記名の呪縛


 詩誌「あんど」8号に掲載された井川博年氏の「期待しない ――若い詩人への手紙のようなもの」と題する文章は、これほどまでにひどい文章を読んだのはいつ以来であるか思い出せないというくらいにひどい、長年にわたって詩作に携わってきてそれなりに評価もされてきた高名な詩人の書いたものとは、にわかには信じがたい代物であった。
 この文章が本質的に駄目であるのは、自分の知っているところからしか言葉を発していないからであり、「若い詩人たち」というものをいいかげんに規定してしまって、そのことに書いている本人が気づいていないからでもある。ここのところは文章の後半の「そういうことをいうと、おじさんたち文学だなんて何いってんの、といい返されそうである」といったあたりに顕著だ。「若い詩人たち」を無意識のうちにも一般の「いまどきの若い人たち」と一緒くたにしてしまっているのだ。井川氏は「文月悠光、怪我、高塚都市魚などいった」「吉本(隆明)のいう『根拠のないペンネーム』の詩人たち」の名を挙げて、「そのようなペンネームを付けること自体、考えが安直であるといわざるをえない」と批判しているのだが、井川氏の言う「文学をバカにするな」というひと言は、そっくりそのまま井川氏に返ってくるだろう。なぜなら、先述のように井川氏は「若い詩人たち」を一般の「いまどきの若い人たち」と混同してしまっていて、彼等もまた井川氏をはじめとする先行世代の詩人たちと似たような心理で文学に参入してきたのであろうということを失念してしまっているからだ。文学というものは常にそれぞれの個人の異和から始まるはずであり、それは若者であろうと老人であろうと変りはない。彼等もまた井川氏と同じかあるいはそれ以上に真剣に文学と向き合っているのだ。だから、彼等は決して「おじさんたち文学だなんて何いってんの」などと言いはしない。若い詩人たちの文学への思いをたかだかペンネームごときでバカにするなと言いたいくらいのものだ。
 井川氏がここで取り上げたペンネーム(筆名)の問題は、たしかにちょっと見たところでは昔に比べて奇妙な響きの名前が増えたように思われるものの、それは表層的な印象に過ぎないであろう。それでは夏目漱石だとか石川啄木といった筆名は奇妙ではないのか。一種の雅号としての趣きを持つこれらの筆名は文学的にはありであるかもしれないが、一般の人の名として考えると奇妙な名前であることは間違いない。また、「根拠のないペンネーム」と言うが、上村隆一はなぜ鮎川信夫という筆名を選んだのか、松村文雄はなぜ北村太郎という筆名を選んだのか、これらの筆名に第三者が納得しうるような根拠はあったのだろうか。そういうことを検討せずにただ一方的に「若い詩人たち」のペンネームの奇妙さのみをあげつらうのは卑怯であり、まるで説得力がない。
 私が最近の若い詩人たちの筆名の「奇妙さ」にふれて思うのは、そういうことよりもむしろ、なぜ彼等がそのような筆名を選んでしまうのかという個々人の心理の方にある。それらの中に完全に立ち入ることは不可能なのであくまでも推測でしかないのだが、記名するという行為への畏れやためらいといったものが多分にあるのではないだろうか。記名するということは、自らの存在を声高に主張するのと同義だ。特に詩などの何らかの作品を発表する際に、それは効力を発揮する。ある書物や文書に著者名として特定の名前が記されている。ただそれだけで、そこにある名前は自らを主張してしまうし、他者にとってもその特定の名前に惹きつけられる(あるいは反発を覚える)ということがある。つまり、名前がどろどろとしたエゴを前面に押し出す装置になってしまっていて、その名前の所有者である本人も他者も、名前が押し出すエゴを感じ取らざるをえないようになっている。そのような、見方によれば醜いとも言えるエゴの表出から距離を置きたいと、「若い詩人たち」は考えているのではないだろうか。詩を書いてそれを発表するという行為自体が醜いエゴの表出であるとも言えるのだから、何をいまさらという感じがしないでもないのだが、作品を通してエゴを表出してしまう自分と、そうして滲み出してしまったエゴにとまどってしまう自分と、正反対の感情のベクトルをいまの「若い詩人たち」は持っているようにも見受けられる。だからこそ「奇妙なペンネーム」なのであり、そこにはそうした表現行為に対する微妙な感情が表れているのではないだろうか。
 この文章を書いている私は岡部淳太郎という名前を持っている。現代の詩の世界には以前に比べて筆名を使う書き手が増えているように見受けられるが、ご他聞にもれずこの名前も筆名である。なぜ私がこんな筆名を選んだのか。別に深い理由があるわけではない。手っ取り早く言えば、本名をアレンジしただけなのだ。私の本名は乙部淳というのだが、昔から電話などで名乗る時に「おとべです」と言うと、よく「おかべさんですか?」と聞き返されることが多かったのと、二十歳前後の一時期、父親から「淳太郎」と呼ばれていたことがあって(ちなみに、父親は私が生まれた時に「淳太郎」とか「淳也」といった名前をつけようとしていたらしいのだが、母親がそれならシンプルに「淳」でいいじゃないかということで命名されたという経緯がある)、そのふたつをくっつけただけの名前である。何とも安易なことこの上ないが、ここには第三者が納得しうるような立派な根拠などない。ただ普通の名前に見えるので、そのぶん奇異に感じることも少ないというだけの話だ。どだい筆名の由来など本人以外の者にとっては根拠の薄いものでしかありえないのであり、ただ字面や響きの違いで奇異に見えるというだけの話だ。
