悪意の在り処


 夏の暑い陽射しが照りつける道を、大量の汗を滴らせながら、ひとり当てもなく歩いているような気分だ。数え切れないほど大勢の人が存在していて、それぞれが勝手な思惑を抱いて犇めきあっているようなこの世の中では、それらの人の思いに四方八方を囲まれて身動きが取れなくなりそうになる。それぞれが勝手なことをわめき散らしていて、それが唯一の真実であるかのようにふるまって、世界の多様性を亡きものにしようとしている。そして、自分もまたそうした勝手にわめいている人間のうちのひとりに過ぎないのかと思うと、自分が人間であることがいやになってくる。この世から離脱して仙人にでもなって霞を食って生きていきたいような気分だ。
 おそらくこうしたことを正直に吐露すると、社会性のない愚か者の烙印を押されてしまうのだろう。しかし、こうしたことを思いつめるということは自らの存在と社会との関係性に悩んでいるということであり、だからこそ逆に真剣になって社会のことを考えているとも言えるのではないだろうか。
 自分が人間嫌いだということを自覚したのはいつ頃のことだっただろう。おそらくそんなに新しいことではあるまい。私は昔から不器用な性質で、人との関係性というものをうまくつくることが出来なかった。つまりは人付き合いが苦手なのだが、それは自意識があまりにも肥大して歯止めが利かなくなっていたからなのであり、そのために自分で自分を縛りつけているようなことになっていた。そしてそうなってしまったのも元はといえば、自らに向けられた社会的な視線というものに私があまりにも敏感であり、それらのひとつひとつをいちいち自分の問題として(たとえうまく言語化は出来なくても)抱えてしまっていたからなのだ。私にとって世界は私自身か私ではないものかのどちらかしかなく、いつもそうした対立構造でしか世界をとらえることが出来なかった。考えてみれば何ともわがままな人間である。いつも自分のことしか考えていないのに、そのくせ他人を思いやるということをしてこなかったのだから。
 こんなことを書くと、危ない奴と思われるかもしれないが、実際その通りであり、私は自らに対しても周囲に対しても危ない者でありつづけてきたのだ。そんな私が社会的な存在としての「人間」というものに時に嫌悪を抱いてしまうのも当然のことであるが、そんな者であるからこそ世界はますます私にとって住みよい場所ではなくなってくる。おそらく私ははじめから少しばかりおかしかったのだろう。生まれる時に心の部品のどこかに重大な欠陥があったのかもしれない。でなければこんなふうに思い悩みはしない。人間とは社会的な存在であるべきなのに、私はどうもそうではなかったらしいのだ。
 私のような者は遅かれ早かれ、自分自身の生への甘さや自分から離れられない性質のために制裁を受けることになるのだろう。そのためにますます自分自身の隘路へと入りこんでいくのだ。どこかで救いがなければ生きていくこともままならないはずで、思い返してみれば私にとっての救いとは詩であったのだ。自分のことしか考えられず、どうしても自分自身とべったりはりついてしまう私であるから、私の中から何らかのものを吐き出して救いとするのは必然であったのかもしれない。だがそれは私の中から出て来さえすれば何であってもよかったはずで、たまたま出て来たのが詩だったということに過ぎないのかもしれない。
 いまや時代は閉塞している。それは誰の眼にも明らかであるだろう。前世紀末に始まった閉塞は、来たる新世紀への期待をこめて何とか耐え忍んできた。新しい時代になればそれが新しい時代であるというだけで何とかなるのではないかという、根拠のない期待感がどこかにあった。だが、新世紀になってもただ数字が変っただけで時はちっとも前に進まないということがわかってしまった。そのために閉塞はますます確固としたものになってしまい、人々の間に意味のない享楽と絶望とふたつの方向の気分をもたらした。そんな中で詩を書くというのは、どういうことだろうか。いまさら薄っぺらい希望をつづったところで、ますます空々しく響くだけだろう。そもそも詩とはもともと希望や善意などというものとは無縁のところで書かれてきたのではなかったか。何もかもが信じられないような、人を見たら泥棒と思えというようなそれぞれに孤立した気分が支配する時にあっては、へたな善意など薬にもしたくない。個人的な感じを言わせてもらうならば、もはやいまの私には人の善意というものが信じられなくなっている。とりわけ、見知らぬ他人の善意というものが、嘘くさく感じられてしまう。だから、この時代に詩の中に全方位の善意をつめこむことは、有効ではないように思えてくるのだ。
