共感装置の勝利


 日本において詩は、難解であるか平易であるかというふうな語られ方をされやすい。詩作品をいくつか並べてみてどれが難解でどれが平易であるかというのは、誰にとってもわかりやすい物差しであるから、そうなってしまうのもある程度はやむをえないところもあるだろう。だが、難解か平易かというのは、詩の表面に表われた見かけに過ぎないのではないだろうか。何よりも難解と平易というふうに分けることで、難解であるとされる現代詩全般とそうでない詩という安易な対立軸が持ちこまれて、互いの本質が見えにくくなっているように思える。それは詩を理解する上において無用な混乱を生み出しているし、そんな物差しでは詩を本当に理解することは出来ないのではないだろうか。
 試しに一般に現代詩の括りに入れられている詩作品から、少し引用してみる。


ひとりでごはんを食べていると
うしろで何か落ちるでしょ
ふりむくと
また何か落ちるでしょ

ちょっと落ちて
どんどん落ちて
壁が落ちて 柱が落ちて
ひとりでに折り重なって
最後に ゆっくり
ぜんたいが落ちるでしょ

手を洗っていると
膝が落ちて 肩が落ちて
なんだかするっとぬけるでしょ

ひとりでごはんを食べていると
うしろで何か落ちるでしょ

(松井啓子「うしろで何か」全行)

 あともうひとつ。これは現代詩に親しんでいる人たちの間ではかなり有名な作品。


夕日
沈みそうね
…………
賭けようか
おれはあれが沈みきるまで
息をとめていられる
いいわよ息なんかとめなくても
むかしはもっとすてきなこと
いったわ
どんな?
あの夕日の沈むあたりは
どんな街だろう
かんがえてごらん
行ってふたりして
住むたのしさを…
忘れたな
どんな街だったの
行ってみたんでしょ
ひとりで
ふつうの街さ
運河があって
長い塀があって
古びた居酒屋があった
そこでお酒のんでたのね
のんでたら
二階からあの男が
降りてきたんだ
だれ?
黒い外套の
おれの夢さ
おれはおもわず匕首を抜いて
叫んじゃった
船長 おれだ 忘れたかい?
ほんと?
ほんとさ
…………
沈みそうね
夕日

(辻征夫「落日――対話篇」全行)

 ここに挙げた二篇は、まぎれもなく現代詩の中にある詩として認知されてきたものだ。ごらんのように、二篇とも難解とはいいがたい。むしろあまりにもわかりやすい作品であり、そのわかりやすさのために読み手にとっての間口が広い作品だと言える。しかし、このわかりやすさははっきり言えば意匠としてのわかりやすさであって、これらの詩が現代詩であるとされているのはそういうところにあるのではない。現代詩の難解神話を信じる者に対して、現代詩にはこんなにわかりやすい詩もありますよと言っただけではどうしても説明不足になるし、それだけで彼等が現代詩の読者になるとは考えにくい。


