには姿は見えないものの妻エウリディーチェがついてきているはずであった。本当に妻が自分の後ろについてきているのか不安に思ったオルフェウスは地上への出口にさしかかったところで禁忌を犯して思わずふりむいてしまい、そのためエウリディーチェは冥府に連れ戻されてしまう。嘆き悲しんだオルフェウスはその後あらゆる女性とのかかわりを断ち、やがてオルフェウス教という宗教を興す。それがデュオニソスの怒りを買い、オルフェウスは八つ裂きにされて殺されてしまう。オルフェウスを哀れに思った主神ゼウスは彼がいつも抱えていた竪琴を空に上げ琴座とした。
 こうした物語が、現代詩人である坂井信夫によってどのように換骨奪胎され新しく生まれ変わっているのだろうか。
 まず、表題にある「鏡」とは何か。それは詩の中で「おれ」と「おまえ」と呼ばれる二者、オルフェウスとエウリディーチェの、近しい間柄であるからこそ向かい合うという関係性、その緊密さゆえの言葉であろう。「ここにおまえをうつす鏡といえばおれの眼球しかなく」(第三章)とあるように、向かい合う両者の緊密な関係性の中で互いに互いを見つめ合う眼球が鏡としてあったのだ。だが、そのすぐ後に「けれど冥府にはどんな鏡があったというのだ みつめているとしだいにゆがんでくる鏡のなかのおまえ」とあるように、それは「おれ」の側からの一方通行であるように見える。それもそのはずで、「おまえ」は既に冥府におり、かつてあったはずの見つめ見つめ返すという交感は失われているからだ。
 ここでふと疑問に思うのが、オルフェウスとエウリディーチェの物語に仮構されているものは、その中にあるはずのものは何なのかということだ。菅谷規矩雄はこの詩集、とりわけこの「オルフェウスの鏡」に寄せた文章(「『フーガの技法』によせて」)の中で「作者には、幼くして亡くなった一人の妹があった」という仮定をしているが、それは菅谷も言うようにあくまでも「仮定であって事実のもんだいではない」(菅谷の文章より)。読み手側の想像にすぎないのだが、そのような想像をしてしまいたくなる余地が、オルフェウスとエウリディーチェの物語から詩を書くという行為自体に表れている。そういう仮定をしてみれば、なぜオルフェウスとエウリディーチェの物語を持ち出したのか、なぜそれを持ち出してまで書く必要があったのかという疑問にも答えやすい。また、坂井はこの神話物語を持ち出してそれを自作詩の雛形とすることで、新たな自分自身のための神話を語ろうとしているのではないかという想像も働く。
 いずれにしても、ここには私たち読者のあずかり知らぬ何か(菅谷の先の文章にある言葉で言えば「〈私事〉」)が横たわっているのかもしれない。だが、読者の想像をそこに留めている限り先はない。問題は一つの現代詩として書かれた「オルフェウスの鏡」が何を語り、そこに私たちがどんな価値を見出せるのかだ。
 読んでいて気づくのは、ここに登場するオルフェウスは随分とたどたどしく語るということだ。そこには元の神話の中で「オルフェウスが歌うと動物や神々でさえも聴き惚れた」と言われた流麗な美しさはない。ここでのオルフェウスはどこか憤っていて、その反面どこかに諦念も含んでいるように見える。あらゆる詩人たちの祖であるとも言えるオルフェウスがこのような形で現われたのに、「現代詩の困難」を見るのはたやすい。だが、それだけではないだろう。おそらく坂井は(エウリディーチェの方はともかくとして)オルフェウスに自らの姿を重ねようとしている。そこには神話の中のオルフェウスのように流麗には歌えない自分自身という面もあるだろうし、現代という混乱した時代の中ではもはや流麗な美しい歌を歌うだけでは足りないのだという含意もあるかもしれない。「おれ」という生々しい響きを持つ主語の連なりの中で、オルフェウスはかつての神話の中ではありえなかっただろう自我をあらわにする。その熱い自我とともに語られるエウリディーチェとの物語もまた、神話の中のそれとは違って厳しさを多く含んでいる。熱い自我とたどたどしい歌と厳しい物語。そこから見えてくるのはやはり現代的な困難だ。かつての神話を取り上げて、その中であらゆる詩人たちの祖と目される人物を語りながら、現代はこのように流麗に流れてはいないのだと主張しているようにも見える。
