いま詩を書くということ


 いつだって「いま」だった。「いま」の状況を見据え、「いま」の自分の心から導き出すようにして詩は書かれてきた。詩の歴史がずっとそうだったということではない。ひとりの書き手である私自身のことだ。私はいつも「いま」に縛られ、「いま」という時間に促されて書いてきたのだ。誰であってもそれが当たり前のことであるのかもしれない。人は過去や未来に生きることは出来ない。それらの違う時間を意識してはいても、結局身を置いているのは「いま」でしかない。だが、時おりそれが不思議に思えることがある。人は何故「いま」の中でしか生きられないのだろう。時間を飛び越えて歴史のような詩を、また予言のような詩を書くことが出来ないのはどうしてなのか。

 私は妙なことにこだわっている。どうしようもない原理的なことを覆せないからといって、子供のように駄々をこねている。おそらくそれだけのことなのだろう。だが、そう思って納得してはみても、まだ承服しきれない何かが残る。それは何なのか?

 二十五年にも渡って詩を書いてきた。書けない時もあれば、書きすぎるくらいに大量に書いたこともあった。その結果の二十五年。それがこの程度のものでしかないのはわれながら恥ずかしい限りだが、とにもかくにも詩を書いてきた。最初は自己流で気ままに書き始めたのが、次第に意識的に書くようになってきた。「現代詩」や「近代詩」と名づけられた先行詩人たちの詩を読み漁り、それを自分の書くものに反映させようとしてきた。だが、いまになって考えると、私はその読書量に応じて不自由になってきたような気がする。「現代詩」の重みの中であえいでいて、いま詩を書くことが私には少しばかり苦しい。読書の楽しみということもあったが、それと同時に自分の詩作に生かすために読んできた「現代詩」の数々。それはまるで重石か一種の脅迫のように私の前にある。書棚に並べられた数々の詩集の群れが「われわれは現代詩である」と静かに主張している。それでも私は詩が好きで書くことが好きだから詩作をやめることはないだろうが、それらの「現代詩」の重みとあるいはもうひとつ、自らが書いてきた詩、自らの過去の重さに押しつぶされようとしているのだ(大した実績もないのにこういう言い方をするのは変な話だが、ともかく量だけは多く書いてきたのだ)。

 いま、ネットと同人誌と商業詩誌とで(あるいは目に見えない場所でも)、新しい書き手たちが登場してきている。私には彼等がまぶしく見える。年寄りの戯れ言のように聞こえるかもしれないが、彼等には才能と情熱とそれらを表現するための実行力がある。おそらく彼等の若さに嫉妬してもいるのだろうが、二十五年に及ぶ詩作の末にちょっとした迷いを抱えてしまっている私には、彼等のあり方というものが圧倒的に正しいように見えてしまうのだ。ひとりひとりにはそれぞれに悩みや迷いもあるのだろうが、総体的に見てしまえば彼等は自分自身を信じているように思えるし、その信じるという態度が私にとってまぶしく見えるのだ。また、彼等は私のような勉強という過程を潜りぬけずに、素手で詩をつかんでいるようにも見える(あくまでも見えるというだけの話で、若いなりに勉強や努力をしているのだということは承知の上である)。これも若さゆえの特権なのだろうが、その瞬発力が私にとってはうらやましい。

 とにかくいつまでも愚痴を言っていても仕方がない。「いま」という時間とはいったい何だろうかということに戻ろう。若い書き手にとっても私のように無駄に年を重ねた者にとっても、「いま」という時間は等価である。いや、いまの私の気持ちからすると、等価でなければならないのだと言った方がいいかもしれない。八十年代だとか二十世紀だとか二十一世紀だとか、時間をそれぞれのディケイドに分けて考えるのは怠惰なことであるかもしれないが、人が考え出した便利な時間区分であるということも出来る。おそらくそうしたディケイドごとにそれぞれの時代精神というものがあり、後から振り返ってみればあれはこんな時代だったと総括されるようなものなのだろう。いまでは過ぎ去ってしまったそれらの時間もそれぞれの時の現場においてはまぎれもない「いま」であったのであり、詩人たちもその他の人々もその「いま」の時間的位相、「いま」の精神の中で生きていたのだ。そのことにとやかく言うつもりはないし、常に「いま」の中でしか生きることが出来ない人間を後になってどうこう言っても仕方がない。とにかくいつだって大事なのは「いま」であり、それを認められない者は生きられない。過去の中に退行するか、見えるはずのない未来を夢見て座りこむしかないのだ。

 時を自由に駆け巡ることが出来ないからこそ、「いま」は重要なのだ。時はいつも「いま」しかない。常に連続する「いま」の中に置かれて、生きて書きつづけていくしかない。若い書き手にとっては未来が待っているかもしれないし、私にとっては過去が振り返りいつでも調べることの出来るデータベースとしてあるのかもしれない。前のめりになりそうになるのと後ろ髪を引かれそうになるのと、それぞれに方向は異なっているように見えるかもしれないが、両者ともに足はしっかりと「いま」の土壌の上にある。いま詩を書くということ。歴史の総括や検証でもなく未来への不確かなヴィジョンでもなく、「いま」の混沌の中でとりあえず書こうとすること。すべての人がその日一日を生きているように、いまここにある空気を吸っては吐き出すように書いていくこと。それがまぎれもない「いま」の書き手たちの実存である。迷っている場合ではない。「いま」に向かって進むのだ。私の「いま」はここにあり、同じく「いま」を生きている人々とともに唱和することを私に要求している。



(二〇〇八年一月)


 

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