 世界には無数の悪意があふれている。そこらじゅうの暗がりや曲り角で、隙あらば襲ってやろうと、悪意がじっと身構えている。気をつけていないとどこかわけのわからない場所へ連れ去られてしまいそうになる。そんな世の中にあっては、人の善意だとか正義とかいうものは、先験的に存在しえない。正しいものはない。いや、あるのかもしれないが見えにくいし、どこにあるのかわからない。それに対して悪は確実に存在する。理不尽なまでの暴力的な悪というものは確かにあるし、堂々と眼に見えるかたちで世の中に現れている。詩は一般の人々から見れば、単に手軽な抒情で心を安らがせてくれる便利なツールに過ぎないのかもしれないが、このような時代状況の中で単純な溺れやすい抒情に向かってしまうのは、それがひどい時代であるから当然であるのかもしれない。だがそれ以上に、手軽な抒情だけでは時をしっかりと切り開いていくことが出来ないように思えるし、こんな時代であるからこそ逆に悪意をしっかりと見つめて、それを意識することが求められているように思えてならないのだ。たとえばいま書店の詩のコーナーでもっとも売れていると言われる、相田みつをや加島祥造の『求めない』などのつまらなさはそこにある。そこには人間の善意ばかり信じすぎて、その正反対にある悪意のことをまるで考えていない姿勢が見てとれるのだ。また、個人的には谷川俊太郎の一連の詩(特に集英社から出版されるような一般の読者向けのもの)にも同じような物足りなさを感じてしまう。だからこそこれらの詩集は詩の中でも例外的に売れるものとなっているのだろうし、入口としてそういうものが必要だというのはわかるものの、そこで立ち止まって詩の奥深い世界へ分け入ってみようとしない人が多いらしいことを思うと、歯がゆい思いをしてしまう。また、これらの詩の、人間精神の日の当たる側しか見ていない姿勢は、先述のように物足りなく感じられるし、このような詩ばかりが目立ってしまうと、詩に体力が備わらなくなるのではないかという危惧を感じもする。
 詩を書くとはどういうことだろうか。それは世界への異和を言葉にするということであり、そうでなければ詩であるなどとは言えないと思うのだ。(こんな排他的な言い方をするとまた怒られそうだが、ただ面白おかしく言葉をこねくり回しているだけでは、それは本当の詩的な態度とは言えないだろう。いわゆる「ポエム」にも現代詩にもその甘さはあるのであり、そういう意味でこのふたつは見かけの違いとは裏腹に根底で同じ過ちを犯しているように思える)。そして、世界への異和というのは人が詩に向かう出発点であるはずで、もっと言うならばその普通の世界からはみ出してしまう精神傾向こそが、あらゆる創作行為の原点であるはずなのだ。世界への異和が詩の出発点になるということは、そうした異和を感じる精神は周囲からの悪意にさらされているはずである。それはたとえ明確なものでなく本人がそのように感じるだけであっても、自らがこれは悪意であると認めうるならばそれでいいのだ。そして、そのように悪意を受け止めてしまえば、世界への反撃が始まる。それはその中に悪意を含むものであるはずで、詩的精神は自らの中に悪意を取り入れてはそれを悪意として吐き出すのだ。見かけ上どんなに美しく陶酔してしまいそうな詩であっても、その中には悪意が毒のように盛ってある。詩的精神とは悪意の交叉する場であり、ひとりひとりの書き手の中こそが悪意の在り処であるのだ。
 私はまたしても歩いている。残暑の厳しさはいっこうにおさまる気配がない。様々な人が行き交う交差点で、私は立ち止まって汗を拭う。どこか遠くで甘い抒情が鳴り響くが、私はそちらに眼を向けることはない。私はただ、昔と変らずにいまも自分自身の中を見つめているのだ。外から入りこんできた悪意とそれに刺激されて私の中からわき出てきた悪意が、私の心の中でせめぎあう。私はもう一度、倒れるまで歩きつづけてみようと思い始めている。



(二〇〇八年九月)



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