鯨の夢


鯨の夢を見た
思い出の総体が
巨大な影となって
海面で揺らいでいる
それは果てのない海のなかで
自ら道をつくっては
時おり浮かび上がって
潮を噴き出している
記憶の噴出
忘れていたはずの
遠い叫び
それを眺める
空からの視線
水に覆われた惑星の
ゆるやかな丸みまでが目に入ってくる
鯨はその巨体を
沈めては また
浮かび上がらせる
思い出の歌が ふと
喉元にまで
浮かび上がってくるように
また 記憶につけられた小さな傷が
鎮められていたのに また
浮かび上がってくるように
その姿を見つけるたびに
あらためて気づかれるもの
忘れていたはずの
遠い谺
だが 記憶は
またしても騙そうとする
私たちが何者であって
何者でなくてはならなかったのかを
海のなかの
どんな自由な道を
私たちがたどってきたのかを
そんな夢のなかで
眠りに落ちる
私たちの総体が
私たちの記憶の総体が
どんな畏怖をもって
迎えられるのかを 教える
忘れていたはずの
遠い囁き
それとともにふたたび眠り
夢の夢を見る
だが どんな大きなものでも永遠ではない
大きすぎる記憶も
人に知られない海の底で
いずれ朽ちてゆくのだ
私は私だけの小さな夢のなかで
大きすぎるものに心を奪われて
我を忘れていたのだが
振り返ると
誰もいない
私の大きな記憶のなかの
一部であったはずの
人々が見当たらない
忘れていたはずの
遠い歌
どうしても憶えることの出来ないそれが
夢のふちで鳴り響くと
私はようやく目醒める
とても長い道だった
海面にまで浮かび上がる
巨大な鯨
その姿を次第にぼやけさせながら私は
忘れていたかったはずの
遠い道を
ふたたび歩き出す


(二〇一六年九月執筆)


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