言葉の不可能性、他者の不可能性について


 以前、「とどける」という詩を書いたことがある。どこにいるかもわからない、もしかしたら世界中のどこにも存在していないかもしれない者へ向けて、その曖昧模糊とした「君」に向けて書いた詩だ。四年前に書いたこの詩を読み返しながら、改めてここには自分の絶望が現れていると感じた。この詩を額面どおりに素直に受け取れば、語り手が他者への優しさを発揮した詩ということになるのだろうが、恐らく作者である自分の気持ちを分析するならば、他者を信用できず、他者とのコミュニケーションの不可能性に自覚的になっているからこそ書かれた詩であり、具体的な他者ではなく頭の中で想像され想定された曖昧な他者に向けて書かれたところに、それが現れている。つまり、僕は人間性一般というものが信用できず、それゆえに他者とのコミュニケーションを構築することに絶望していて、懐疑的になっている。だからこそ、どこにいるのかもわからない、どこにもいないかもしれない想像された他者に向けてでなければ、コミュニケーションを希求することが出来なかった。僕のそんな、どうしても孤独に陥ってしまいがちな気持ちから書かれた、人間性への懐疑、コミュニケーションの不可能性が半回転して書かれた、かなり始末の悪い詩だということが出来る。
 詩とは、何のためにあるのだろうか。人はなぜ、詩を書くのだろうか。そんなことを思う時、詩を、それを形作っている言葉そのものを、信用しすぎるのはどうかという気持ちになる。
 詩は、言葉で書かれている。言葉は詩を形作るパーツであり、詩が言葉だけで書かれているのならば、詩のすべてでさえありうる。書き手は言葉を使って詩を書くしかない。それ以外の選択肢はほとんどありえない。そうであるならば、書き手は言葉の使用に当たって慎重になり、よく吟味して言葉を選ぶべきであろう。これは安易かつ手軽な表現を戒める技術論の側面から語ることも出来るものだが、それだけではなく、詩が、言葉が、結局は詩でしかなく言葉でしかありえないことの絶望性をも物語っている。いったい、言葉とは何であろうか? それは基本的には人と人の間で交わされるコミュニケーションツールであり、それを使用することで他者と交流することが出来る、人間が発明したもっとも根源的で便利なものだ。だが、言葉を使用してさえいればすべてのコミュニケーションが円滑に進むかというと、それには留保をつけておかなければならない。言葉によって人間はつながり合うことが出来ただろうが、同時に、言葉の行き違いによる争いを何度となく繰り返してきた歴史も、人間は持っているからだ。つまり、言葉は信頼すべきものであるだろうが、あまり盲目的に信用しすぎると手痛いしっぺ返しを食うことになる、非常に扱いづらいものでもあるのだ。争っている相手に対して、話し合えばわかり合えるなどとよく言うが、そういう姿勢の胡散臭さは、言葉の持つ便利な機能のみに焦点を当て、言葉を信用しすぎている態度が見え隠れしているからこそだ。言葉はただそれだけのものではなく、しばしば非常に謎めいており、行き過ぎや行き違いによって人を不幸に陥れもする、もっと多面的な存在のはずだ。そして、そのような性質を持つ言葉を使って詩を書くということは、そうそう単純なことではないのだということは、当然のことだろう。
 それを具体的に言えば、言葉を信用しすぎるな、自分の言葉が相手に届くなどと思うなということである。言葉とは極めて絶望的なコミュニケーションであり、そうでありながらその絶望的な方法を使用しなければ、他者とつながる夢も見られない。そんな相反したシニカルな立場に、言葉を使って表現する者は立っている。詩を書く者は、そのことに自覚的にならなければならないのではないか。
 一部の詩の書き手たちは、他者との交通を願って言葉に夢を託しすぎるようなきらいがある。しかし、人のコミュニケーションが言葉に多くを負っている以上、全的なコミュニケーションというのはほとんどありえない。言葉がその不完全性を露にすることがあるのなら、コミュニケーションもまた不完全で終らざるをえないだろう。そして、そんな言葉を使った詩が、時に伝達性から離れた姿を見せるようになるのは、極めて当然のことだ。
 結局、私たちは究極的につながり合えない。詩でその夢を見ようとしても、無益なことだ。言葉を使って書かざるをえない詩はそんな夢見る装置ではなく、もっと違う何か、言ってみれば、絶望の一歩手前でぎりぎりの呻きを絞り出すような、そんな切羽詰った何かであるだろう。言葉の不可能性、他者の不可能性、それらを認識した上で、はじめて「詩」は成立しうるのではないか。



(二〇一〇年三月)



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