批評について、ふたたび


 どうも批評というものは、ネットのような有象無象が集る場所ではかなり誤解されているようだ。批評を作品に対する単なる悪口と同義に思っている人がいるらしくて、びっくりしてしまう。その程度のものだったら「批評」とは呼びえないだろうし、だいいちそんな認識でいたら本物の「批評」に対して失礼というものだろう。私は以前「ピラミッドは三角か?」という散文で批評が存在しなければならない理由について少しばかり書いたのだが、あれは批評者よりも作品と作者、そして読者に力点を置いて説明したものだった。今回は批評する側の立場に軸を移して、批評者の事情というものについて書きながら、そこから批評と作品の関係性および批評の存在意義について考えてみたいと思う。

 まず、批評に対して作品への悪口程度に思っている人に、少し批評する側の心理について考えていただきたいと思う。自分の作品を愛し、それを守りたいばかりに、批評を拒絶しようとする者は、自分の(作者の)側しか考えていないという点で、作品を取り巻く状況がまったく見えていないと思う。少しは批評する側のことも考えて、想像をめぐらすぐらいのことはしてほしいものだ。余談だが、酷評されることで自分自身までもが否定されたように思う作者がいるが、あまりにもナイーヴすぎる。自分自身と作品が密着しすぎているからそのような心理状態に陥るのだが、もう少し自作を突き放した目で見ることも必要だろう。それがひいては自作に対する批評眼を養うことにもつながるし、いつまでも自分と作品がべったりくっついたままでは作者としての成長が止まってしまいかねない。話がそれたが、批評する側の心理についてである。彼等は何故批評をするのか? それは簡単に言えば、批評したいという欲望、批評欲が生じるからである。より正確に言えば、作品が批評欲をかき立てるのだ。作品自体に批評を喚起する力が秘められている。それは多かれ少なかれどんな作品にも先天的に備わっているものであり、その力に導かれるようにして批評が生まれてくるのだ。

 そしてもうひとつ、批評する側から見て大事なことがある。批評文を書きながら留意した方がいいものとして、批評の作品化ということが挙げられる。批評とは単に人の作品について勝手に言葉を並べて満足するだけのものではない。批評も作品になりうる。それは、批評行為であると同時に作品行為にもなりうるのだ。そして、批評をすることによって、当該ジャンルや自分自身のものの考え方について自己確認し深化させるきっかけを得ることも出来る。批評自体にそのような機能が備わっていなければ、世の中にあまたいる自らは詩や小説を書かずに評論だけを書いている、いわゆる文芸評論家という人たちの存在を説明することが出来ないだろう。

 批評への理解が浅い人の中には、批評というものが作品の外にあるもののように、いきなり外部から闖入してくる雑音のように見做している人がいるらしい。批評を論じる人たちの中にも、同じく批評を作品の外部に置いて語るような論調が見られることがある。だが、批評は作品の場にある。作品と批評は同じ場所に同じ高さで並び立っているものであり、どちらが上でどちらが下などという上下関係があるのではない。作品のあるところには必ず批評があり、批評のあるところには必ず作品がある。そのように作品と批評は入れ子のように互いに影響しあっていて、その二つを切り離すことは出来ない。だから、高みに立って作品を俯瞰するような場所から批評するというのは、作者と作品を成長させるのには役立つかもしれないが、初めから作者や作品と一緒に高め合っていくことを拒否したような立ち位置なので、批評者自身の成長は望めないのではないかと思われる。つまり、良い批評者というのは、高みから作品を見下ろすのではなく、作者と同じ土俵に立って作者と同じように作品について思いをめぐらす者であるのだ。

 また、作品だけに限ったことではなく、あらゆるものは批評されることから逃れられない。私たちが日々生きているこの世界そのものが、作品空間であると同時に批評空間でもあるのだ。たとえば人物批評という言葉があるように、社会の中に生きている限り他者からの批評的な視線にさらされることは当然であるし、またそれがなければ社会生活を営んでいるとはいえないだろう。批評を拒むということは、極端に言えば、人との交際を拒んで社会に参加せずひきこもることにも等しい。そこにあるのは独善的な自我のみであり、その世界はあまりにも狭く貧しい。

 批評をする際に作品の欠点をあげつらって批判するというのは、もちろんありうることだ。だが、その程度のことにいちいち神経を尖らせていたのでは、その時点で駄目な作者とのそしりをまぬがれないであろうし、たとえ批判であっても、より良い作品を書くための助言として受け止める度量も必要だろう。そして批評者の方は、批評することによって自らも「作者や作品と一緒に高め合っていく」という意識が必要ではないだろうか。それは前述した「批評をすることによって、当該ジャンルや自分自身のものの考え方について自己確認し深化させるきっかけを得る」ということであり、なおかつ批評文の作品化ということに留意していれば、それは当然真摯な態度で批評するということにもなる。

 たとえネット上であっても、いったん発表された作品には誰でも批評する権利が生じる(註)。それは言い換えれば、作品自体が批評される権利を持つということでもある。作品から批評される権利を奪ってはならない。作品は作者だけのものではないのだ。そして、作品と批評(作者と批評者)は、互いに手を取り合って成長していくことが出来る。作者は批評されることで成長することが出来るし、批評者は批評することでそれを自らの作品に返して生かすことが出来る。この作品と批評の相互作用、それがすなわち、作品の場を活性化させる最大の武器である。



(註) ただし、『現代詩フォーラム』での「未詩・独白」のカテゴリーのようなローカルルールはあるが、基本的には作品は発表された時点で誰でも批評をしていいものだと思う。


(二〇〇七年八月)



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