七〇年代詩の均質性


――荒川洋治・稲川方人・平出隆を中心に


 日本の現代詩の歴史を顧みると、いくつかのターニングポイントとも言える節目があることに気づかされる。もっとも大きな節目は第二次大戦後の一九五〇年代にいわゆる戦後詩人たちが次々と第一詩集を刊行した時期であろうが、二十一世紀のの現在につながる大きな節目のひとつとして見逃せないのが、七〇年代詩人たちの登場だ。七〇年代後半、その幕開けを飾るように、荒川洋治が『水駅』(一九七五年)によってH氏賞を受賞したのが象徴的だ。その後、一九七六年に稲川方人と平出隆がそれぞれに第一詩集を刊行した。この小文では、この三人を中心に七〇年代詩人について少し考えてみたいと思う。

 便宜上「七〇年代詩人」と呼称されてはいるが、彼等は七〇年代の十年間にまるごと詩人として目立った活動をしてきたわけではない。七〇年代の前半はまだ六〇年代の名残りが強く、吉増剛造や天沢退二郎などの六〇年代詩人たちが精力的に活動していた。彼等七〇年代詩人たちがそのような呼称をつけられたのは、そう名づけることによる詩壇の外部への宣伝効果という面もあっただろう。彼等がもっとも精力的に活動し現代詩の根幹にまで影響を与えるような詩作をつづけていたのは、主に七〇年代後半から八〇年代にかけてである。いちおう年譜的事実を列挙すると以下のようになる。



 一九七五年・荒川洋治『水駅』

 一九七六年・稲川方人『償われた者の伝記のために』

       平出隆『旅籠屋』

 一九七七年・『新鋭詩人シリーズ・平出隆詩集』

 一九七八年・『新鋭詩人シリーズ・荒川洋治詩集』

 一九七九年・『新鋭詩人シリーズ・稲川方人詩集』

       荒川洋治『あたらしいぞわたしは』

 一九八〇年・荒川洋治『醜仮廬しきかりいお

 一九八二年・平出隆『胡桃の戦意のために』

       荒川洋治『遣唐』『針原』

 一九八四年・平出隆『若い整骨師の肖像』

       荒川洋治『倫理社会は夢の色』

 一九八五年・稲川方人『封印』

 一九八六年・荒川洋治『ヒロイン』

       稲川方人『われらを生かしめる者はどこか』

 一九八七年・平出隆『家の緑閃光』



 このリストを見ると、七〇年代後半から八〇年代前半にかけて、荒川洋治がもっとも多くの詩集を出している。荒川は『水駅』以前にも第一詩集となる『娼婦論』を一九七一年に出している。それに反して、稲川方人はかなり寡作。平出隆はこの時期に精力的に活動をしたものの、九〇年代以降はほとんど沈黙している。

 ともかく、七〇年代後半から八〇年代にかけて、彼等が詩人として、また批評家として、精力的な活動をしていたことは確かだ。そのようないわゆる「七〇年代詩」とひとくくりにされるような(または、ひとくくりにしたくなるような)共通の雰囲気を彼等が体現していたことは確かだと思われる。



いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金はっきんのひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。

(荒川洋治「見附のみどりに」詩集『水駅』)

 おそらく荒川洋治のこのような詩句、とりわけその中に含まれた「口語の時代はさむい」という広告コピーのような一節が詩壇ジャーナリズムの口の端に上った時から、「七〇年代詩」は始まったのだろうと思われる。また、平出隆が吉岡実の影響が顕著な連作「花嫁」で詩壇に登場してきた時、前世代の影響をあからさまに見せながらもどこか妙なとまどいを見せる詩句の中に、詩壇ジャーナリズムは現代詩の行き着く先を夢想したのかもしれない。



ぼくの花嫁は花嫁衣裳
あるいは
荒縄で編まれた袋のなかで
日付のない夜の唄を槌うつ
具体的にはくしゃみをする

ぼくの花嫁は花束を持たぬ
愛すれば暴発する拳銃をむしろ握る
墓石のあける朝
あした襲撃する花曇りの青の宇宙を
ぼくの花嫁は背泳ぎする

(平出隆「花嫁T」)

 影響というより、「まんま吉岡実」とも言えるようなその詩句は、読んでいて微笑ましくさえある。また、稲川方人の長篇詩とも断章集とも言いうるような詩集の登場によって、一篇の詩よりも一冊の詩集としての詩の総合体へと批評の目が向けられた時、現代詩の現実は静かに変容し始めたのだろう。



