余白について考える試み


 詩を構成する要素のひとつに喩や韻律などの他に余白というものがあると思うが、それはどうも語りにくい要素のように思われる。というのも、喩や韻律などは文字としてちゃんと人の目に見える状態で表われているのに対し、余白は文字をともなわずにただの白い空間としてそこにあるだけだからだ。言い換えれば、喩や韻律が独立してそれそのものとして語ることが出来るのに対し、余白はそれのみで語ることは出来ない。常に余白を生み出している文字(詩の内部を形作っている箇所)との関係なしには語れないのだ。地球上のすべての土地に木も草も生えておらず、家やビルなど何ひとつ建っていなければ、それは空地とは言わないだろう。それは単なる荒涼とした空間であり、それが空地と呼ばれうるためには、様々なビルが建っていたり、田畑などに利用されていたり、道路が通っていたり、そうした土地利用を経てなおも余る場所として出現しなければならない。それと同じことで、余白は文字として利用された部分との関係なしには語れない。だから、どうしても語りづらいものがあるのだ。かく言う私も、余白を取り上げて論じるのは初めてのことであり、それだけに見当違いなことを書いてしまいそうで不安ではあるのだが、とにかく手探りで書いてみようと思う。

 先ほど余白は文字との関係なしには語れないと書いたが、試しにいま私の部屋にある書物の中から、小説と詩集と歌集をそれぞれ一冊ずつ取り出してみよう。基本的にどれでもいいのだが、文庫本やアンソロジーなどの類はなるべく避けようと思う。何故なら、それらはスペースを有効利用するためか余白をある程度圧縮してしまっているからだ。なるべくならそのようなシリーズではない初版本やハードカバーのものを選んでおきたい。そこで選んだのが、小説は黒井千次『K氏の秘密』(一九九三年・新潮社)、詩集が池井昌樹『一輪』(二〇〇三年・思潮社)、歌集が武藤雅治『暗室に咲く白い花』(二〇〇七年・ながらみ書房)である。詩集や歌集は時に版型の大きいものが見られるが、ここに挙げたのはいずれも小説と同じサイズの版型である(B6判。歌集『暗室に咲く白い花』のみソフトカバーのため見た目はやや小さく見える)。要するに、小説や評論集などの一般的な文芸書でよく使われるサイズだ。同じ版型の本を複数並べてみることによって、それぞれのジャンルごとに余白への意識の違いが見て取れるだろう。

 こうして見てみると、当然のことながら小説『K氏の秘密』がもっとも余白への意識が薄い。これはひとつのテーマに則った連作短篇集だが、それぞれの短篇のタイトルがあるページにのみ目立った余白がある。本文が始まる前に本文よりもかなり大きな文字でタイトルがあり、その前後を本文四行分ぐらいの余白が占めている。もしもタイトルと本文が同じ大きさ同じフォントで、その間に一行の余白もなく連続して書かれていれば、読者はタイトルと本分を区別出来ず、作者や編集者がタイトルであるとした部分も本文の一部と見做してしまいかねない。だから、ここでの余白は単にその両者を区別するために設けられているに過ぎず、それ以外では読みやすさへの配慮といった意味ぐらいしかないだろう。散文とは住宅密集地のようなもので、そこに未使用の空間が生じることをなるべく避けようとするものだ。また、小説の会話部分などで紙の下の方に目立つ余白が生じることがあるが、それもそういう書き方が慣習になっているという程度のことで、それ以外の文学的な意味はないのが通常である。それに比して、短歌の余白はどうか。歌集『暗室に咲く白い花』は一ページに二首の短歌が印刷されているのみであり、あとはページ数を示すノンブルだけでそれぞれのページにかなり大きな余白がある。単純にすべての歌が三十一音であるとして、仮にそのすべてを平仮名で表記するなら、一ページに合計六十二文字しか記されないということになる。実際には当然漢字と平仮名と片仮名が混合しているので、文字数はもっと少ないだろう。文字の大きさもかなり大きい。小説『K氏の秘密』と比べてみれば一目瞭然だが、それは散文における一文字の占める割合と短歌におけるそれとの大きな隔たりを示している。詩も短詩型文学という点では短歌と同じではあるが、これほど大きい文字で表記されることはまれであろう。ひとつの歌における一文字の比重が高いために、一文字ずつをより丹念に読むことが要求されるし、大きくとられた余白がその意識をさらに高めさせてもいる。