 さて、この岡部淳太郎という筆名を使っている私だが、いまやこの筆名がすっかり板についてきてしまっている。一時期は本名で書こうかという気持ちも多少はあったものの、岡部淳太郎として認知されてしまっている以上、そう簡単にこの名前を捨てるのも惜しいような気がしないでもない。結局、私は私の筆名に呪縛されているのではないかと思うことが時々ある。たとえば、私が詩なり散文なりをネットや同人誌などに発表する際につけられた岡部淳太郎という名前を見れば、そこからたちどころに私がこれまでに書いてきたものの総体が付随してしまう。この名前を目にした瞬間、ああ、岡部淳太郎か、岡部ならあの程度のものしか書けないだろうなどと思われて、岡部淳太郎という名前を基準にして書かれたものの中身が判断されてしまうのだ。それと、私と面識のある者であれば、この名前を目にして私の外貌を頭の中に思い浮かべるのは容易であろう。こうして、ただの名前、わずか数文字の文字の羅列でしかないものが、作品や本人の外貌などのその名を持つ者を想起させる。これは名前によってその人が規定されているということであり、そうするとネット上などでころころハンドルネームを変える書き手は、こうした名前に付随する印象から独立して自由になりたいと願っているのかもしれないし、およそ人の名前とは思えない奇妙な名をつける書き手は、そこからある種の人間的なくさみのようなものを極力排除しようとしているのかもしれないとも考えられるかもしれない。また、名前によって書き手としての自らが規定されてしまうという感覚は、現在の自分のいる場所からまだ先の方へと進みたいと思う書き手にとっては邪魔なものに思えることもあるかもしれない。筆名を持つということ自体、新しい自分を仮構するということであり、普段の本名で生きるしかない日常に比してのささやかな抵抗の試みと見ることも出来るだろう。だから、いかに奇妙な名前に見えようと、またその名を頻繁に変えようと、一概にそれを批判する気に私はなれない。
 命名というものは本来神聖な行為のはずである。井川氏の文章にはそうした神聖な行為を軽く扱うなという言外の意味が含まれているのかもしれないが、同時に現代はさまざまな目に見えない不安や脅威が潜伏する時代でもある。それらから自らを守るために、あえて奇異な筆名をつけることでささやかな解放を味わうぐらいのことは許されても良いだろう。
 私はこうして書いた文章に、いつもと同じように「岡部淳太郎」と署名する。その名を手がかりとして、人はそれぞれにこの文章を区分けする。岡部の書いたものだから読むのか、岡部の書いたものなんてくだらないから読まずに通りすぎるのか。その名前を記すことで、人によって態度は分かれていく。そのどちらにしても、私が岡部淳太郎という名前に縛られていることは確かだ。人や物につけられた名前は所詮記号に過ぎないという考え方がある。数多ある人々や物たちを区別するためにのみ、名前は存在するのだと。それはそれで合理的な考え方であるのかもしれないし、そのように考えた方が、記名された名前の呪縛に煩わされることもないのかもしれない。それに作品というものは、作者のネームヴァリューと関わりなく独立して存在するべきだとも思う。名前を頭に入れることで、作品の本質が見えなくなり冷静に批評することが出来なくなる恐れがあるからだ。名前は名前でしかなく、本来それだけでは価値を持ちえないはずである(余談だが、井川氏は件の文章で吉本隆明氏の名を出して、吉本氏が自分と同じように感じているということを自分の考えの後ろ盾にしているような感じがあってちょっといやらしい。吉本隆明というある種の権威を持ち出してそれに頼っているのだ。これもまた、特定の名に価値を付随させていることの一例である)。だが、特定の名前を書き記すことによって、その名の背後にあるもの、その名で書かれたこれまでの作品やその名を持つ人の外貌や性格などが、一緒についてくる。その名をよく知っている人であればあるほど、名前に価値をまとわりつかせやすい。作品の純粋さを保つためには作者の名前など邪魔でしかないのかもしれない。詠み人知らずであっても、良いものは良いのだ。しかし、とりあえず慣習どおりに、人はそれぞれに与えられた名前を書き記す。その名によって作者と作品は不自由になっているのかもしれない。名前というものがある限り、本人にとっても他者にとっても、その呪縛から逃れるのは容易なことではないであろう。



(二〇〇八年三月)



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