夭折をあきらめて夜が明けてゆく


 かつて、いまよりもずっと若い頃、僕は夭折に憧れていた。いま考えると何とも恥ずかしい話であるが、かつては若くして死ぬことに感情的に強く惹かれていたのだ。中学生の頃から詩のようなものを書き始めていた僕は、日々胸中に沸き起こる感情を題材にして猛烈な速度で書きながら、心のどこかでぼんやりと自分は遅くても三十歳ぐらいで死ぬんだろうなと思っていた。時代は八十年代に入ったばかりで、ちょうど「ノストラダムスの大予言」というものが何度目かのブームを見せていた。一九九九年に人類が終ってしまうのなら、その時自分は三十二歳。頑張っても仕方がないのかもしれないなどと、若くして厭世的な気分になったりもしていた。少し成長して、二十歳を過ぎてからも、中原中也や立原道造などの夭折詩人の詩に強く惹かれたりしていた。

 恐らく、精神的に未熟だったのだろう(それはいまでもあまり変らないのかもしれないが)。確固たる自分というものを確立出来ない、自分を信じきれないからこそ、成長することを拒み、もうそれ以上成長しなくても済むような夭折に憧れていたのだろうと思う。



僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳だ
おまけにそれを嘆きもしない
僕はいよいよの無一物だ

それにしても今日は好いお天気で
さつきから沢山の飛行機が飛んでゐる
――欧羅巴ヨーロッパは戦争を起すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか

今日はほんとに好いお天気で
空の青も涙にうるんでゐる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
子供等は先刻せんこく昇天した

(中原中也「秋日狂乱」より)

 このような世の中に対する無関心、どうでもいい感じ、淋しさを感じてはいるのだけれど、それを積極的に打破しようとしない感じ、一種の虚無感とでもいうのだろうか、そんなものを僕も持っていた。どうでもいいと思って、何に対しても能動的になれない怠惰。そんなものが心の領域の多くを占めていたら、自ら進んで死を選ぶことなど出来るわけもないのだが、こんな虚無感こそが死への出発点なのだろうと、ぼんやりと思っていたのかもしれない。誰かからおまえは甘えているのだと言われたならば、何も言い返すことが出来なかっただろう。いま思い返してみると、まったくその通りだと言うしかない。毎日きちんと食事を与えられ、教育を受けさせてもらえる、そんなぬくぬくとした生暖かい環境の中で、心の中の観念を弄んで甘えていたに過ぎないのだ。

 だが、時は万人に共通に流れる。僕のような大人になりきれない未熟な者も、いやおうなしに年齢を重ねていく。若くして死ぬことは、ひとつの物語として見るならば確かに美しいものかもしれない。だが、この世の中において何も達成出来ずに死んでしまうのは、あまりにも淋しすぎる。僕は夭折に憧れながらも、ひと通りの仕事、世の中に対して誇れるような「自分はこれだけのことをしてきた、これだけやったのだから後悔はない」と言い切れるような何かを残してから死にたいと願ってきた。それは具体的に言えば自分の詩作のことであるのだが、二十代中盤でまだ惑いの中にいた僕はいまだ何も成し遂げてはいなかった。相変らず猛烈に書きながら、これでは駄目だ、この程度では世間に対して自分を証明したことにならないと、自らに対して常にいらだちつづけていた。そうやって孤独な詩作に公の仕事に日々を過ごすうち、僕はいつしか夭折という観念を忘れ始めていた。僕は三十歳を過ぎ、相変らず何も成し遂げられないままだった。ノストラダムスの一九九九年は、何事もなく過ぎ去っていった。僕は日々の生活を惰性で過ごしながら、夭折という観念をますます忘れていった。

 そして、二十一世紀が訪れた。僕の書く詩は次第に何とか見られるものに変りつつあった。結局、詩を書きつづけていくしかないのだと思い決めた僕は、ゆっくりとではあるが、人の詩を読んではそれを自らの詩作の糧とする作業を繰り返していた。何事もなく平穏に訪れた二十一世紀。だが、そんな中、ある事件が起こった。僕の実の妹が亡くなったのだ。衝撃だった。現実感を欠いた信じられないという思いがやってきて、少し遅れて悲しみがやって来た。春の日ざしの下で妹の遺影を持って歩きながら、これからはいよいよひとりきりなのだなと思った。正直に言えば、先を越されたと思った。夭折という観念に強く憧れながらそれを果たせずにいた僕は、ほんの少し悔しかったのだ。ともかく、妹は死んだ。若くして死んだ。夭折という一連の物語の中に、妹も加えられた。この事件が、僕にとって本格的に夭折をあきらめるきっかけとなった。三十代も後半にさしかかって遅すぎるとも言えたが、妹のおかげで生きつづけるという選択が僕に与えられた。先を越されて悔しかったと書いたが、同時にそれは、若くして亡くなってしまった妹の人生に対する悔しさでもあった。妹のためにも、出来るだけ長く生きのびなければならないと、僕は思った。

 もう一度、中原中也の詩集のページを繰ってみる。夭折という観念を中心にして読むと先ほどの「秋日狂乱」のような淋しさと虚しさを湛えた詩ばかりが目につくのだが、夭折から生の方へ目を向けて読んでみると、かつては目に留まらなかった詩が心にしみた。



月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだがそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、たもとに入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれはほふれず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先にみ、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

(「月夜の浜辺」全行)

 有名な詩だが、普段はさりげないごく普通の抒情詩として読んでいた。だが、夭折と生の対比ということを念頭に置いて読むと、生へのもったいなさというか、生に対するかすかな執着のようなものが表われているようで胸に迫ってくる。「月夜の晩に、拾つたボタン」がどうしても生の象徴のように思えてしまう。たまたま拾ったもの、自ら望んで生まれてきたわけではないのだが、ひとつの拾い物のように得てしまった「生」というわけのわからないもの。それはやはり「捨てるに忍び」ないものだろう。かつての伝説の夭折詩人のこんな詩を読みながら、彼等だってもっと生きていたかったのかもしれないと、僕は思い始めていた。

 二十一世紀は、相変らず個人の生に対して無関心な顔で、ただ無言で今日という日をひたすら更新させている。僕はといえば、詩を読み、詩を書き、日々の仕事に取り組み、若い頃と同じように何かに憧れ、それを得られないことに傷つきながら、日常を何とか生きのびている。魅惑的な詩を読んでいると、時間を忘れてしまう。僕は詩を読み詩を書きながら大人になった。いつの間にか、大人になった。もう惑うことの許されない年齢が、もうすぐやって来る。夭折をあきらめ、詩の中に深く浸っているうちに、夜が更け、夜が明けた。僕はもう、夭折のことを思わない。ただ詩のことを、これから先の日々のことだけを思う。生きつづけなければならない。



(二〇〇七年一月)


 

 戻る   表紙