何もかも落としてやりたい
太陽も葉っぱも
すべて落として
自分の学校の成績も落としてやって
みんなを落胆させてやりたい

ついでに君との思い出も落として
その中に僕は落っこちるんだ

瞳から大粒の涙を
落としながら

 これは筆者がこの文章を書きながら試みに書いてみたものだ。現代詩ではなく、ポエムのつもりで書いた。ポエムになりきっているかどうか、かなり怪しいものではあるが。
 ともかく先に挙げた二篇とこの急遽書き上げたポエムと、どこに違いがあるのだろうか。双方ともわかりやすさという点ではいい勝負である。だが、これらを隔てる明確な線が確かに存在する。それは後者のポエムが読者の共感を得るような方法で書かれているのに、前者二篇にはそれがないということだろう。どういうことか、詳しく見ていこう。
 まず筆者が急ごしらえで書いたポエムだが、ここには自己の感情を描くことのみに集中しているさまが見て取れる。語り手には「何もかも落としてやりたい」と思うようないやな出来事があり(それには後半に登場する「君」がからんでいるだろうことは見えやすいだろう)、そのために自暴自棄になってしまっている。その自分しか見えていないような視点は一貫しているのだが、逆に言えば自分自身の中で空回りをしているようにも見える。いちおう「太陽」「葉っぱ」「成績」「君との思い出」「涙」と落ちるというキーワードに沿って詩的趣向が凝らされてはいるものの、あまりにも通りいっぺん過ぎる感じは拭えない。それは畢竟この詩(ポエム)が自分しか見えず、自分のことしか語れず、言葉を自分から引き離すことが出来ていないからだ。
 いっぽう、最初に挙げた現代詩に属する二篇はどうか。「うしろで何か」は語り口は平易であるものの、論理的な読み方を受けつけないようなところがある。「何か落ちる」の「何か」とは具体的に何を指すのか、それが明確にされていない。落ちるものが語り手の視線が届かない方向である「うしろ」にあるから、それが何なのか語り手自信にも判然としていない。その導入部から第二連に行くと、今度は「壁が落ちて 柱が落ちて」と目に見えるものが落ち始めるものの、「ぜんたいが落ちる」とまたもや曖昧な書き方がなされている。そして第三連では、「膝が落ちて 肩が落ちて/なんだかするっとぬけるでしょ」と身体感覚をともなった描写になる。これは一種の自己崩壊の感じであるだろう。それに対して第二連の描写は世界が崩れ落ちるような感じだ。全体的に見てこの詩はきわめて観念的であり、そのために見かけのわかりやすさとは裏腹に何を言おうとしているのかわかりづらい詩であると言える。また、「落日――対話篇」の方は途中までは単なる恋人同士のロマンチックな会話に見えるものの、中盤あたりから様相が変ってくる。それは「ふつうの街さ」以降の詩行だ。「運河があって/長い塀があって/古びた居酒屋があった」と街の風景描写がある後で、「のんでたら/二階からあの男が/降りてきたんだ」「黒い外套の/おれの夢さ/おれはおもわず匕首を抜いて/叫んじゃった/船長 おれだ 忘れたかい?」という詩行がつづくが、この部分は男の心象あるいは深層意識を表した詩行であり、どこか現実的ではない雰囲気を漂わせている。それもそのはずで、ここで男が語る街は現実の街ではなく、「おれの夢さ」とあるように、男の心の中にのみ存在する幻なのだ。そう考えると、男女二人の会話であるにもかかわらずこの部分だけ男の独白のように響くのも納得がいく。
 この二篇にあって筆者が書いたポエムにないものは、言葉の異化作用だろう。それは詩を見かけのわかりやすさ以上にねじれたものにしていて、そのためにこそこれらの詩は現代的であるのだと言える。「うしろで何か落ちる」のも「二階からあの男が/降りて」くるのも、もっとも平易な形で言葉を異化したものであり、それがこれらの詩をポエムと隔てるものとなっている。
 思うにポエムの最大の特徴とは、こうした作用を施さないところにある。言葉の異化などと言うと何やら難しげだが、要は作者が自分から言葉を離すことが出来ているかどうかだ。ポエムは意図的にあるいは自然に(多くの場合は自然にだろうが)作者が言葉を自らに寄り添わせている。言葉と作者がべったりとくっついていて、そのために自分のことしか見えず、視点がモノラルになりやすい。だが、それはいっぽうで読み手の共感を得やすいということにもつながってくる。「うしろで何か」と「落日――対話篇」は平易ではあるものの、ぎりぎりのところで読者の共感を回避しているように見える。だが、多くのポエムはむしろ積極的に読者の共感を得ようと躍起になっている(個人的には、それが時に煩わしく思えてしまうことがある)。作者が言葉から離れられずに自己が前面に出てしまうために、言葉に自己が丸写しにされ、それがそこに書かれてあるのと似たようなことを体験した読者の共感を呼ぶ。そんな一種の共感装置としてポエムは機能している。いま装置という言葉を使ったが、ポエムはある程度の要素を押さえてさえいればそれらしく書けるものであり、工場で大量生産される製品のように、互いに似たところを持っているのではないか。言ってみれば、ポエムの一篇一篇は他のポエムと取り替えが利く消耗品のようにも見えてしまうのだ。
 こうして書いていて、現代詩だって似たようなものじゃないかという声が聞こえてきそうだ。確かに一般的にイメージされる難解な現代詩というものは、多くのポエムと同じく、互いに似た部分を持ち取り替えが利いてしまうような印象を受ける。そのようなタイプの現代詩は、ポエムと同じような陥穽に落ちこんでいるのではないかと思える。そのような詩が大量生産されてしまうのは、現代詩が不幸な道筋をたどって隘路に入りこんでしまったがゆえのことなのかもしれないが、ここに挙げた平易な現代詩だけではなく難解な現代詩の中にも、書き手が試行錯誤した跡が刻みつけられており、またそれははっきりとした成果として残っているものでもある。その成果を軽んずるのは、あまりにも不用意ではないかと思う。
 さて、このように同じように平易であっても現代詩とポエムでは表面的な言葉の意匠以上に違いがあるのであり、それを考えると現代詩は難解であるとしてわかりやすさを求める人たちは、根本的なところで思い違いをしているのではないかと思えてくる。難解な詩も平易な詩も、日本の現代詩は見かけから想像されるのとは別のところでルーツを同じくしているのではないか。だから、単なる難解さの排撃では意味がないように思えるのだ。
 これまで述べてきたように、ポエムは一種の共感装置としてあり、日本の詩の流通の現場では、ポエム的な共感装置こそが勝者として大手を振って歩いているように見える。その意味で、読者の獲得に失敗した現代詩は敗者であるのかもしれない。ポエムと現代詩を並列させて性急にどちらが正しいなどと言うつもりはないが、ポエム擁護派に対してはいま述べたようなポエムと現代詩の特質の違いを述べた上で、現代詩の美点を訴えていくのもいいだろう。何より豊富な詩の泉を先入観だけで通り過ぎて顧みようとしないのは、もったいないとしか言いようがない。現状では共感装置の勝利によってポエムが消費されているものの、敬遠されがちな現代詩にも一定の分はあると信じたいところだ。


引用作品出典
「うしろで何か」―「現代詩手帖」一九九四年六月号特集「現代詩の九十九選」(思潮社)
「落日――対話篇」―『現代詩文庫78 辻征夫詩集』(思潮社)


(二〇〇八年九月)



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