ピラミッドは三角か?


 詩の批評ということについて、少し考えてみたい。とりわけ、批評の必要性について。既にわかりきったことであるのかもしれないが、自分の頭の中を整理するためにも、ひとつの文章を書いておきたいという気がする。

 ピラミッドというものがある。世界中に様々な種類のピラミッドが存在するが、ここで取り上げるのはエジプトにあるピラミッド。「ピラミッド」という言葉を聞いて多くの人がイメージする、クフ王の陵墓であるとされている通称大ピラミッドだ。ピラミッドの形を思い浮かべてみよう。それは、大抵の場合三角形の建造物としてイメージされると思う。だが、ピラミッドはただ三角の形をしているだけではない。地上から見れば確かに三角に見える。しかし、上空から見れば、それは四角形に見える。ピラミッドは四角錐だから、上空からは四角形(それもほとんど正方形)に見えるのだ。このように、同じものでも視点を変えることによって違って見えてくる。ある者はピラミッドを地上から見て、この物体は三角形であると言い、ある者は上空から見て四角形だと言う。また、別のある者はピラミッドのすぐ側まで行って観察し、この物体は一見三角や四角に見えるが実は巨大な長方形の石を数多く積み重ねて造られたものであると言う。そのように、見る者が変れば見えてくる姿も変ってくる。それが視点の多様性であると同時に、対象物そのものが先験的に秘めている多様性でもあるのだ。

 これを詩の批評というものに置き換えて考えてみよう。ひとつの詩作品に対して、複数の者が意見を述べる。それぞれに微妙に意見が異なっていて、作者も読者も、いままで気づかなかった視点からの意見を聞いて眼を開かされるような思いを味わう。ここに批評の意義というものが存在する。詩の作者もまた、ひとりの人間でしかありえない。ひとりの人間が獲得出来る視点は限られている。だが、世の中には様々な人間がおり、様々な考えが存在する。ひとつの詩作品に対して、作者の思いもよらぬ方向から攻めこんでくる者がいる。作者が三角形であることを意図してつくられたものに対し、否、この作品は四角形ではないのかという作者の思惑とはまるで違った感想をもらす者が出て来ることも充分にありうることであり、その際、作者は自らの「この作品は三角形である」という観念に囚われることなく、同じ作品の「四角形としての側面」を素直に傾聴するべきであろう。よく言われることであるが、作者は作品を公表した時点でその作品について余り多くを語らない方がよい。多く語りすぎると、作者がつくり上げた意図を読者に押しつけることになり、それは作品そのものが本来持っているはずである「読みの多様性」というものを読者から奪う、いわゆる解釈の押しつけということにもなりかねない。それは、作品にとっても作者にとっても、とりわけ読者にとって、大変不幸なことであるといえる。

 たとえば、ここにひとつの詩作品がある。面倒なので自作を引用するが、こういうものだ。



ふたたびの雨

   ――Sに




ひとつの雨
ふたつの雨
それらが落ちてきて
地上に 着地して

ひとつの感情を形づくる

ひとたびの雨
ふたたびの雨
降れば地上は濡れそぼる
降れば地上は大洪水


私の名は雨
またの名は 水
それらが落ちてきて
地上に落下して
雨は墜落死
雨は息絶えて

ひとつの感情を形づくる

私が雨であるならば
あなたは晴れ
晴天の笑顔
私の元に訪れた
青天の霹靂

ひとたびの雨
ふたたびの雨
降れば私の気がくるう
降れば私の

ひとつの感情が形づくられる

(後略)

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=79489

 あまり大した出来であるとは言えないが、わかりやすいし、これも作品である以上はぶざまではあってもピラミッドのひとつではあるだろう。

 私はこの詩を一種の恋の歌として書いた。それは私がこの詩を書こうと思った時からすでに明らかなことであって、私にとっては疑う余地のないものである。だが、人によってはこの詩を雨の降る情景を描いた抒情詩として受け止めるかもしれない。確かにそういう側面もあることは否定出来ない。何しろ全篇にわたって「雨・雨・雨」であるから、語り手の「私」や「あなた」よりも「雨」の方に重点を置いて読まれたとしても不思議はない。私はこの詩が恋の歌であることを示すために冒頭にわざわざ「――Sに」という献辞を掲げているのだが、読者の自由な解釈を容認するという前提に立てば、このような献辞も本来は無用のものであるはずなのだ。この「S」が詩の中にある「あなた」と同一人物であることは見えやすいが、もしも献辞がなければ「あなた」はどのように解釈されていただろうか。「あなた」を語り手の恋愛対象ではないと仮定して読むとするならば、語り手である「私」の意味も当然違ってこなければならない。「雨/私の名は雨」などという行があるために、これを素直に解釈して「私」=「雨」、すなわち「雨」が擬人化された姿が「私」ということになる。そうすると「私が雨であるならば/あなたは晴れ」という行から、「あなた」とは「晴天」の擬人化ということになる。かなりややこしい解釈になるが、このような読みをすれば、この詩が「雨の降る情景を描いた抒情詩」であるとしてもあながち間違ってはいないだろう。もっとややこしい見方をすれば、この詩を恋の歌であると認めた上で「雨」および「晴天」の擬人化であるところの「私」と「あなた」を「あなた」に恋をする「私」へとつなげている(またはスライドさせている)という見方も出来る。この詩の作者である私は、どこか無意識のうちでそういう操作を施してこの詩を書いたかもしれないのだ。

 いま「無意識」という言葉を使ったが、批評の意義が作者でさえ気づいていない作品の別の側面を言い当てる行為であるとするならば、作者が作品を書く時に無意識の手助けを借りて書いた部分を探り当てるということも、批評が担うべき役割であるのかもしれない。何せ無意識であるから、作者はそれに気づいていない。それを第三者であるところの批評者(こんな堅苦しい言葉を使わなくても、単に読者としてもいっこうにかまわないのだが)に言い当てられれば、作者は眼を開かされる思いを味わうことが出来る。自分はそんなことを書いていたのかと思い、無意識で書いていた部分を今後の詩作においては意識して書こうと試みる。そして、そこに作者がひとりの書き手として成長する可能性が生じる。

 作品と批評は、そのようにして二人三脚のような歩みを進めることが出来る。もしも作者が自作に対して自らが意図したものを強硬に主張しすべての批評行為をはねつけてしまうのならば、非常に不幸なことであると言わざるをえない。作品は作者がつくり出すものであるが、いったん発表されてしまえばそれを鑑賞するのは読者の役目である。作者から見ていかに見当違いの読みであっても、そこに読者の作品に対する真摯な読みの努力がある限りにおいては、いかなる読みも否定されるべきではない。批評は時に作品に対する批判も含まれるが、それは決して批判のための批判ではなく、作者とその作品、もっと大きく言えば詩という表現形式全体にとって有意義だと信じるがゆえの批判なのである。「批評」という言葉が高踏的に感じられるのならば、単なる「鑑賞」でも良い。作品は作者とは異なる他者の視点にさらされることによって、よりいっそう輝きを増していくのだ。


 さて、ある作者がつくり上げたピラミッド(作品)は、果たして三角形をしているだろうか。ピラミッドの建造者である作者は、口をつぐんで自らが生み出した建造物に感嘆する人々を眺めるが良い。あなたのつくり上げたピラミッドは、三角でもあれば四角でもある。ピラミッドはただ大きな謎として、それを鑑賞する人々の前に静かに聳え立っているのだ。



(二〇〇六年十二月)


 

 戻る   表紙