水在らあらあの「あるところ」


水在らあらあ「あるところに」

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 すべてを物語の中に回収する。詩は物語と渾然一体となって、その中に溶けてしまう。リズムはいい。心地よいといってもいいくらいだ。それがこの作品を物語でありながら詩でしかないものにしている。だが、私がこの詩の中で気になるのは、そんな表面的な意匠ではない。表題にもなっている「あるところ」とはいったい何なのか? それがとても気になる。
 曖昧に「あるところ」と書くからには、それは特定の場所ではありえない。少なくとも、テクストから素直に読み取るならば、そう読むしかない。作者がこの詩を書くきっかけになった事実というものがあるのかもしれないが、そんなことはいまのところどうでもいい。ただ、テクストに表われているものだけを読む。「あるところ」とは何か?
 とりあえず、書き出しは無難である。まるで昔話のような語り出し。「あるところに男と女がいて」と、そう書かれるだけで物語は難なく滑り出していくことが出来る。次の第二連も同様。当たり前すぎるぐらいに当たり前だ。だが、第三連から様子が変ってくる。「あるところ」のはずなのに、急に「なかがみ公園」といった固有名詞が出て来るし、「CUBEとかいう車」も車種のひとつではあるものの固有名詞に近い書かれ方をしている(余談だが、次の行の「青空を否定していたよ」は好きな行だ)。「あるところ」に具体性を持たせるために、それに肉付けをしていく過程が表われているのだろうが、ここで固有名詞を出してしまうのはまだ早いのではないか。あるいは、固有名詞をいっさい出さない方が全体のムードを壊さずに済むと思う。
 第四連から第六連まで、さらなる肉づけが行なわれる。つづく第七連。「あるところ、それは日本で、」という行が出て来る。「日本」という大きな括りではあるものの、またしても固有名詞だ。この詩が「あるところ」での物語であるなら、このように固有名詞を使うのは反則だろう。あるいは作者がこの詩を書く時に「気分的なもの」で何となく置いてしまった言葉なのかもしれないが、これでは「あるところ」の物語そのものの根幹を揺さぶりかねない。同じ連のつづく行で「それは泡で、」「それは夢で、」「嘘で、希望で、輝いて、凍えて」と抽象的かつ観念的な言葉(ある意味「あるところ」が本来指向すべき抽象性と観念性に沿った言葉)が並べられているので、この「日本」という固有名詞はなおさら浮いてしまっている。全体的にムードで読ませる詩なのだから、そのへんの配慮が足りないのは惜しまれる。
 第八連以降第十三連まで、「あるところ」へのさらなる肉づけというか、物語の展開が見られる。そこで語られている物語に是非はない。全体の流れの中にすんなりと収まっていて、物語はよどみなく語られている。驚くのは、次の第十四連と第十五連だ。そこに至るまでの「あるところ」は、一種の理想的なユートピアのような調子で語られている。読者も心地よい波のような物語のリズムに乗って読むから、なおさらそのような印象を受ける。しかし、この二つの連で語られるあるところは、一種の「怖い」ところである。ユートピアが逆転して、非ユートピア的な属性が「あるところ」に与えられている。そして、この部分の話者はいったい誰なのかということも気になってくる。それまでの連では、第三連や第九連などの例外を除いて、物語は第三者のいわば神のような視点で語られている。ところが、この部分だけまるでそれまで隠れていた真の話者がひょっこり顔を出して、本音を語っているように見える。ユートピア的な価値観の転倒と話者の切り替えがここでは同時に行なわれていて、それゆえにこの部分はいっそう強く読者の眼前に何かを訴えかけてくる。あるいは、第三連と同じくここは単に子供が話者になっているのかもしれないが、それでもこの話者の切り替えは実に効果的だ。私がこの詩でいちばん好きなのは、実はこの箇所なのだ。後につづく最終連の五行はふたたびスタート地点の物語を語り出す場所に戻っていて、そうした構成がいっそう直前の「怖いよ」と本音を語る部分を強く浮き彫りにしている。この本音の部分がなければ、この詩にはほとんど価値がないと言ってもいいくらいにこの部分は重要だと思われる。
 個人的な好みを言わせてもらえば、この詩で書かれていることはあまりにもまっとうすぎる。当たり前すぎてつまらないと言ってもいいくらいだ。どこかムードに流されすぎているようなきらいがあるのも、警戒したいところだ。だが、いろいろ欠点はあるものの、名もない小市民のような目線で語られているところは悪くないし、「あるところ」の表出にもある程度成功していると思う。
 結局「あるところ」とは何なのか? それはおそらくどこでもなくてどこにでもある場所なのだろう。ひとつの名づけることの出来ない場所。だからこそ、そこは「怖い」場所であるし「美しくて/輝きに満ちて」もいる場所なのだろう。私たちはひとり残らず「あるところ」に住んでいる。ほとんどの場合、そこで起こる物語は回収されたり語られたりすることはない。だが、そんな「あるところ」を慰撫するように語る一篇の詩があれば、私たちのそれぞれの「あるところ」は「輝き」を失わずに済むだろう。



(二〇〇七年一月)


 

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