 ここまで来ると、「オルフェウスの鏡」と題されたこの長詩の現代的な意味も見えてくる。神話の中でオルフェウスは「ふりむいてはならぬ」という禁忌を犯して愛する妻エウリディーチェを永遠に失ってしまったが、現代の詩人である坂井信夫はあえてふりむくことを自らに課しているかのようだ。ふりむくとは後ろを見るということであり、それは過去を見るということにもつながる。「ふたたび歩みはじめるといつしかおれは背後にさまざまなものをひきずっていた」「まるでおれは世界のさまざまな破片をすいよせながらあるいている道化師のようだ」(第六章)とあるが、「背後に」「ひきずって」いるということは、それらの多くは過去に属するものであるに違いない。自らを「道化師のようだ」としながらも、その過去の地点は一つの真理としてそこにある。だが、それは同時に一つ間違えばただの「やすらぎの岸辺」(第十章)でしかない。ただやすらぐだけでは未来は訪れないのは自明のことだ。ふりむくべきものとしてありながら、人をそこに留めるだけの「やすらぎの岸辺」でもある過去という時間。その相反する特性がことを複雑にさせてゆく。だが、その特性は二つとも真理であり、ともに見つめては離れてゆくものとしてある。そう、まるで生きているオルフェウスと死んで亡者となったエウリディーチェの関係のように。また、その過去という時間が一種の鏡としてあることも明らかで、過去の中にいるエウリディーチェがオルフェウスにとっての鏡であるのと同じく、エウリディーチェを含む過去の事象全体が彼にとっての大きな鏡であるのだ。
 そうすると、坂井がオルフェウスの物語を題材に選んだ理由も見えてくる。それは過去の物語であるがゆえに詩人にとっての鏡であり、オルフェウスという神話の人物もまた、あらゆる詩人たちの祖であるという特性から現代詩人である坂井にとっての鏡でもあるのだ。こうしてオルフェウスの物語を元に詩を書くことで、現代の読者に過去という時間を見つめてはそこから離れるということをそれとなく知らせることができるのだ。
 やがてオルフェウスは過去と決別する。「はじまりもなく終りもないこの地でおれがひきずってきた影を容れるにはおまえの空洞はあまりに衰弱していた それゆえおれの鏡はよどんだ沼になげすてよう」(第十章)。ここであまりにも坂井信夫的な用語である「影」という言葉が現われる。過去とは、またエウリディーチェとは、オルフェウスにとっての影であったのだ。その影の大きさゆえに、見つめ見つめ返すものとしての鏡は捨て去らねばならない。あまりにも長く自らの影を見つめつづけるのはつらいのだ。だが、つらさのゆえだけではないだろう。鏡をなくすということは、自らを対象化して見つめる存在を失うことに等しい。つまりは、そうしてまであえて目指す地平がオルフェウスに見えていたのだとするべきだろう。だから詩の最後でオルフェウスはもうふりむかない。「視えない扉がおれの背後できしみながら閉ざされ」、つまりは過去は背後で封印される。それでも「おれが振りむくことはない」のだ。そこから先に待っている未来。それがほのかに見えてきそうな予感を秘めて、物語は幕を閉じる。
 言ってみれば、これは坂井信夫という現代詩人の現代に生きるゆえに過去を見つめ、そこから離れた上での出発を記した詩人宣言なのだ。このような読み方をすれば、もはやエウリディーチェに仮構された〈私事〉があったのかなどという問いは意味を成さない。エウリディーチェとは一般化された過去であり、もしかしたら詩人の中にある影そのもの(ユング的なアニマのような)であったのかもしれない。それはともかく、詩人はこうして出発を遂げる。過去に縛られることから自ら脱け出し、かつての神話のオルフェウスのように流麗には歌えなくとも、現代という時間なりの歌い方で、詩人は歌うことを覚えるのだ。


 本稿も以前書いた「『はくちょう』の白さについての覚書」と同様に、「湘の会」(二〇一六年二月六日開催)のために書かれたものである。「書評」の方に含めようかとも思ったが、詩集全体ではなく詩集に収められた長編詩について書いたものなので、こちらに収めた。


(二〇一六年一月)



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