まず死者が棚を濡らしてすぎていった。
旗のなかで(おそらく蒼白の)
わたくしが把握する、主題。そののち
(おそらく魚らのたぐいの)唇を突出していった。

(稲川方人『償われた者の伝記のために』より)

 稲川方人の詩集の多くは、部分引用が困難だ。それは彼の詩集があちこちにばらばらに発表された詩をただ寄せ集めただけのものではなく、それらを再構成し、大胆に加筆修正を行なって一冊の言語空間としての「詩集」という容器の中に溶かしこんでいるからだ。そうした作業を施しているために、詩集のどのページを開いても、言葉は均質化している。どの言葉も他の言葉と肩を並べて静かに収まっているだけで、声高に自らの存在を主張するようなことはない。ある意味、特定の言語が突出する事態を意図して避けているようにさえ見える。平出隆も『胡桃の戦意のために』以降の詩集で似たようなことをしているし、後の世代の詩人では朝吹亮二の『opus』などが思い浮かぶ。こうした手法は西脇順三郎の『旅人かへらず』という前例があるが、おそらく多少の影響はあるのだろう。こうした一冊の書物としての言語空間を構築するという手法は、七〇年代詩以降特に珍しくなくなってきた感がある。

 だが、こうした均質的な言語空間を構築する行為は、現代詩全体を矮小化する方向に働いてしまっているのではないかと思う。七〇年代詩から八〇年代、九〇年代、そして二十一世紀の今日に至るまで、日本の現代詩は「七〇年代詩」というものをひとつの大きな分岐点とするように、大きな「言語の均質化」の波にさらされているように思える。一般の人々が「現代詩」と聞いて眉をひそめるような、難解性が確立してしまったのだ。七〇年代詩人たちと同世代で八〇年代以降に活発に活動を始めた瀬尾育生などは、そうした流れを代表する詩人である。また、七〇年代詩人の先頭を切って時代を走りつづけてきた荒川洋治も、そうした言語均質化の波から逃れえていないように思える。常に詩壇よりも世間を意識し、彼等のような難解な詩を書く詩人たちを「IQ高官」と呼んで糾弾した荒川だが、彼のここ十年ほどの仕事には同様の均質性(金太郎飴のような、と言った方が早いか)が蔽うべくもなく表われている。



お尻にさわる
いい言葉だ
日本が残すことのできる言葉は
これくらい
しか
ないだろう
というところに来た
それは言葉がすべてあまさず
そこにあるもの見えるものだけにくっつく
よろこびを知りそこに憩ってしまったからだ

(荒川洋治「渡世」詩集『渡世』)

 このような詩行で言語均質化の波を皮肉っているのかもしれないが、彼の詩集『渡世』(一九九七年)も『空中の茱萸ぐみ』(一九九九年)も、内容的にそう大差はない(単に私の読みが足りないだけなのかもしれないが)。荒川もまた詩壇ジャーナリズムの中にいる以上、その趨勢からは逃れられないのだ。

 稲川方人、平出隆(それに瀬尾育生を加えてもいいが)、彼等のやや内にこもった衒学的嗜好性と、荒川洋治の世間に目を向けながらも地を這うような同質の詩を量産していく姿勢も、ともに「言語の均質化」という点では軌を一にしている。七〇年代詩が後の現代詩全体に与えた影響は大きいが、こうした均質的な言語が幅を利かせることによって、七〇年代詩以前の現代詩までも同様に均質化されたものであるかのような視線で見られることになった。とりわけ稲川や平出以降の衒学的詩人たちの祖と目される西脇順三郎、吉岡実、入沢康夫らの詩がそのような視線にさらされている。これらの先達のすぐれた達成が、曇りない目で読まれることがなくなったように思える。それはとても不幸なことだ。

 言ってみれば、彼等七〇年代詩人たちは、自ら意図することなく現代詩を袋小路に追いこんでしまい、現代詩に「死」をつきつけてしまったのだ。ある意味でそれはラジカルな行為であったのかもしれないが、現代詩がいまだその袋小路から脱け出すすべを見つけていないように思えて、彼等七〇年代詩人たちが現代詩に残した傷跡が想像以上に深いものであることをわれわれは知るのである。



(二〇〇七年一月)


 

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