ナイーヴな歌・普通の歌


(ジャクソン・ブラウンの歌に絡めて)



 このところ、久しぶりにジャクソン・ブラウンの歌を聴き返している。知らない人のために少し説明すると、ジャクソン・ブラウンは、一九七〇年代初めにレコード・デビューしたアメリカのシンガー・ソングライターである。米西海岸の、いわゆるウェストコースト・サウンドと呼ばれた音楽シーンを、イーグルスやドゥービー・ブラザーズとともに代表していた。

 僕は昔から彼の歌が好きで、これまでに発表されたオリジナル・アルバムはすべて持っている(僕はかなりの洋楽マニアなので、オリジナル・アルバムをすべて持っているのはジャクソン・ブラウンだけではないが)。最近になってまたジャクソン・ブラウンを聴き返し始めたのは、先日(二〇〇五年十月)発売された彼の〈Solo Acoustic vol.1〉と名づけられたライブ・アルバムを聴いたのが、きっかけになっている。そこには、デビュー以来のブラウンの代表曲が、彼自身のアコースティック・ギターやピアノの弾き語りによって収められている。このアルバムを聴くと、装飾のないアコースティックの生演奏ということもあってか、歌自身が持つ「力」がすんなりと耳の中に入ってくる。

 ジャクソン・ブラウンの初期の歌は、青年の淡い憂愁や皮肉を詩的表現の中に溶かしこんだものが多い。その視線は一様にナイーヴで、純情で少し知的で気弱な青年が、ぼそぼそとひとりごとをつぶやいているようにも聴こえる。デビュー・アルバム〈Saturate Before Using〉に収められた〈A Child In These Hills〉で、彼はこううたっている。



僕はこの丘陵地に住む子供
遠く離れ、そして、たったひとりで
この丘に住み
命の水を探し
真の人生を見つけようとしている

(〈A Child In These Hills〉山本さゆり訳)

 これは、若い時期に多くの者が抱く思いだろう。だが、あまりにもナイーヴすぎるし、そのことが決定的な弱点にもなっている。

 しかし、その後ブラウンの歌は、ただナイーヴなだけの歌から脱却する。ナイーヴであること、純粋であることを保持しつつ、そのままで強く、成長した歌を、彼はうたうようになる。



ぼくはおめでたいばか者になって
せっせと稼ぎまくることにしよう
消費者の心や魂を狙って
広告が打たれ、あれこれと売り込んで来る世界で
そして金で買えるものなら何であれ
信じることにしよう
まことの愛こそがそんな考えを打ち負かしてくれると思っていたけれど

神様、そこにいらっしゃるのですか?
仮面を被って生きる者のために祈ってください
うんと若くして意気揚々と旅立ったのに
結局は降参するしかなかった者のために

(〈The Pretender〉中川五郎訳)

 一九七六年に発表された代表作のひとつ〈The Pretender〉のタイトル曲からの引用だが、ここにはもう、あのナイーヴなだけの青年はいない。現実をそのままそこにあるものとして受け入れる、そんな態度が表明されている。〈Solo Acoustic vol.1〉日本盤に付された解説には、ジャクソン・ブラウン本人の発言が紹介されている。



30歳を過ぎて数年後に自分の仕事の速度を変え始めた。息子が5歳になって学校に通い始めたので、3年ほどツアーをやめたし、ツアーをしても夏だけにするようにした。僕は変わったんだ。現実の生活を暮らさなくちゃいけなかった。いつも思っていた。人生について曲を書くなら、普通の人たちと同じような生活をする必要があると。人生におこる現実について書くことに興味を持つようになったんだ。孤立した生活を送っていても、アーティストは人びとにとって何が大事かを語れるかもしれない。でも、僕は普通の人びとの毎日の生活ぶりに取り組もうと思った。そこでは子供たちは学校に行き、人びとは仕事に励む。こういったことが素晴らしいんだ。(中略)『プリテンダー』の頃だ。そういった考えを『プリテンダー』で伝えた。みんなが暮らしているのと同じ生活をしたいという考えだ。生活に起こる平凡な経験が重要だという考えを神聖なものとして受け入れたんだ。

  自らがつくる歌に対して真剣に取り組むアーティストの、傾聴に値する発言だと思う。ブラウンの言う「プリテンダー(仮面を被った者、本当の自分を隠して何かのふりをしている者)」とは、理想を追い求めて挫折した者であると同時に、社会の中で生きるごく普通の人びとのことでもあるのだろう。恐らくブラウン本人は、自分を「理想を追い求めて挫折した者」として見ていたのではないだろうか。理想を求めた結果、たどりついた普通の生活。しかし、彼の歌声からは、そんな自分だからこそ、普通の人びとの人生をうたえるんだという、確信というか自負というか、そんなものが聴こえてくるような気がする。



 ジャクソン・ブラウンをネタにして、いったい何を言いたいのかというと、自分の詩のことである。久しぶりにジャクソン・ブラウンを聴き返して、その歌の持つ「力」に惹かれながら、ふと思いついたのだ。僕が自分の書く詩に対して抱いている思いは、ジャクソン・ブラウンの自らの歌に対する姿勢と似ているのではないかと。

 ずっと昔から、誰かのために詩を書きたいと思ってきた。それは特定の誰かだったり、自分自身だったりしたのだが、それよりも、社会の中のどこかに生きている見えない無名の誰か、淋しさを感じ、人とのつながりを求めながら果たせず、自らの言葉を伝えるすべを持たない、社会や周囲の人びとに違和を感じ、何ひとつ成し遂げることが出来ず、それでも何とか生きていこうとして、ぶざまにあがいている、もしかしたら僕に似ているかもしれない誰か。そんな人のために詩を書きたいと思ってきた。大げさな言い方をすれば、そんな人のために詩を書くことこそが、僕の使命だと思ってきた。甘い考えだと思われるかもしれないし、詩はそういうものじゃないと言われるかもしれない。しかし、僕の中にあったこの思いは、ずっと長く胸の中に留まりつづけたもので、それゆえにかなり強固なものとして、自分の中に定着してしまっている。

 僕もまた、ナイーヴな感性を持っていて、この年でこんな純粋な奴いるかと、妙な自負を持っていたりする。それを武器にしたい。諸刃の剣であるかもしれないけれど、とりあえず自分の危険は顧みずに、詩を書きつづけたい。どこかにいるかもしれない誰か、その人のために詩を書きつづけたい。僕の言葉が目的の対象に届くかどうか、それははなはだ心もとない。どうやって届けるか、それは今後の宿題にしてゆっくり考え、とりあえずいまは、詩を書きつづけたい。普通の人のために、どこかにいるだろう、無名の誰かのために。



 ジャクソン・ブラウンはその後発表したアルバム〈Running On Empty〉のラストに〈Stay〉という歌を入れている。ブラウンのオリジナル曲ではないが、あえてアルバムのラストという重要な位置にこの歌を収録したのは、彼自信の思いとシンクロするところがあるからなのかもしれない。彼はこう歌っている。



みなさん、もうしばらくいてください
ぼくたちはもう少し演奏していたいんです
少しくらい時間をもらっても
プロモーターは気にしないでしょう
ユニオンだって許してくれるでしょう
だから時間なんか忘れてもう1曲うたいましょう

(〈Stay〉水木まり訳)

 過ぎ行く時間を惜しむかのように、ジャクソン・ブラウンはうたいつづける。自らの言葉が誰かの元へ届くことを願って。そう、歌はうたわれつづけなければならない。うたうことの出来ない、見えない普通の誰かのために。



(二〇〇五年十一月)


 

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