 ここからがやっと本題である詩の余白の問題になってくるが、まずはせっかく取り上げたので、詩集『一輪』を見てみよう。それぞれの詩人や詩作品によって違いがあるが、この詩集の場合は一行の長さがわりと短い。最大で十五文字ぐらいであろうか。そのために、各ページの下の方に大きな余白が現れている。ページの下半分以上が余白である。詩集によく見られることだが、詩が記されているページが三ぺーじとか五ページの奇数になっている場合は、左側のページが丸々全部余白になっている。そのため、次の詩は必ず偶数ページから始まっている。それはひとつの慣習でもあろうが、同時にページをめくるという動作が一種の頭の切り替えにもなっているため、ひとつの詩を読み終って次の詩に進む時にいったんリセットされる、つまり次の詩を読み進むための準備作業が出来るということでもあるのだろう。

 次にこの詩集から離れて、詩全般における余白というものを考えてみたい。詩に余白が現れるにはどんな場合が考えられるだろうか。まずタイトルと本文の間の余白があり、連と連の間の余白があり、同じ行の中にあっても文字と文字の間に余白が現れることがある。また、先述のように行の長さに応じてページの下に余白が現れるし、特に現代詩においては他の連よりも意識的に行頭を下げた連を設けることもあり、そのために他の連がある箇所とは大きさの異なる余白が現れることがある。また、いっけん余白とは無縁のように見える散文詩も、一行の文字数を二十五字とか三十字とか限定することで、余白を生み出している。小説や短歌における余白がひとつの決まった形で出現するのに対し、詩に現れる余白は千差万別である。余白の存在を意図的に有効活用しようとしているのが特徴である。たとえば草野心平の有名な「冬眠」という詩があるが、タイトルの他には大きめの黒い丸印があるだけで、あとはすべて余白だ。この詩に代表されるだろうが、詩における余白というものをいろいろと見ていくと、一種の視覚効果を狙うようなことが多く試みられている。余白がただの紙の余った部分ではなく、そこに書かれた文字と連動することによってその存在が意識されるという構造になっていて、余白の存在によって詩が引き立つようなところがある。それが詩における本文と余白の関係性であろう。このように詩、とくに複雑化して様式が一定ではない現代詩は、余白への意識が高い。何も書かれていない余白を詩の一部として利用しようという考えが、さほど意識的にではなくともそれぞれの書き手の間で共有されているものと思われる。

 余白とは何か? それはただの未利用の空間ではなく、未利用であることが利用していることになるような不思議な空間のことであろう。詩などの文芸において、文字を使って内容を書き記すのは当たり前のことであるが、ページ全体がびっしりと文字で覆いつくされていたとしたら、ただ息苦しくなるだけで中身を味わう余裕はないだろう。以前、地元の図書館で戦後詩の全集本のような大冊を見たことがあるが、それは何と四段組で、ページ全体に小さな文字が大量に記されていた。限られたページ数で少しでも多くの詩を収録するための措置であろうが、それと引き換えにもともとあったはずの余白が削り取られて、余白の付随しない単なる文字の群れとしての詩がそこにあるだけであった。もうひとつ、個人的に思い出したことを書いてみる。もう何年も前のことだが、ある人が私の持っている詩集の余白部分をさしてもったいないと言ったことがある。それは詩と関係のない人であるからこそ出た、効率重視の考え方であろう。確かに現代という時代は、すべての余白を何とか埋めてしまおうと試みる。未利用の空間や時間があるとそれを持て余していると見て、何でもいいのでそれを埋めることに躍起になっている。とりあえず余白が埋められさえすれば、精神的な安心感が得られるからだ。未利用の土地があれば、そこに公園や駐車場を造ったり、店舗やビルを建てようとする。人々が集って会話する場合なども、ふと言葉が途切れて沈黙が訪れると、それに耐えられずに何とか言葉を発しようとする。言わば現代は余白への恐怖を無意識のうちに抱えた時代であり、それを恐れてとにかく何とかそれを埋めようと必死になっている時代だということが出来る。そこを何で埋めるかよりも何でもいいのでとにかく埋めてしまえという考えの方が先に来るので、必然的に質的な低下を招来することにもなってくる。そんな時代の中にあって、余白が付随することに大きな意味性を見出している詩は分が悪い。こんなところにも、詩が読まれない理由の一端があるのかもしれない。

 最後に、タイトルにもあるようにこれはあくまでも試みであり、これをもって自分の余白論のすべてというわけではない。語りきれない見渡しきれない余白がまだ大量に残っているのは承知の上である(もっとも、私の書く批評のような文章のすべてが言ってみれば試みでしかないのだが)。現代詩について語る言説においても、余白論というのは意外なほど少ないように見受けられる。それは余白というものがもともと持つ語りづらさに原因があるだろうし、その静かに置かれているだけの空間が人をとまどわせる力を持っているような気もする。余白についてはまだ語りつくされていない。それはただの白い空間であると同時に、未踏の荒野であるのかもしれない。



(二〇〇八年一月)


 

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