抒情の大きさについて


 常々言っていることだが、私は詩人として政治に関わるつもりはない。それは嘘だと思う。詩人でも小説家でもいいが、そのような文学的活動をしている者がその名前において政治的発言や活動をすることを、私は好まない。もちろん社会の中で生きていく上でおかしいと思うことはあるし、日々流される政治のニュースに接して思うこともあるし、選挙があれば投票にも行く。だが、それは一社会人としての無名の個人としての行動であって、それを詩人としての自分の思想や信条にまでしてしまいたくない。だから誰に投票したとかどこの党を支持するとか、そういうことは言わないしいう必要もないと思う。そのようなことを公言して積極的にデモに参加したりする書き手を知らないわけではないが、彼等は私とは考えが違うだけであり、それを非難するつもりもなければそれに靡くつもりもない。ただ私個人の考えでは、詩人などの文学的活動をしている者は公に政治的言動をすべきではないと思っている(これは芸能人やスポーツ選手などの有名人についても、同じ考えを持っている)。
 政治などくだらないとすら思うことがある。それは所詮地上でのごたごたに過ぎない。そんなものにかかずりあっている暇があれば、私は日向ぼっこや散歩でもしている方がずっとましだと思う。私がこのように考えるに至ったのは、幼い頃より人付き合いが苦手で周囲の人々との間に異和や齟齬を抱えてきたことに端を発する。人付き合いも結局は政治だ。人間関係にはどうしても意識せずとも自然に主従が出来てしまうし、取引もあれば知らぬ間にルールも決められてしまう。それの拡大版が世に言う政治であり、結局人との間で異和を抱えて考えこまざるをえない日々を送ってきた私にとっては、政治は苦手分野になってしまっているのだ。人と人との付き合いが国と民との付き合い、国と国との付き合いになっただけで、規模が大きくなっただけで私にとっては同じことなのだ。それは世捨て人のようにして人から隠れて詩を書いてきた私にとって、当然抱く考えであると言っていい。
 だから私にとって自民党政治も原発問題も沖縄の基地問題も、すべては異和とともにある遠い出来事でしかない。また詩人や小説家(あるいは芸能人やスポーツ選手も)といった種類の人々は、政治の外から発言してこそその言動に価値があるのであり、政治に没入してしまっては本末転倒だと思う(だから私は芸能人や小説家から政治家に転身した人は認めない)。
 政治など小さいものだ。それは結局人付き合いの拡大版でしかないし、そうであるからにはそこに人間の意識を根底から変えうる力がこもるはずもない。結局いまある暮らしをより良くするかそれとも悪くするかということでしかないので、すべては地上的な出来事に過ぎない。そんな政治などというものよりももっと大きなものがある。それは抒情だ。抒情は地上的規模に収まるものではない。抒情は全宇宙に行きわたっているし、また生活の隅々にまで行きわたっている。抒情ほど大きく雄大でまた細やかなものは他にない。そこには人の気持ちに寄り添う優しさもあれば、人の意識を引っ繰り返すほどの意外さとそっけなさが同居している。抒情とはそれほどに捉えどころのないものであり、複雑な表情を持ったものだ。
 たとえば夜に星空を見上げればそこに抒情があるし、日常のふとした一齣、信号待ちの気を抜いた瞬間にも抒情はやって来る。夢の中でも昼間目覚めている時でも抒情はやって来るし、生活の慌ただしい時間の中でも一人部屋でくつろいでいる時でも抒情はやって来る。
 抒情の大きさに比べれば、人も政治も小さい。詩人であるからにはやはり抒情を愛するべきだし、政治などは詩以外のその他諸々のうちの一つでしかないだろう。だから私は所謂「文学者の声明」などに加担するつもりはさらさらない。私はただ抒情とともにあって、抒情をこの世のあらゆる謎とつなげて考えて、大きすぎる抒情のほんのひとかけらでもこの手につかんでいたいだけだ。



(二〇一五年五月)



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