心の難解さへと向かう試み


 詩を書くことが、それぞれの書き手にとってどんな意味を持つのか。それは個人によって様々であるだろうが、おそらく書くことが自らにとっての救いになりうると感じている書き手が多く存在するものと思われる。書くことが自己実現がかたちを変えたものと見做すならばそれも当然であり、日頃の生活でやり切れない思いを抱えている個人がその満たされない思いを創作にぶつけるというのは、もっともわかりやすい書き手への道としてあるだろう。そこを出発点としてどのような方向に向かうかはそれぞれの書き手次第ではあるものの、出発点がそこにあったという認識だけは揺らぐことなくそれぞれが持ちつづけていくであろうと思われる。
 ひと口に詩といっても、その方向性は様々にあり、詩を勉強して先人たちの遺産を継承して書いていこうとする(いわば自らを歴史の流れの中に置こうとする)態度もあれば、ひたすら自らの欲求のみにこだわって周囲を振り返らずに書いていくという態度もあるだろう。いまここで性急にそのどちらが正しくてどちらが悪いのだと決めつけてしまうつもりはないが、どちらのタイプの書き手にも、先ほど挙げた「書くことに救いを求めること」が詩の出発点になっているという者が共通して存在すると思う。たとえ「現代詩」であろうと、いわゆる「ポエム」であろうと、その多くは同じ場所に根を持っているのではないだろうか。問題はここから先で、同じ出発点からそれぞれに異なる道を歩み出した書き手たちが実際に書いている詩の中には何があるのかということを、問題にしてみたい。
 いまここではやや乱暴に「現代詩」「ポエム」という二項対立の図式にしてしまっているが、もしもそれらのいっけん違ったものに見える詩の出発点が同じところにあるのならば、異なる道を歩み出した先にあっても、その中には同質のものが眠っているのではないだろうか。それは成功も失敗も等しくそうであり、「現代詩」の成功作も「ポエム」の成功作も、詩という同じ根から発するものであり、同じく「現代詩」が犯した過ちも、「ポエム」が犯した過ちも、よく見れば同質のものではないかと思えてならない。「難解な現代詩」も「わかりやすく共感を呼ぶポエム」も、同じ種類の失敗をする可能性があるということだ。
 私が考えているのは、詩の内実の問題だ。内実というとかなり曖昧な表現で、自分でもその言葉をはっきりと定義する自信はないのだが、「現代詩」にも「ポエム」にも、詩の内実をおろそかにして書いてしまいがちなところが多分にあると思う。たとえば「ポエム」の書き手たちは、自分の書くものが自らの心からそのまま出たものだとして、「心から出たものだから誠実な詩なのだ」としてその自分で作り出した定義に居直ってしまいがちなところがあるように思う。それではその「心から出たもの」というのは、自らの心の裡を本当に突きつめて書いたものなのか? もしかしたら「心から出たもの」という定義によりかかって、心への踏みこみが足りていないではないか? そういう問いかけを自らに対して行なうことは有用だと思う。「心から出たもの」という定義はよくよく考えてみれば便利なもので、一種の免罪符にもなりえてしまうところがある。「あなたは自分の詩を真剣に書いているのか?」という他者からの問いかけに対して、「心から出たものだから真剣なんだ」という言葉ひとつで済ませてしまえるような危うさがある。その実、自らの心への踏みこみが足りずに表面でさらっと流してしまっているようなケースもありうるにも関わらず、「心から出た」というだけで他者を黙らせ自分自身をごまかしてしまえるようなところがある。本当に「心から出たもの」だと言い切るのであれば、もっと踏みこむべきではないか。多くの「ポエム」はそのへんの踏みこみというか、自分を追いつめる作業のようなものを怠りがちであるように見えてしまうのだ。
 それは「ポエム」と対極にあるものと思われがちな「現代詩」であっても同じことだ。「現代詩」はへたに技術が高いだけに、時に無用な腕自慢大会に陥ってしまいかねないところがある。あるいは新規な方法論の開拓でもいいが、そうした手法面ばかり追い求めるあまり、中身が空っぽになってしまいかねない危険性をはらんでいる。結局「ポエム」も「現代詩」も、犯す過ちは同種のものであり、同じ穴のムジナであるように見えてしまう。「ポエム」は「心」という定義で、「現代詩」は技術で外側を飾り立てるあまり、内実がおろそかになって詩の中身ががらんどうになってしまう危険性があるという点では同じなのだ。だから、特にネット詩の現場でよく言われる「ポエム」対「現代詩」という対立構造は、似た者同士の痴話喧嘩のように見えてしまう。結局内実を置き去りにして、「心だ」「技術だ」と言い合っているだけなのではないか? また、それぞれの書き手がそのようながらんどうな詩ばかりを生み出していかざるをえないのであれば、少しばかり筆を休めて、自らの詩を見つめ直してみることも必要ではないだろうか? どうも現状では、妙な競争意識を煽るような雰囲気が蔓延してしまって、それぞれの書き手が自分の詩を振り返る暇さえ与えられていないように思えてならないのだ。
 人の心は複雑であり、自分自身でさえも自分の心がわからなくなることもしばしばだ。心というのは目に見えないだけに厄介な代物で、そんなものを持たされてしまったのが人という生き物の最大の不幸であるのかもしれない。心は難解であり、それは詩の難解さとは比べ物にならないほどだ。心の難しさに比べれば、「難解な詩」など取るに足らないだろう。それほどに心は難しく謎めいている。詩が人に訴える力を持ちうるとすれば、言葉の新奇さや技術の高さといったものではなく、その中にいかに真剣な思いが綴られているか、作者が自らの心に深く踏みこみえているかどうかといったところにあるだろう。「自らを救うための手段として詩を書く」のならば、もっと心の難解さへ接近しなければならない。表面をなぞって事足れりとするのならば、書き手が求めている真の「救い」は得られないだろう。それでは結局のところ、詩のかたちを借りた言語遊戯に加担してしまうだけのことだ。心の難解さへと真剣に向かっていく試みを、詩の書き手はつづけていくべきではないだろうか。



(二〇〇八年十二月)



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